東 京 衛 研 年 報 53, 2002 は次のような仮説が提唱されていることを紹介している.
①暴露の反復による化学物質に対する耐性の喪失が,時間依存的に神経細胞に生ずる.動物のキンドリング(Kindling)現象がモデルとしてあげられる.
キンドリングとは,脳,主に扁桃体への痙攣を起こさない程度の刺激でも、反復することにより時間経過に伴い完全な痙攣を起こすようになる現象である.
②嗅覚系,辺縁系,中間辺縁系とそれに関連する中枢神経伝導路が,神経シグナルと物質分子輸送により辺縁系を直接刺激し,その反復により感作が起こる.
③神経原性スイッチングと呼ばれるもので,化学物質がシナプス等を通じてC-神経線維を刺激することにより,軸策反射や自律神経反射を介して多臓器に症状をきたす,というものである.
MCSとアレルギーは環境因子への暴露によって炎症性の反応が起こる点で極めて似ている.アレルギーは環境タンパク(抗原)が肥満細胞上のIgE抗体に結合し,炎症性メディエーターを放出するのに対し,MCSでは低分子量化学物質がC-神経線維上でケモレセプターに結合し,炎症性メディエーターを放出すると考えられている39).多器官にわたる非常に多彩な臨床症状を呈し,通常の理学的検査,生化学的検査では異常が認められず,女性が約8割と多いのが特徴で,個人により感受性が大きく異なる40).
MCSについては,共通の定義や診断の基準がなく統一されていないことから,信頼しうる疫学データはこれまで報告されていない41).
米国ノースカロライナでの電話による疫学調査で「化学物質に過敏」と回答した人は回答総数(1027名)の33%,毎日,化学物質過敏症状が表れる人は3.9%で,アレルギーと回答した人は35%であった42).
カリフォルニアの行動リスク要因調査(BRFS)では,4,046名を対象に電話による質問を行ったところ,回答者のうち6.3%が医師によって化学物質過敏症あるいは環境病と診断されており,15.9%が化学物質に対し,毎日,アレルギーあるいは異常な過敏状態になると答えている43).一方,わが国では,内山ら44)が全国4,000人の男女について面接調査したところ,実際に化学物質過敏症と診断されたことのある人は,回答者2,851人中28人で約1%であった. わが国の現状では受診者が少ないことを考慮すると,もっと多くの患者が潜在していると考えられる.
環境省の研究班ではMCSとアレルギー,IEI,中毒等との異同についての検討等を行う「本態性多種化学物質過敏状態の調査研究」が進められている.2000年度の報告45)では,微量の化学物質暴露(ホルムアルデヒド0,8,40 ppb,トルエン0,130,260 μg/m3)による過敏状態の誘発を二重盲検法により検討したところ,非患者群と比べて患者群で自覚症状の変動が大きくなった.
患者群についてみると濃度が高度になるに従って症状が悪化するものから,濃度と関係なく症状の変動がみられるものまで,各人によって自覚症状に様々な傾向を示し,共通したパターンは得られなかった.今後は二重盲検法による対象者数を増やして調査を行うとしている.
SBS
1970年代に二度にわたる石油ショックを受けた欧米では,冷暖房費を節約するため,建築物の省エネルギー化(換気回数の低減)が進められた.
その結果,1980年代の初め頃から,欧米各地のいわゆる省エネビルにおいて頭痛,眼,鼻,喉の痛み,粘膜や皮膚の乾燥感,息切れ,咳等の呼吸器系の諸症状,めまい,吐き気等,体の不調を訴える居住者が多数あらわれ,SBSと呼ばれた46).
WHOで定義したSBSの診断基準47)を表8に示す.WHOの空気質に関するガイドライン48)では,SBSの症状は問題の建物の中にいる時に誘発され,退去すれば軽快する特徴があり,その原因には物理的要因(温度,相対湿度,換気,照明,
騒音,振動等),化学的要因(タバコ煙,ホルムアルデヒド,
VOC,殺虫剤,芳香剤,一酸化炭素,二酸化炭素,二酸化窒素,オゾン等)や生物学的及び心理学的要因があり,症状とこれらの要因との間に明確な関係が認められないと述べている.要するにSBSと診断するのに,建物が原因であると
判断されれば十分で,建物の何が原因かは問わないということである.