ごぼっ
ごぼっ。
喉からこみあげてきたのは妙に塩辛い水だった。海水……?口の中が気持ち悪いので近くに置いてあったマグカップにそれを吐き捨てた。胃の中のものと混じってなんだかよく分からない汚いものが浮いている。気分が悪いのでトイレに捨てに行った。
今は家の中にいる。海なんてここ最近行ったことがないし、どうして海の水が口からこぼれてくるのか分からない。だが、あのツンとしていろんなものが混ざったような独特の魚臭い匂いと刺激は確かに海で潮水を飲みこんだときに感じるそれだった。体調が悪いのかな。レバーを引いて塩水が流れるのを見届け、口をタオルで拭うと横になった。
寝ころんだままで携帯をいじってメールを見る。スクロールしてもスクロールしても新規のメールが途絶えることがない。差出人は殆ど愛と優だった。正確には七十件ほどの受信メールのうち、十二は広告やら連れからのメール、愛からのメールが八件、残りは全て優からのものだった。着信数もやたら多い。これも殆どが優からだ。
勘弁してくれよ、まったく。仰向きになってメールを見ながら啓はつぶやく。優とはもう終わるつもりだった。愛に乗り換えると本人にもはっきり言ってやったのに優はバカだからまったく理解しようとしない。「あたしにはあんたしかいないんだから」って、手前が他の男を見つけられないからって、俺に執着するのはやめてほしい。物でも人間でも壊れたものは元に戻らないってことくらい、いい加減に分かれよ。子供?知らねえ。
メールを見てると優からの恨み事が延々と続くので途中からは見ないで消去した。どうせどれを見たって同じだろ。愛からのメールは明日から行く海の事が書かれてある。いっぱい楽しもうね、とか書かれているのを見ると愛の可愛らしい笑顔が浮かび、優を切って本当によかったと思った。優のように辛気臭い癖に馴れ馴れしい女はうんざりなのだ。愛とのことを知って、あんたと海に行くのはわたしだからと血迷ったことを言ってたっけ。
メールを見ていくとダチから「優が消えた」と入ってた。昨日から家に帰っていないとあるが、元カレだというだけで知らせなくてもいい。あいつとは終わったんだから。
ごぼっ。ごぼっ、ごぼっ、ごぼっ!
口から大量の潮水が噴き上げる。苦しくて息ができない。部屋は水浸しだ。
閃いた。もしかして優の奴、一足先に海に行ってるんじゃねえのか、それも底のほうまで。
死んだって手前とは一緒にはならねえ。絶対にならねえ。
潮で濡れた部屋の中、息苦しくて喉をかきむしり、白眼をむきながら最後にそう思った。
財布
嫁の都合がつかなかったので、一人で子供たちを連れて海水浴に行くことになった。
目当てのビーチは余り知られていないところで人もまばらだった。もともとそんなに広くないところだったのが今年になって埋め立てたらしく更に浅く、狭くなっている。こんなところで泳ぐのは嫌だと渋る子供たちを「せっかく来たのだから」と説得して着替えを始めたが、ロッカーの鍵がどれも使えないことに気づき、財布をビニール袋でくるんで海パンのポケットの中に入れたのがまずかった。
泳ぎ始めてすぐに気がついたのだが、財布が消えている。落としたのだ。慌てて潜ってみたが海の底は浅いとはいえ海苔などの海藻ばかりで全く見えない。それでも足にまとわりつく海藻を取り除いて再度もぐったが泥が巻き上がって濁度が増して、余計にわからなくなった。仕方ないのでビーチの監視員に訳を話して一緒に探してもらったが海藻を体にまとわりつかせるだけで結局見つからなかった。
財布を無くして一週間ほどたち、諦めていた頃になって家に電話がかかってきた。財布が見つかったのだという。あれだけ探しても見つからなかったが、浜に打ち上げられていたらしい。礼を言い、着払いで送ってもらうように言ったところ妙な事を聞かれた。
「念のため確認しますがKさんで間違いないですよね?」。
Kは私の名前なので不審に思いながらもそうだと答えると、財布の中に免許証が二つ入っていたのだという。一つは私のものだがもうひとつの名は知らない名前だった。財布は無くしたときのビニールに包まれた状態とのことでNという他人の免許証が入るはずもなく、凄く嫌な感じがした。
ともかくその他人の免許証は除き、送り返してもらうように頼んだが、家についた財布を見てみると例のNという他人の免許証が入ったままだった。見たことも聞いたこともない赤の他人で、私の住んでいる県ともずいぶん離れている。財布を送ってくれたビーチの管理事務所に到着の礼をいうと共に他人の免許証が入っていたことを告げたが、そんなことはない、ちゃんと警察に渡したという。手違いかとも思ったが先方の好意に対して悪いのでともかく礼を言って電話を切ったが、戻ってきた財布は磯臭く、免許もカードも再発行の手続きをした後だったので気持ちが悪いからNの免許と一緒に捨てた。
Nの免許を捨てたのはいいものの、部屋が磯臭く感じることが多くなった。前はそんなことはなかったはずなのに。それに磯の臭いに混じって何かが腐ったような別の臭いもし始めてきたので、引っ越しをするにはどう嫁を説得すればよいか、頭を悩ませている。
贄の女(37)
「遺伝には優性遺伝と劣性遺伝がある。親の形質は優性な遺伝子を持ったほうがより多く形質を伝えて行くことが出来る。かたやクローン技術では母体の影響を一切受けずに、もとの遺伝子の形をそっくりそのまま再現できるとされている。翻ってこのいきもの、キメラの場合はどうなのだろうか。実はこの生物はとても面白い特性を持っているのだ。これは外形の複製が出来るということなんだ。つまり、父そっくり、或いは母そっくりの子どもを産むんだ。だから母体がキメラである場合、ほぼ100%の確立でオスは父親の形質を、メスは母の形質をそのまま受け継ぐことになる。といっても外観上だけだがね。勿論複製といっても多少の違いは出てくるが、もし形の優れた品種が入ればそれの交配を重ねることでその優れた形質を伝えていくことは可能なんだ。人間が昔から犬や金魚にやっていることと同じだね。ただ、彼らは人間に近い形を持っているということだけが違うんだ。禁断の快楽の一つはそうして美しい人間を作り上げることさ。それには毒の問題をクリアしなければいけない。やはり遺伝の関係で毒性の強い子と殆ど無い子がいるので中には一緒に暮らしていけそうなものもいたようだ。しかし、吐息に毒が含まれていないといっても、その他の所は分からない。この生物に人間に近い姿のものを生んでもらおうと思えば、やはり人間と交わらせなければいけない。でも、交わっている最中に粘膜から毒が伝わって死ぬことも多かったようなんだ。だから、交配は殺してもいいような人間で行わなければならなかった。それも、誰でもいいというわけではない。美しさを保てるようにそれなりの相手でなければならないんだ。だから囚人とかそういったものじゃだめだったんだ。わたしの友人もここで躓いていたんだがね。だが、わたしは毒を抜くことに成功した」
もしかして、まさか、わたしを…そのいきものと…
「まあ、そう気にしなくても檻の中身とは感動のご対面をさせてやるよ。もう少し辛抱するんだな。となれば次はどう繁殖させるかだ。相手がいるからな。そこでわたしは慎重に考えた末、この屋敷にタネを招き入れることにした。キメラに人間の格好をさせて、人間と同じようにこの屋敷に住まわせたのさ。美しさは折り紙つきだからな。一目惚れする奴らが続出してもおかしくない。だが、こっちが狙っている獲物で網にひっかかるような奴はなかなかいなかった。身元が確かで身寄りが無いというのが一番だったのでな。使えない奴を相手には出来ん。
だが、わたしでは年を取りすぎていた。そのときはもう、70近かったからな。たしかに相手は魅力的だった。だが、体がいうことをきかないんだ。やっぱり若い獲物を待つしかない。それに本当に危険が無いのか自分で試すのは怖かったしな。気持ちが焦ってどうしても誰も捕まらない場合は自分で済ませようと考えていたときにちょうどうまい具合に網にひっかかった奴がいた」
一同からくすくす笑う声が聞こえた。わたしは長い時間吊り下げられていることで、体に疲れがたまっていた。もうどうでもいいから、早く話を切り上げて、ここから下ろして欲しかった。この鎖を解かれたら逃げるチャンスも有るだろう。それまでは何とか耐えるしかない。
「彼は窓辺に立つキメラをみて虜になったんだな。年頃の若者なら無理は無い。あれの美しさは群を抜いている。外見だけなら間違い無く大スターになれるだろう。ただし、人間だったらの話だがな。キメラは元来物凄く高い知能を持っているんだ。教えれば教えただけ吸収する。特に若い頃は成長の早い分吸収も凄い。2年で成体になるから言葉だって半年もすれば喋るようになるし、1年を過ぎれば小学生程度の会話なら可能だ。計算能力もあれば、論理的思考も出来る。但し、それは環境が整っていた場合の話だ。自然の中で育ったキメラはやっぱり言葉も喋れないし、計算も出来ない。言い換えれば脳が環境に順応する能力が著しく高いんだ。しかし、体はそうはいかない。理由は分からないが、これだけの能力を持つキメラなのに、そして人間と比べて多産なのに、何故か確認されている個体数は少ないんだ。何故なんだろう。まず、産まれても全てが成獣に育たず、途中で死んでしまうんだ。毒による自家中毒らしいんだがね。それにキメラは毒が有る故に交わると命を落とすと言っただろ。同種間でもそれは作用するらしい。何故毒が有るかは分からないが、恐らく身を守るためじゃないかな。他のどの動物にも順応できるキメラは、それゆえに他の動物から嫌われるんだ。特に人間にね。我々からすれば、自分達を脅かす存在である彼らが増えることは好ましくない。彼らの力を持ってすれば人間に取って代わることも出来るからね。だから、キメラは狩られたんだよ。そしてその虜になった一部の者たちが密かにそれを飼った。このいきものの美しさはとても絶滅させるにしのびなかったからね。だが、それをしようとした多くの者たちは毒のために命を落とした。それは彼らがキメラに対して余りにも無知で自分たちの常識だけで判断しようとしたからだ。それでも何とかキメラの飼育法を工夫して見つけ出した先人達によってキメラは細々と伝えられていたんだ。相変わらず、問題はキメラの毒性だった。だが、わたしはついにキメラを無毒化する方法とその検証方法を編み出した。ある種の人間がキメラにとって有効なタネになることも発見した。普通なら死ぬような毒でも平気で受け付けるタイプの人間も存在するのさ。
そこで、わたしは屋敷を訪れるものの中からついに最適なキメラの花婿を見つけたんだ。彼は運転手としてこの屋敷に雇われたが、彼の目的がキメラにあることはわかっていた。いつもキメラのいた窓ばかりちらちらと見ていたからな。彼の能力は申し分無かったし、彼の経歴もすばらしかった。生物学全般に対する造詣も深く、彼自身大学で助手をやっていたこともあり、わたしの研究を手伝ってもらうこともできた。それに身寄りが無いのが気に入った。万が一彼が死んでも誰も気づかないだろうしな」
ひどいおやじだなあ、という声が聞こえた。見れば羽佐間さんがくすくす笑っている。
「わたしは彼に手伝ってもらうことに決めた。助手として、そしてタネとして。体質的にも問題無かったし、彼も若さをもてあましていたからな。そこで、わたしは彼にクリスマスプレゼントとして、キメラのいる部屋の鍵をプレゼントしたんだ。彼は立派に役割を果たしたよ。そのどちらにもね。ねえ、羽佐間君」
こんなところでいきなり話を振らないで下さいよう、と羽佐間さんが恥ずかしがる。じゃあ、あの日記は雨宮が書いたものではなかったのか