今日は昨日の「レクイエム」に続きドヴォルザークの「スターバト・マーテル」を聴きました。
ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」については以前記事投稿しています。
今日聴いたのはマリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団、バイエルン放送合唱団による2015年3月ライヴ録音された演奏です。(私のライブラリにあったものはCDの音源ですが、この記事冒頭に掲載したYouTube動画はCDとまったく同じメンバーによる違う日の演奏だと思われます。CDには2015年3月24日~26日収録と記載されていますが、動画の説明欄には2015年3月28日となっていました。何れにしろどちらも素晴らしい演奏でした。)
曲の始めから圧倒されるような緊張感、あふれ出てくる悲しみに惹き込まれ身じろぎもせずに聴いてしまいました。
曲の完成までの経緯は前の記事に書きましたので繰り返しませんが、ドヴォルザークの個人的な深い悲しみとともにここに表出されているのは円熟期を迎えた作曲家としての創作力の凄さです。プライベートでの深い悲しみややり場の無い怒りは天性の音楽家だったドヴォルザークのすべての力を楽譜の上に結実させたのでしょう。
ヤンソンス/バイエルンの演奏も素晴らしいものでした。全曲を貫く緊張感。激しい悲しみや怒りの表現。弱音部での美しさ。極上の音楽にただ浸りきる。ある種、贅沢な時間、なのかもしれません。
「スターバト・マーテル=悲しみの聖母」 13世紀に生まれたカトリック教会の聖歌の一つで磔刑に処されたキリストの元に佇んだ聖母マリアの悲しみが歌われています。この詞を書いたのはヤーコポーネ・ダ・トーディとされています。どのような理由があるにせよ、愛しい息子を失くした母の悲しみはいつの世にも普遍のものであり、この詞に心打たれた芸術家たちが多くの作品を書いています。ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」は、彼自身の個人的な悲しみが深く投影されていることで知られています。1876年、彼の生まれたばかりの娘ホセファが生後たった数ヶ月で世を去ったことに落胆したドヴォルザークはこの曲のスケッチを始めたのですが、その翌年1877年の8月には幼い娘ルジェナがたばこの誤飲で死去、さらに3歳の息子オタカルも天然痘で亡くなるという悲運にあいつで見舞われてしまったのです。その悲しみを克服するかのようにドヴォルザークは1877年の11月にこの作品を書き上げます。1880年12月23日、プラハ音楽芸術協会の定期演奏会で行われた初演は大成功を収めたということです。このヤンソンスの演奏、陰鬱な第1曲目の冒頭の雰囲気は第4曲目まで変わることなく、ようやく第5曲目「わがためにかく傷つけられ」になって少しだけ明るく包み込むような雰囲気に変化します。以降も悲しみと慰めが行き来しますが、最後の10曲目に、全ての悲しみを吹っ切るかのように荘厳に曲が転じるところは、実に感動的。その後のフーガも実に素晴らしく、一糸の乱れもありません。オーケストラもソリストも合唱も渾身の叫びを込めたかのようなこのドヴォルザーク。情熱だけで突っ走るのではなく、計算された感情表現には驚くばかりです。
1.第1曲:悲しみに沈める聖母は/2.第2曲:誰が涙を流さぬものがあろうか /3.第3曲:いざ、愛の泉である聖母よ/4.第4曲:わが心をして/5.第5曲:わがためにかく傷つけられ/6.第6曲:我にも汝とともに涙を流させ/7.第7曲:処女のうちもっとも輝ける処女)。/8.第8曲:キリストの死に思いを巡らし/9.第9曲:焼かれ、焚かれるとはいえ/10.第10曲:肉体は死して朽ち果てるとも
エリン・ウォール(ソプラノ)
藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)
クリスティアン・エルスナー(テノール)
リー・リアン(バス)
バイエルン放送合唱団
ミヒャエル・グレーザー(合唱指揮)
バイエルン放送交響楽団
マリス・ヤンソンス(指揮)
録音 2015年3月24-26日ミュンヘン ヘルクレスザール・デア・レジデンツ ライヴ収録