戻り屋
子供を連れて大丸側の入り口から入ると豆乳ドーナツを買い、一舟百円のたこ焼きを人数分より少し多めに食べて、ハモ串を片手に玉子屋さんの特製ふりかけを購入するというのが私の錦市場の過ごし方になっていた。手ごろな値段でうまいものが食えるのだから子供は大喜びだし、親も一緒に童心に帰って楽しむことができる。
狭い通りに店がひしめき、多くの人で賑わうこの通りは私のお気に入りだった。スーパーでは味わえない醍醐味がこの通りにはある。練りものもきちんと店で上げて作ってあるのだ。店先に並べられた焼き魚が香ばしそうに思えるのは気のせいだろうか。
ウィンドショッピングは楽しいが、この市場には何かが足りないと思っていた。子供の時よく行った近所の市場に有ってここにないもの。子供のころを思い出しながら歩いてみると、所々シャッターのある店があるのが気になる。賑わいがあってこその商店街だ。近頃よく聞くシャッター商店街は勘弁してほしい。
ふと懐かしい匂いがした。埃っぽくて人工的な甘い匂い。駄菓子屋だった。薄暗い店内に吊るされた飴、カード、ゴムのおもちゃ、プラスチックの弾を発射するピストル……。
まだ、こんなものがあったんだ。店は昭和の雰囲気そのままで、扱っているものも恐らく復刻版なのだろう、昔のものがそのまま展示されていた。レトロブームというやつか。
「気にいったものはあったのかい」
声のする方に振り向いて驚いた。なんてこった。ばあさんまで復刻だ。品数こそそれらしいものを揃えていても店をやっているのは若い店員だと興ざめだったが、ここは違う。
「ここは凄いよね。これだけ古いものをそろえているところは他にないよ」
「古いなんて、何言うてはりますねん。どれも現役やおませんか」
確かに古びたところは一つもない。ばあさんと同じく昔の商品そのままというだけだ。
その時、気がついた。一緒に来ていた子供たちがいない。慌てて店内を探した。
「子供て。あんさんが子供やないですか」
いつの間にか私の背丈は小学生の頃に帰っていた。奇妙な甘酸っぱい感覚だった。
無理して大人することあらしまへん。このままでええんとちゃいますか?
「戻りなはれ」
ばあさんの言葉に思わず頷いた。
「そらよろし。よろしいなあ」
店の明かりが、ふと消えた。
ふろーと
俺は腕組みをして考え込んでいた。
自分では覚えがない。幾らなんでも、寝ぼけていても自分がした事なら忘れる筈がない、
トイレに行ったことだって覚えているのが当然だ。
だから目の前に有るものが信じられなかった。
尿意を催したので、眠りから覚めてトイレに入ろうと思った。だが、そこには覚えのないものが浮いていた。
果たして俺なのか?
記憶はない。だが、この家には俺しかいない。ということは誰かが忍び込んだのか?急に心配になって調べてみたが、誰も入った形跡はなかった。黙って人の家に入ってトイレだけする人間なんて聞いたことがない。空き巣にしても変だし、タチが悪い。女性ならともかく、ここは男の一人暮らしだ。
考えていても仕方がないので流して用を足した。すっきりせず、もやもやが残る。
もしかしたら、俺の思い違いかもしれない。用を足したことすら忘れたのかと思うと別の意味での恐怖を感じた。
暫くこの事を忘れていたが、ある夜、トイレに立った時、再び見覚えのないものが浮かんでいるのを発見する。流しながらも腑に落ちない気持ちになるのも以前と同じだった。だが同じことが三度繰り返された時、自分でもこれはおかしいと思った。何者かが自分の家に来て用を足している。信じられないことだが、現に起こっている。
だが、これが単に自分がぼけているのなら、話にならないのでカメラを設置して夜通しトイレの入り口の様子を移すことにした。トイレの窓には柵があり、人は出入り出来ないので、監視するとしたらここしかない。
カメラを設置したことで安心して寝ることができた。問題の相手は勝手にトイレを使うだけで、今まで問題はなかった。
寝る前にカメラをセットし、録画を行う。こちらも暇じゃないので、何もない日は録画のチェックはしない。幸い、カメラをしかけてからおかしなことは起こらなかった。とはいえ、忘れた頃に起こるのがこの現象だ、油断はできない。
録画記録を一週間ほど重ねた頃、再び不愉快なものがトイレに浮かんでいる。記録を確認してみたが、ドアが開いた形跡はない。まるで静止画のように廊下トイレの映像だけが映っている。誰も入っていない。俺すら入っていない。なのに浮かんでいる。それはどういうことなのか。
何も危害はないと言ってもこれはこれで気味が悪い。そもそも相手は人間なのかという気もして来る。相手は毎日やってくるわけではないが、それでもいつ来るか分からないと考えるだけで気分も悪い方向に高ぶってくる。
なんだか自分の家でトイレに入るのが嫌になってきた。
そうなるとだんだん体調も悪くなってくる。トイレは出来るだけ外で済ませているが、それでもしたくなる事はある。つい出来る限り我慢してしまうので腎臓にも負担がかかっていたようだ。勿論腸も。
そんなことで身体を壊していたら、一日中家にいなければならなくなり、結局家でトイレをしなくてはいけない。
気が狂いそうになった俺を救ったのは明美だった。前から可愛いと思っていたが自分から声をかける勇気はなかった。ところが、ふとした拍子に俺が家でトイレに行けないことを知ると心配してくれた。勿論本当の理由は言えない。ただ理由が有って使いたくないのだという話をすると、うちに泊ってもいいと言ってくれた。でも、それじゃまずいだろというと、顔を赤らめる。その意味に気付いた途端、俺は舞い上がった。
初めて明美の部屋に泊る時、俺は興奮して寝られなかった。俺は明美の手を取ったまま、一睡も出来ず、夜を明かした。明美の寝顔は可愛らしく、俺はこのままこいつと一緒に過ごすのもいいなと思った。
そうこうするうちに夜が明けてきたが、安心した俺はその時になってようやく眠気を覚えた。
だがすぐに痛みと共に目が覚めた。何事かと思って飛び起きると、明美が信じられないと言った表情で枕を片手に立っている。これで思い切りぶたれたことが分かった。
「こんな最低な人だと思わなかった」
慌ててトイレに駆け込むと、そこで見たくもないものを見てしまった。
贄の女(36)
「わかったかい?わたしはおまえの父なんかじゃない。この家の主、雨宮だよ。わたしに会いたかったんだろ?熱心にわたしの書いたものを読んでいたようだし。わたしはこの屋敷で秘密の事業をしているんだ。わたしの仕事についてはお前にうそを言ったことはないよ。わたしは科学者だし、一方で民俗学の研究もかなり突っ込んで調べていたんだからね。これはほんとうのことさ。そのきっかけは、ある動物を手に入れたことでね。わたしの有る知り合いが古くから一部で育てられているその動物を買っていて、わたしに分けてくれたんだよ。それがどんな動物かはお前はもう知ってるね?」
「知らないわよ。そんな動物なんて!」
「おやおや、わたしの手書きの手記もあれほど熱心に読んでいたじゃないか」
このわたしに向かって語りかける男、雨宮祥蔵の書いた手記にあった動物…
あの毒を持った生き物…
雨宮の研究していた動物とはやはりそれだったのか…
じゃあ、何故、わたしがこんな目に会うの?わたしとその動物が何の関係が有るの?
「手記は途中で終わってたから、結局分からないわよ」
「いいんだよ、そこまで分かれば十分さ」
何が一体十分なの?もっと分かるように喋ってよ!
部屋の隅に置かれていた大きな箱を雨宮は指差した。
「あれは檻さ。あの中にわたしが細心の注意を払って丁寧に育て上げた動物がいるんだ」
この2年余り、苦労したよ…
雨宮が檻を眺めながらしみじみと言う。
檻といわれた箱にはカバーがかけられていて、中に何がいるのかを見ることが出来なかった。
「そんなことより、いつまでわたしをぶら下げておくの?早くおろしてよ」
もう指先の感覚がなかった。
「まあ、もう少し話を聞き給え。お前もいろいろ分からないことが多かっただろ?それを今から教えてあげるんだから」
「今まで父の振りをしてわたしをこんな屋敷に閉じ込めておいたくせに!それも食事に薬まで混ぜて…何が話を聞き給えよ?」
「おやおや、そんな態度を取ってもいいのかな?お前を生かすも殺すもわたしたち次第なんだからね。前にも女の子が殺されるのを見たんだろ?ああいう風になりたいかね?」
どの道、運命は決まっているがな、と雨宮が言うとどっと笑いが部屋に響いた。
何がおかしいの…
人が殺される話をして笑うなんて・・・
それにこうして女の子が裸で吊られている状況を見て、どうして笑えるの…
狂ってる…
この部屋にいる人達はみんな頭がおかしいとしか思えなかった。
わたしが言葉を失っているのを観念したと解釈したのか、雨宮は再び話し始めた。
「わたしがそれを譲り受けたのは訳がある。その友人のところでは色んな事情があって繁殖させるのが難しくなったんだ。丁度新しい血もいれなければならないし、また、長年近親婚を繰り返しているため変な特質も出始めていたからね。そこで資産家でもある友人の援助でこの屋敷を買って研究を始めたんだ。まずはそのいきものの特性を知り、それに見合った環境を作らなければならなかったからね。わたしは友人のところに1年ほど住み込んで、そのいきものを徹底的に研究した。友人のところではそれらをガラスの檻、動物園なんかで最近良く見かけるやつだが、そのなかで飼育していたんだ。初めてそれをみたときは正直言って異様な気がしたな。でもそのいきものは全く人間と同じだったからだ。放しを聞かされていなければ騙されたと思ったことだろう。だが、それだけじゃない。それはとても美しかったんだ。わたしはその場でそれに魅了されてしまったんだ」
雨宮は檻のほうに愛しそうな視線を投げかけた。檻の中では物音がしているだけで何がいるのかは相変わらず分からない。それよりなんでこんな話をわたしに聞かせるの?
「友人のところで暮らしているうちに、わたしは友人が何故繁殖に失敗しているか知った。環境も良くないし、食事もよくない。増やしたいのならばもっと丁寧に育て上げるべきだったんだ。彼にはその知識がなかったんだな。とても魅力的なのに毒を持っているので、素手で触ることも出来ないし、会うときにはマスクを着けなければならない。ガラスの向うから鑑賞するしかなかったんだ。ところで、普通ある種の生き物はもともと毒を持っているわけではなくって、食物の中からそれを取り入れ、体内で濃縮して毒を作っていることを思い出してね。こいつもそうじゃないかと思って調べてみれば何のことはない、昔から伝えられている餌の成分自体に問題があったんだ。何が悪いかは毒の成分を分析すればすぐ分かる。幸い学者の友人は何人かいるからね、新しく発見した両生類から取ったサンプルだと偽って調べてもらったんだよ。要は毒の元になる食材を食事から省いていけばいいだけだからね」
食事で毒を抜く…。わたしは満江さんを見つめたが、満江さんはそ知らぬ顔で雨宮の話を聞いていた。
「わたしの仕事というのはね、そのいきものをこの屋敷で飼って繁殖させることだったんだ。
だからブリーダーというのは本当さ。まあ、犬が相手じゃないがね。キングとクィーン、あいつらはカモフラージュだ。番犬としても役に立ってるんで、血統書つきとはいえ高い買い物じゃなかったな。ただ、わたしが本当に増やそうとしていたのは非常にデリケートないきものなので、育てるこちらも命がけだが、向うも育てかたを間違えると死んでしまうんだ。特に食べ物には注意を払ったな。幾ら毒を抜くためとはいえ、今までの食事を変えてしまうと今度は彼らにとって有害なものを与えてしまうことにもなるんだ。特にケミカル系、つまり農薬や化学的に合成した物などは特に彼らの体質には合わなかったらしい。毒を濃縮しすぎて自ら中毒を起こすものもいたしね。そうなると使い物にはならない。毒性の強すぎる奴は生きていても鑑賞用には向かないし、こちらとしても食べることも増やすこともできないから結局お金の無駄になるんだよ。そうこうするうちに実際譲り受けたうち生き残ったのは四頭中一頭だけだった。この一頭だけは殺すわけにはいかない。そのころは有機栽培で育てられた作物を中心に与えることで彼らの毒を抜き、なおかつ健康に育てられることも分かったからね。お陰で残った一頭は順調に育ち、繁殖に適するようになった」
ここで雨宮は話を止めると周りを見渡して、にやりと笑った。意味深な笑みを浮かべたままみんな黙って雨宮の話を聞いている。雨宮が何故こんな話を延々わたしに話すのか、その意図が掴みかねていたが、どうやらあの箱の中の動物とわたしが関係あるらしい。
「何故このいきものを育てるのか?増やすのか?それはそのいきものの類稀なる特性によるんだ。そいつがいつどこでどう発生したのか、それは誰もわからない。ただ、極少ない数ではあるものの世界のどこかしらで人間に飼われて細々と生きているみたいだ。野生のものについては、わたしはその話を聞いたことがない。もっともある意味形をもたないそいつをみて、人がどう判断するのかにもよるからな。案外身近にいても分からんのかも知らん。
何故ならそいつは交わった相手と同じ形質を持つ子どもを産むんだ。遺伝子がどうなっているのかわたしはそちらの専門ではないから詳しいことは分からないけど、少なくともそれは有り得ないことだ。だが、こいつは犬と交われば犬の子を産むし、羊と交われば羊の子を産む。そいつの形質で遺伝するのは成長が早いこと、毒性が強いこと、そしてどんな子だって産めるということだ。そうして昔から形を変えて存在していたんだ。中には両方の親の形状を受け継いでしまうものもいた。そうしたやつらはキメラと呼ばれていた。分かるかい?世界に伝わる妖怪伝説の一部はこいつらのことだったんだよ。そして異種婚。これは実際に行われていたのさ。こいつらとね。相手が去る、あるいは正体がばれたことで祟りにあうというのは暗に毒に当てられたことをほのめかしていると捉えられなくも無い。これは一つの可能性に過ぎないがね。
本来ならば大発見だった。これを学会で発表すれば凄い話題になるだろう。世界中の名声も思いのままだ。でも、考えてみれば今までにもそうしたことを考えたものはいる筈だ。でも誰もそうしなかった。分かるかい?多分想像もつかないだろうね。
彼らがそうしなかったのは禁断の快楽におぼれてしまったからさ…。勿論、わたしもそのひとりでね。そしてここにいるみんなもね」