5.微量化学物質による健康影響
一般に室内空気中に存在する化学物質の濃度は,労働環境基準よりもはるかに低く,従来の中毒の概念では影響が認められないと判断されるような低レベルである.患者が症状を訴えても,医師が「室内空気質に起因する疾患」と判断することが困難なケースでは自律神経失調症や更年期障害等と診断されてきた.
また,同居家族にはまったく異常が認められないケースが多いことも周囲の理解を得にくくしている.
現在,室内空気中の微量化学物質に起因する疾患としては,化学物質過敏症とシックハウス症候群の二つの捉え方がある.いずれもまだ研究途上で明確な病態把握をするまでに至っていない.
さらに,アレルギーも微量化学物質と関連があると言われている2,3).以下に,これらの疾患について事例を交えながら概説をする.
5.1.化学物質過敏症
ある化学物質によって一旦過敏な状態が獲得されると,極めて微量な他の化学物質に対しても過敏な反応が引き起こされる病態は,1960年代にRandolph33)が提示した報告が最初とされている.しかし,病態が不明確であったことか
ら,当時医学界では十分な議論はなされなかった.
その後,1987年にCullen34)がこのような疾病像に対し,多種化学物質過敏症(MCS ; Multiple Chemical Sensitivity)という
言葉を提唱した.MCSという用語は現在最も広く使用されており,その定義を表6に示す.その後,いくつかの考え方が提唱されているが,1996年にベルリンで開催されたWHO(IPCS),ILO合同ワークショップ35)では,MCSといわれる病態が確定していないとの考えにたち,
①複数の反復的な症状を示す後天性の疾患,
②大多数の人々では問題とならない多様な環境要因と関連する,
③これまで知られている医学的,精神科学的疾患及び心理学的疾患では説明不可能な疾患を当面,Idiopathic Environmental Intolerances(IEI,本態性環境非寛容症)と呼ぶことが提唱された.
わが国で最初の化学物質過敏症外来を開設した北里研究所病院では表7に示す診断基準を設定している36).本病院外来における化学物質過敏症患者の発症原因は大部分が「新築・改築」と関連し,ホルムアルデヒド,有機溶媒,有機リン化合物等の室内空気汚染によるものが56%と推定されている37).その他の原因物質としてはタバコ煙,排気ガス,歯科金属等があげられている37).MCS発症機序は未解明で
1.環境因子暴露の存在が証明されること
2.複数の臓器の症状があること
3.予知可能な原因物質の暴露により症状が誘発し,暴露を除去することにより症状が軽快すること
4.多彩な化学物質により症状が誘発されること
5.検出可能な化学物質暴露により症状が誘発すること
6.極めて低濃度の暴露により症状が誘発されること
7.通常の身体機能検査では症状が説明できないこと
A 主症状
持続または反復する頭痛
筋肉痛,あるいは筋肉の不快感
持続する倦怠感,疲労感
関節痛
B 副症状
咽頭痛
微熱
下痢,腹痛,便秘
羞明,一過性の暗点
集中力,思考力の低下,健忘
興奮,精神不安定,不眠
皮膚のかゆみ,感覚異常
月経過多などの異常
C 検査所見
副交感刺激型などの瞳孔異常
視覚空間周波数特性の明らかな閾値低下
眼球運動の典型的な異常
SPECT注1)による大脳皮質の明らかな機能低下
誘発試験の陽性反応
注1:Single Photon Emission CT (脳の画像検査)
診断:主症状2項目+副症状4項目陽性 または
主症状1項目+副症状6項目+検査所見2項目陽性