正座せえ
生方さん夫婦はいわゆるカカア天下である。奥さんは結構気が強く、文句の一つでも言おうものなら十倍くらいになって跳ね返ってくる。二人の間に子供はなく、共働きだったが奥さんのほうが収入もよく、大黒柱風を吹かせたくてもこちらのほうでも頭が上がらない。さほど大きくない国内メーカーの営業をしている生方さんと大手外資系のマネージャーをしている奥さんとでは差が出るのも仕方がないことかもしれなかった。
そんな生方さんが出張でロスに行った時のことだ。ホテルで寝ていると、なんだか急に部屋の中に誰かがいるような気がして目が覚めた。
暗がりの中、目を凝らして部屋の中を見るが誰もいない。だが、確かに気配はある。半分寝ていたこともあり、なんとなく電気をつけることをしなかった生方さんだったが、そのうち枕もとに誰かが立っているような気がした。
見上げてみるとそこには奥さんが立っていた。
「今までお世話になりました」
いつになく殊勝な態度で奥さんが頭を下げる。
ここはアメリカである。日本で働いている奥さんがいるはずもない。ふと感じることがあり、生方さんはベッドから起き上がるや否や、奥さんの横っ面を張り飛ばした。
びっくりしてたじろぐ奥さんを生方さんが怒鳴りつける。
「お世話になりました、てなんや!そこに正座せえっ!」
生方さんの勢いに奥さんが慌てて正座する上から更に罵声を浴びせかける。
「今まで勝手ばっかりしとって、何が今更世話なりましたじゃ。しょうもないこと言うてんと、もっとしっかりワシのこと世話せんかいっ!」
きょとんとしている奥さんに向って「分かったんかっ!」と怒鳴ると、奥さんはこくりと頷いた。真っ赤になった生方さんが息を整えている間に奥さんの姿はすっと消えた。
奥さんが消えた後、生方さんは奥さんの携帯に電話したが、奥さんは出なかった。奥さんの会社にも電話したが、外出中だという。嫌な予感がして朝一番でホテルをチェックアウトし、空港でフライト変更をしてボーディングを待っているときに携帯電話がなった。奥さんの会社からで、奥さんが外出先で交通事故にあったことを知らせてきた。頭を強く打って一時昏睡状態で危なかったのが、先ほど意識を取り戻したのだという。
「女房どついたんは後にも先にもあの時だけですわ」
そう言って生方さんは笑う。ちなみにすっかり元気になった奥さんには今でも尻に敷かれているらしい。
展示
その展示を見たのは商店街のイベントスペースでした。学校帰りのわたしはその商店街を通るのが日課になっていました。家までの距離が一番短いのと賑やかなところのほうが安心できるというのがその理由です。賑やかといっても普通の住宅街と比べてというだけで、実際にはシャッターが閉まるところが増え、開いているところは全体の六、七割というところでしょうか。子供の時からよく通っている場所だし、昔の賑わいを知っているわたしには寂しく感じられたものでした。商店街の人も同じ思いだったらしく、シャッターが閉まっているのはいかにも殺風景だし、何とか利用できないかということで空っぽになった店舗をイベントスペースとして活用することになったのです。
入口は白いカーテンで中は見えないようになっているのですが、「無料。ご自由にお入りください」の貼り紙につられて中に入ってみたら、そこには車椅子がぽつんと置いてあるだけでした。わたし以外には誰もいず、ただ、「手に触れてみてください」だの「腰掛けてみて下さい」だの様々な貼り紙が壁や床に貼ってありました。
もしかしてこれは何かのアートなのだろうか、と思いました。車椅子は一見新品に見えましたがよく見るとところどころに傷があり、きれいに磨きこまれているものの誰かが使ったものであることは明らかでした。肘掛のところにかけられている膝掛けも白地に黒の花の模様がついたとてもきれいなものでしたが、実際に車椅子に腰掛けてみて膝にかけてみたときにうっすらとした染みがいくつも付いていることに気付きました。
なんだか生理的に気分が悪くなってわたしはすぐにそこを出たのですが、その晩は変な夢にうなされてなかなか眠れませんでした。左の脛に絶えず叩かれているような痛みがあり、全身に力が入らず体全体に重りをつけられているような感じでした。
そんなことが二晩続いたので気になってあのイベントスペースを訪れてみると、そこはシャッターが閉まったままでした。そばの店の人に管理事務所の場所を聞き、事務所に行って係の人に話を聞いたところ、前金で一週間の予定で借りていたはずなのに昨日にはもう片付けられていたのだそうです。何でもよく眠れなかったと苦情を言う人はわたしだけではなかったそうで、事務所の人もほっとしたとのことでした。
借りた人は四十代くらいの物腰の柔らかい背広姿の男の人で、ごく普通の人に見えたので何の疑いもなくそのスペースを貸したそうなのですが、今となってはあの展示が何だったのかは誰にもわかりません。
結局あの展示が原因だったのか、件のイベントスペースはその後まったく活用されることもなく、今でもシャッターが閉まったままでいます。
もぞ
最近人身事故が多い。電車のことだ。前と比べて足止めを食うことが多くなった。どうせ自殺が殆どなんだろうが、本当に迷惑な話だ。電車を待ちながら話をしたら、友人のKは露骨に嫌な顔をした。そういう話をするな、と言わんばかりだ。もしかして、人身事故の瞬間を見たことがあるのか、と尋ねてみたら、そうじゃないけどさ、とKは話し始めた。
客のところに行くつもりでKが駅に行ったらいきなり電車が止まっていた。別にアポを取っていたわけでもないので、仕方がないな、とKはホームで待つことにした。外に出ても良かったが、駅の様子がいつもと違ったので、何が起こったのか見たくなったからだった。通勤時間帯ではなかったから、ホームにいる人間は思ったより少なかった。
どうやら事故らしいが、別段アナウンスが流れているわけでもなかった。駅員のほかに警察や消防隊員がみんなトングと黒いビニール袋を持って、線路に降りていた。
Kが見ていると赤い何かが飛び散っているように見えた。思ったほど量はなかったけど、間違いなく事故だと思った。だが、人身事故のアナウンスはなかった。誰もが粛々と作業を進めている。会話があるはずなのにそれが聞こえない感じがするのが不思議だった。
ばらばらになった手足とかぐちゃぐちゃに潰れた体を見るのはいやだな、と思いつつもKの視線はつい線路に行ってしまう。だが、それらしいものが線路に転がっているようなことはなかったことで少し安心しつつも物足りなさも感じていた。作業している人たちが持っている黒いビニールはある程度中身が詰まっているのか底のほうが垂れ下がっている。
うわあ。もしかしたらあの中にぐしゃぐしゃになったものが入っているのかなあ。
そう思って見ていたらビニールの中のものが動いているような気がした。
もぞ。
目を瞬いてみてもう一度見てみる。
もぞもぞもぞ。
やはり動いている。どうして持っている人は気づかないのだろう。
そのうち、飛び散った赤い点まで動いているように見える。出たり消えたりするのだ。それが消えているのではなく、飛んで移動していることに気づいた時、悪寒が走った。
赤い点はハエトリグモのように飛んで移動すると近くにいる人のカバンに入っていく。何か分からないそれはどんどんと吸い込まれるように周りの人たちのカバンの中に入っていった。ふと自分の持っているカバンに目をやるとそこには赤い点がついていた。さっきまではなかったものだった。Kはたまらず駅から飛び出した。
それでどうなったのか聞くと、別にとKは言った。そのときKのカバンがこれまでのものと違っていることに気づいた。仕事でもオフでも持ち歩いているお気に入りのカバンだったのだが、それ以来Kがそのカバンを持っているのを見ることはなかった。