エンカウンターが乏しい「軽薄」な世の中 | 司法書士 荒谷直樹のブログ

司法書士 荒谷直樹のブログ

埼玉県所沢市の司法書士フラワー総合事務所代表。ジャンル問わず人生に有益な情報を発信!!法律&メンタル&個人的戯言♬

  

 カウンセリング心理学で「エンカウンター」という言葉が使われることがあります。カウンセリング心理学の第一人者の(故)國分康孝先生は、エンカウンターについて、ゲーム(心理ゲーム)と対比して次のように表現しています。

 

 エンカウンターとは何か。心とこころのふれあいのことです。ホンネとホンネの交流です。エンカウンターとは、裏腹のない人間関係です。心から「お世話になりました」と挨拶し、心から「それはよかったね」と言えるような人間関係のことです。

 

 エンカウンターの反対はゲームです。ゲームとはタテマエとホンネの二刀流を用いた対人関係です。たとえば少しも世話になったと思っていないのに(ホンネ)、「お世話になりました」と挨拶する(タテマエ)。挨拶された方は一応「それはよかったね」(タテマエ)と返事はするが、内心は世話をやいた記憶もないし大して「よかったね」という気持ちもない。ステレオタイプの応対をする。これをゲームといいます。

 

 この2つの言葉を借りて説明すれば、現代の人が他者に対して発するメッセージのほとんどがゲーム(心理ゲーム)ということになる気がします。表面的で中身がない、感情交流に乏しい、生き生きした人間関係ではない、こういう類のウワベだけの対人関係がほとんどです。

 

 心理ゲームについて、もう少しみてみます。心理ゲームは、交流分析を生み出した、精神科医エリック・バーンが提唱した概念です。それは隠された「やりとり」の連続で、決まりきった報酬を得る人間関係である。通常、人びとはゲームを楽しむためにするが、心理ゲームは常に隠された意図が含まれていて、楽しむのが目的ではありませんしかも、その心理ゲームを演じている人びとは、そのことには気づいていないことが大きな特徴です。そのようなゲームを演じている人間関係においては、素直で開放的な関係は妨げられ、信頼関係も阻害されます。エンカウンターと違い、生きる喜びを生み出すような人間関係ではないにも関わらず、人が心理ゲームを続ける理由は次のように考えられています。①存在感を充足するため②人の注意をひくため③許容していない立場を維持強化するため④自分を変えたくないため、などなど。理由はともあれ、共通するのは「相手との人間的・相互的な感情交流」ないことである。

 

 SNSに対する投稿、それに対するコメント、ワイドショーの司会者とコメンテーターのやりとり、職場でのあたりさわりのない日常会話、わたしは普段目にする現代のほとんどすべての「言語表現」がこの「心理ゲーム」ではないかと考えています。つまり「心とこころのふれあい」が極めて乏しい世の中だと考えています。

 

 要するに、「ハッタリのかまし合い」である。

 

 ハッタリばかり交わしていては、「心」とか「絆」とか「ふれあい」なんか、育まれるはずもないと、わたしは思います。

 

 どうも近頃、わけのわからない事件が頻繁に起こりますがが、わたしは根底に「エンカウンター」できない人間関係が強く影響しているように感じるのです。わたしが過ごした子ども時代は、昭和55年~平成10年(1980年~1998年)ぐらいの年代ですが、あの時代の大人は今よりしっかりしていて頼りがいがある大人が多かったと実感しています。常識や良識という言葉がまだ「権威」を持っていて、実際にたいていの大人に備わっていた気がします。今の大人は、職業、年齢、社会的地位、どの要素も、その人間性を担保するものではなくなっている気がします。教員の性犯罪は毎日のようにメディアで見かけるし、政治家は平気で嘘をつく。ユーチューバーを見ていると分かりますが、人間が成熟していくためには、単にお金を稼げるだけじゃダメなんだと思います。

 

 ではどうすればいいのか?と考えてみると・・・わたしなんかはうなだれるしかありません。インターネットが普及してから、人間はどんどんバカになっているんじゃないか、これはわたしのあんまり大きな声では言えない本音です。今の時代、本音で語り合い、時にはぶつかり、関係性を深めていくような人間関係を形成していくことは不可能でしょ。どこかで、取り返しができないくらいの「大きな勘違い」が、政治家や偉い役人や教育者、学者達にあって、人間形成についての誤ったメッセージを蔓延させてしまったのでは・・・そんな気がします。

 

 

 

(参考文献:「カウンセリング辞典」、國分康孝著「エンカウンター」。共に誠信書房)