水俣病4 | 化学物質過敏症 runのブログ

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・発見に関わる経過
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。
1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。

•1946年:日本窒素がアセトアルデヒド,酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。

•1949年頃:水俣湾でタイ,エビ,イワシ,タコなどが獲れなくなる。

•1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。
ただし認定は20年後。

•1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し,ネコの狂死が相次ぐ。
以後,急増。

•1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。

水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。
この日が水俣病公式発見の日とされる。

•1954年:熊本県水俣でのちに水俣病と認定された患者が12人発生。
ほかに5人死亡。

当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。
原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。
水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。
その事が現在も差別や風評被害につながっている。

•1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。
5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。
後に水俣病の「公式確認」となる。
この年,50人が発病し11人が死亡。

1956年頃から、水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇していたが、1961年、胎児性水俣病患者が初めて確認された。
水俣ではその後、合わせて少なくとも16例の胎児性患者が確認されている。
水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。
さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。

•1957年:水俣保健所の実験で,水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生。

•1958年:熊本県が水俣湾海域内での漁獲を禁止。

水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに食糧を魚介類によらざるをえなかった為、被害が拡大されていくことになった。

水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの誹謗中傷が行われたり新日本窒素肥料への批判を行う者を差別することも多かった。