早いものだ、今日からもう七月である。




仕事が内勤のためか外の様子があまり分からないので、季節が梅雨とはいっても、それほど都内で雨が降っていたような気がしない。かなり頻繁に傘を持っていた記憶はあるのだが、いつもささずに手に持っていただけのような気がする。大粒の雨に降られて靴の中がぐっしょりになるほど降られたような記憶もない。




こういった感じを抱くのは多分私のような者だけであろうと思う。日がな一日空調の効いた屋内にいて、朝はまだ光の弱い内に出掛け、帰りはすっかり日が暮れてから表に出るのだから、そうして幾らか感覚が鈍ってしまったとしても当然のことであろう。しかし、私は今のこういった就業環境を決して嫌っているわけではない。むしろ、敢えてこうした環境で働けるような職種を選択したのである。何といっても私は生来体が弱く、人よりも幾らか疲れやすい傾向がある。それはもうずいぶん幼い頃から自覚していることだ。まぁ、平たく言えば貧弱で貧相な男なのである。しかし、そうしたことが幸いしてか、今までこれといって大きな病気も怪我もしたことがない。こう言うと何とも奇妙に聞こえるかもしれないが、実は私のように無理のきかない人間のほうが大病や大怪我から自然と逃れられるのである。無理のきく人間というのは無理がきくが故に、いよいよというところまで無理をしてしまいがちで、限界を超えてしまったときには取り返しのつかない状態まで事態を悪化させている場合が多いものだ。しかし私のように、そもそも無理がきかないような人間は、事態が悪化する前に体が耐えられなくなり、その結果、適当なところでいつも休みをとって、我とは知らず致命的な悪化を防いでしまうからである。幸か不幸か、私のように貧相な人間は意外にしぶとく、なかなかくたばらないのだ。取るに足らない雑草ほど駆逐出来ないのと同じ道理である。




それに、もう野外での肉体労働は出来れば遠慮したいと思う。以前は何とかなっていたが、だからといって今もその時と同じように出来るとは限らないし、だいたい昔のようにやり切る自信が今の私にはない。






今日はよく晴れている。週の半ばまではこうした晴れ間が続くのだそうだ。もう一雨来れば梅雨も開けることだろう。








今更ながらだが、先日このブログのことでひとつ気付いたことがあった。それというのも、自分の“ルーム”というページから“次のルームへ”をクリックすることで無作為に誰かのルームへ移動できるらしい。今まで全くこうしたことに関心を払ってこなかったせいか、こうしてこの場で話し始めて一年以上経っているというのに先日偶然気が付いた。それで、ひとつものは試しというわけで、次へ次へといった風にして数珠繋ぎにしばらく歩き回ってみた。色々な人間がいるものだなと思いながら、私はこの架空の世界の中を、まるで縄張りを巡回してまわる猫のように、人のベランダや軒先を気ままに歩き回った。そうして30分ほども歩き回っただろうか、私はもうその程度の時間でそうして歩き回ることに飽きてしまった。それというのも、おそらくあまり愉快なものを見つけられなかったせいだろうと思う。




そうして私が歩き回って目にした景色で最も多かったものは空き部屋だった。床には埃が積もっていて、光を浴びてうっすらと白く光っていた。人のいた形跡があるにはあるが、もう久しく使われていないように見えた。そうした空き部屋の他に私が目にしたものも色々とあったが、それは敢えてここで話さないでおくことにする。そうしたものはたいてい話すほどのものでもなかったし、それに決して快いものではなかったからである。とにかく多くは語るまい。他によく見かけたものといえば、女が男との思い出を書き連ねたノートを床に打ち捨てて出て行ったまま埃をかぶっている空き部屋の光景だった。これは実に多く見かけた光景だった。どうやら世間にはこうしたことはよくあるものらしい。




そうしてしばらく歩き回った後、私は手摺りから自分の部屋のベランダへ降り立ち、前足で窓をこじ開けて自分の部屋へと戻った。馴れないことをして歩き疲れたので、私はベッドの上に丸まって少しの間眠ることにした。すると、ふとある考えが頭に浮んで私は目を覚ました。それは、こうした方法で何か面白い人間を見つけることは出来ないものだろうかというものである。観察の対象になる人間をだ。




私はまた窓の隙間から表へ出ると、ベランダ伝いにてくてくと歩き出した。観察の対象にしようと思う人間のタイプはその時もう既に決まっていた。それは二日に一度ほどは部屋へ帰ってくる人間で、何事かに毒づくようなこともなく、罪の無い、他愛のない話しをしているような一般の人間というようなものだった。何より、恋愛話や下の話しなどを私は耳にしたくなかったので、そうした要素を含んだ人間は観察の対象から外すことにした。




すぐに見つかるかと思っていたのだが、意外にもそうした条件に当てはまる人間はなかなか見つからなかった。そうして歩き回っているときに感じたことだが、男というものはつくづく理屈っぽいものだなと改めて思い知らされた。まぁ、自分自身も男であるし、その上そうした傾向も多分にあり、しかもその属性は男には必要でもあるものなので非難がましく言うことなど全くの間違いであろうが、それでも私はそうしたものを見聞きすることが何となく億劫に思われたので、そうした人間も観察の対象から外すことにした。 すぐには見つからなかったが、何事も時間をかければいくらかの結果は得られるもので、私は数人の面白い人間を見つけることが出来た。色々と見てまわって見つけ出したものなので大層興味深いものなのかといえば決してそうではない。むしろ世間一般にいえばつまらないと言われるような類いの人間だろうと思う。話しを聞いていてもおよそ一般的にいって面白いと言われるようなものではない。そうした者達の話していることなど、仕事がきついだの休みが欲しいだの、今日はどこへ行ったとか、何を食べて何を飲んだとか、それが美味しかっただの朝眠いだのといったごくつまらないことが殆ど、というか全てそういったようなものである。そんなものを見ていて何が楽しいのかと問われれば私もおそらく答えに窮するだろう。しかし、何故だか知らないが、そういった何でもないようなことを唯々聞いているのが私には何とも心地よく、不思議と心の安まるような感じがするのである。






そういった訳で、私は今回見つけた幾人かの人間をしばらく間のんびり観察してみようと思っている。特にそのことを相手に知らせるようなつもりはないが、私にはどうも要らぬ世話を焼きたがるような年寄り臭いところがあったりするので、場合によってはお節介をやきたくなってしまうことがあるかもしれない。しかし、そうしたこともおそらく稀なことであろうと思う。

天気とは分からないものだ。今年は空梅雨かと思っていたのだが、そう思った矢先から梅雨らしい天気が続いている。今日も空は白っぽい鉛色の雲で覆われていて、外には弱々しい光が満ちている。




梅雨らしい天気が続いているとはいえ、都心での雨の量はそれほど多くはないように思える。傘を持って家を出る日は多い気がするが、それをさした記憶も、傘を雨粒が叩いた記憶もほとんどない。降るといってもぱらぱらとした小雨が時折落ちてくる程度で、たいていは憂鬱そうな色をした雲が一日空を塞いでいるだけというのが殆どだ。








もし自らの人生の本に、ひとつだけ、どのような事でも好きなように書き加えて、そのことによって現在の自分自身を変えてもよいとすれば、私にはひとつだけそうしたいと思うことがある。それは大金持ちになることでもないし、私の醜い姿を変えることでも、根暗な性格を変えることでもない。そんな事は今更どうでもよい。私はひとつだけ願いを叶えられるとしたら、バイオリンを弾けるようになりたいと答えるだろう。バイオリニストにしてくれと頼むだろう。






つい数年前の話だが、私はある一件から仕事を失い、ホームレスになるまであと半歩といった状況に追い込まれたことがある。その時は今の住まいを今月中に何とか出来なければ強制的に立ち退いてもらうと期限を切られるまでに追い詰められた。これは決して脅しではない。脅しは期限が切られるようになる以前に散々聞いていたからである。まるでよくある不幸なドラマの一場面のようだが、実際にスーツ姿でいかにも不動産関連といったお金の匂いのする体格のいい男二人が玄関先にやって来て立ち退きの証文に判を押させるのである。居留守など通じはしない。近くに車を待機させていて、私が家にいるところを見計らってやって来ているからだ。ドラマじゃあるまいしと思う者もいるだろうが、本当に拳骨でドアを力いっぱい叩いて大声を上げて私の名前を呼ぶのである。




仕事を失ったのが急だったために簡単に新たな仕事など見つかるわけもなく、急場しのぎの日雇いのアルバイトなどではまとまった額のお金が入らないので状況を改善するには至らなかった。その時には以前に話した借金もあったので、毎月その返済にも追われているような始末だった。やっと出来たようなお金も、家賃にあてれば借金が払えずに借金取りがやってくることになり、借金にあてれば家賃が払えずに不動産屋がやって来るような具合である。しかも、そうしている内に電気やガス、水道といったものは次々と停まってゆく。携帯などとうの昔に通じなくなっている。十個の穴全てに、それぞれ栓をしなければ水は止まらないのに、その栓が四つしかないのである。こちらを塞ぐとあちらが漏れるといった具合だ。その間にもタンクの水はどんどん減る。そうした訳で私は何ヶ月も家賃の支払いを滞納してしまい、そのつど相手には言い訳に言い訳を重ねて待ってもらった。しかし、そうして待ってもらう方法が何度も通用するはずもなく、最後の方は玄関先で何度も相手と悶着を起こした。そしていよいよ何時までという最終期限を切られてしまい、証文に判を押すことになってしまった。




私はその間も、それ以前も、必死になって働いた。一ヶ月以上一日の休みも入れずに働いた。もちろん日雇いの仕事など過酷な肉体労働と相場は決まっている。支払いに充てるために食事は一日に一回か、もしくは食事はしなかった。一番安い備蓄米を少量買い、それを一合づつ大事に炊いて塩おむすびにし、それだけで一日をしのいだ。それでもそうしてお米がある時などはまだましな方で、お米は三週間目を迎える前にいつも切れてしまっていたので、そうしたお米の無いときなどは小麦粉を水でこねただけの団子を作って、百円ショップで買ってきた出汁の素と醤油で汁を作り、その汁物で腹を膨らませて飢えをしのいでいた。しかし、これでもまだいい方で、いよいよとなっていた頃は、コーヒー用の砂糖を白湯に溶かして飲み、後はひたすら眠ることで飢えを感じないようにしていたほどだった。そうはいっても空腹感というものは眠りよりも勝るもので、そこまでに至るとなかなか眠ることは出来ないのである。体は疲れているのに腹が減って眠れなかったことを今でもよく覚えている。




そうした状況で過酷な肉体労働を続けてゆくと体はみるみる痩せてゆくものである。贅肉などすっかり落ちてしまって、お腹など薄い皮膚がほんの少しの筋肉に張り付いているような具合になるのである。ある日そのことに気がついた時は我ながら愕然としたものだ。




痩せてしまうだけならまだいいのだが、栄養が足りない状況でそうした仕事を続けていると身体は内部から破壊されてゆくものである。私は今の仕事が決まる三週間ほど前、ついにある現場で右腕を疲労骨折してしまった。骨折といっても真っ二つに折れてしまったわけではなく、ひびが入ったような状態である。それでも腕はかなり腫れ上がるもので、その腫れが指につながっている腕の腱を押し上げる恰好になり、指が手の甲の方に突っ張って反り返った。手首を捻る度にぎしぎしという鈍い音がして激痛が走ったことは忘れたくても忘れられるものではない。どれほど痛くても健康保険のない私は医者にかかれないし、まして払うお金などあるはずもない。何より、こうした状況でも休まずに働き続けなければ、その先に待っているのはホームレスの未来と、その末の飢えによる死しかないのである。




私はそうした未来から逃れるために必死で働いた。悪化を防ぎ、負担を出来るだけ減らすために出来るだけ手首を捻らないようにし、肘から先を動かさないようにした。そのため肩から肘までを上手く使うようにして重い荷物も持つようにした。指も出来るだけ動かさなかった。その上、収入が途切れないよう仕事を切らさないようにする必要があったため、そのことを誰にも悟られないようにしなければならなかった。そのために物凄く働いているように人には見せながら、ずる賢く手を抜くことも覚えなければならなかった。腹は減るし、喉も渇いたが、電気と水道だけは停めるわけにはいかなかったのでとにかく遮二無二働き、水をひたすら飲むことと心をコントロールすることで何とか空腹感を押さえた。そうして働きながら仕事も探した。面接地までの交通費が惜しくなることも何度もあったが、未来への投資と思って無駄かもしれないものにも出来るだけ足を運んだ。この時期は本当に辛かった。思い出すのも苦しく思われるほどだ。器用に動く指しか武器のない私にとって、その武器を失うのではないかといったことがその時は本当に不安で恐ろしかった。本当に怖くてたまらなかった。あんな思いはもう二度としたくない。










あの時出た賽の目の如何んによっては、その後私がどうなっていたか、私自身にも分からない。私はあの時本当に運が良かっただけだと今でも思っている。




祖母や親友が護ってくれたのか、或は、神が誰かに与えようとしてその手にすくった幸運の雫がその時偶然私にかかったのか、どちらにせよ、そういったものであったのだろうと私は思っている。私の努力や能力などとは全然関係なしに、唯々偶然私はその時助かったのである。




いよいよお金も無くなり、日雇いのアルバイトに行く交通費さえ捻出出来なくなった時は、家の中にあった家電製品を始め、およそお金にかえることが出来るものを全て売ることで、私は僅かばかりのお金を作っていた。それでも売れるものなどはそれほど多くはなく、売れたとしても幾らの値もつかなかった。書棚にあった沢山の本もほとんど売ってしまったが、今時本などを売ってもたいしたお金になどならないものだ。売れたとしても殆どのものが十円単位で、かなりの量を持ち込んだとしても僅か数百円ほどにしかならなかった。それでもCDやDVDなどはいくらか高く買い取ってもらうことができ、その時は本当に助かったのを今でもよく覚えている。しかし、やはり一番高値で売ることが出来たのは何といってもデジタル家電だった。万単位で買い取ってもらうことが出来たので、それを支払いに充てることでずいぶん楽になることが多々あった。こうして家の中のあらゆる家財道具を売り払ってその日その日の命をつないでいたが、そのかわり私の部屋はまるで空箱のようになってしまった。




そうして私はかなりのものを売り払って僅かなお金に換えていたが、それでもどうしても売ることが出来ない物も幾つかあった。本の場合は売ったとしてもほとんど値がつくことがなかったので、自分が高く評価しているお気に入りの作品はそのまま残しておくことが出来たが、CDの中にふたつだけどうしても手放すことが出来ないものがあった。それはバッハの無伴奏バイオリン曲とマタイ受難曲のふたつだった。




私はもう今度ばかりはいよいよ駄目かもしれないと思い、その頃少しずつ覚悟を決め始めていた。そう簡単に死なせては貰えないだろうとは私も分かってはいたが、地下道や橋脚の下、公園などで、寒さや飢えでまるで呆うけたようになり、そのまま衰弱して死んでゆくのだろうと思っていたので、そうした時にこのふたつを聴くことが出来れば、いくらかでも安らかに逝けるのではないかと思って残しておいたのである。マタイのアリアは私が最も美しいと思うアリアであるし、無伴奏曲は私がある人を想いながら聴いた思い出のある懐かしい曲だった。人間苦しみの只中にある時には自らの美しい思い出にすがるものであるようだ。この時の私がそうだったといえるだろう。曲自体の素晴らしさと美しい思い出にすがることで、当時の私は自分自身をやっとのことで支えていた。それに、私はこの無伴奏曲を初めて聴いた時、縁もゆかりもない初めて聴くはずの曲であるにも関わらず、何やら得体の知れない熱いものが込み上げてきて涙が溢れて止まらなかったことを今でもよく覚えている。偉大な曲というものは神秘な力を持つのだろう。




そうした訳で、このふたつだけはどれほどお金に困った時でもどうしても売ることが出来ずに、空になったCDの棚にぽつんと寂しそうに残っていた。幸いにも私は運よく生き残り、こうして今はとくに困ることもなく暮らしているが、これから後も私がこのふたつを手放すことはきっとないだろうと思う。








人が苦しみの最中にある時、もしそういった人間を救うことの出来る芸術があるとしたら、私はそれは音楽であろうと思っている。そしてそれが私の場合この二つの曲なのである。






私は心底バイオリニストが羨ましい。この手で思いのままにあのような音楽を奏でられたとしたら、どれほど素晴らしいことであろうかとつくづく思う。そうした訳で、もし願いが叶うとしたらバイオリンを弾くことの出来る者になりたいと思う。生まれ変わりがあるとしたら是非ともバイオリニストになりたいものだ。

ここのところずっと晴れが続いている。外は空こそ白い雲で塞がれているが、その雲を通り抜けてくる強い光はまぎれもなく夏の光で、梅雨時の湿った空気を嫌というほど暖めている。梅雨といえば、今年は空梅雨のようだ。梅雨入り前はずいぶん雨が降ったものだが、梅雨入りしてからというものさっぱり雨が降らない日が続いている。この日の光の強さを見ていると梅雨明けももう間もなくのことであろうと思われる。




今年は去年の今頃咲いていたような花々の開花が心なしか少し遅れているような気がする。去年の同じ時期には満開だったと記憶しているような花が今年はまだ蕾の状態で、しかも発育が悪く花自体も小さい。球根を植えた時期が遅かったのか、或は梅雨前の大量の雨が成長に影響しているのか、詳しい理由は私には分からないが、こうした光景を見ると何とも訳もなく残念に思えてならず、辛うじて咲いている花を見ても何やら可哀相な気がしてくるものである。






私が自分の部屋の中に観葉植物を置くようになって一年程になる。今ではそうした植物の面倒を見るのが楽しく思えるほどになったが、その昔、私は部屋の中にそうして植物を置くことをとても嫌っているような人間だった。それまでは一度たりとも部屋の中に鉢植えの植物を置いたことはない。どのような植物であれ、自らが実際生活する環境の外にそれらがいるのは構わないのだが、そうしたものが自分の生活領域に入って来るということについては以前はどうしても受け入れられなかっのである。私のそうした感情には、土の中には多くの虫が潜んでいて、自分の知らない間にそれらに自分の生活領域を占領されてしまうのではないかという土への強い恐怖感が影響していたのだと思う。しかし、今ではそうした恐怖感はかなり薄れて、室内でも多くの植物を置いておけるようになった。人によっては植物の世話など、動きもしなければ鳴きもしないようなものなのだから随分つまらないものだろうと思うだろうが、それでも、毎日土の渇き具合を見ながら水をやったり、枯れた葉を取り除いてやったり、日当たりが偏らぬようにこまめに向きを変えてやったりなどしていると、それらが新しい芽や葉を出してきたりした時などは何とも心がほくほくとするような喜びがあるものなのである。鮮やかで瑞々しい新芽がくしゅくしゅとした葉を少しだけ覗かせているような様子など本当に愛らしいものなのだ。これらのものは私が世話などしてやったところで感謝などするわけでもないし、枯れてしまうにしても助けを求めて声を上げるわけでもない。こうしたことは全て私が一方的に行っていることで何ら対価など生まれないものだ。極端な言い方をしてしまえば自己満足なのである。しかし、私はたとえこうした物言わぬようなものでも世話をしていると、何故だか不思議と心が安まるような思いがするのである。何かを世話していること自体が楽しいのだ。




人が聞けば滑稽と笑うかもしれないようなことだが、土は乾いていないだろうかと様子をみたり、葉が枯れていればどうしたのかと心配したり、萎れていた葉が元気になれば喜んだり、新しい葉が少しづつ開いてゆくのを毎日楽しみに確認したりといった様々なことが何ともいえず楽しいのである。そうしてやきもきと気をもんだりすること自体が私にはとても楽しいものなのである。いやはや、何と暗い楽しみであることかと呆れる者もいるであろうが、まぁ待ち給え諸君、それは放っておいて欲しいのだ。そんなことは私自身が誰よりもよく分かっている事なのだから。しかしそれでも、何と根暗な男だと笑い飛ばしたければ私はそうしてくれても一向に構わない、いや、是非ともそうしてくれ給え。






私の植物に対するこうした傾向は、おそらく祖母からの影響だろうと思われる。それというのも私の育った家庭には花だけに限らず、植物を育てるなどというようなことに関して、何かしら興味を抱くような者は祖母を除いて誰ひとりとしていなかったからである。母が手習い程度に生け花を習っていたが、それもそれほど熱心なものではなかったし、それに生け花は切り花を扱うものであるから、植物を育てることに興味をもつということとは別種のものであろう。








私の実家には庭とは別に花壇があって、祖母はそこに季節ごとに様々な花を植えて育てていた。先に話した通り、祖母以外ではそうしたことに興味を持つ者は私の家族にはいなかったので、専ら祖母が一人で花壇の花の世話をしていた。その当時は私もそうしたことに全く興味が無かったので、暑い夏の炎天下の下、黙々と草取りをする祖母の行為は、子供だった私には全く理解できないものだった。一人黙々と草取りをする祖母の丸まった背中を眺めながら、私はつくづくよくやるものだなと半ば呆れながら思ったりしたものだった。その姿はまるで、そうすることがごく当たり前のことで、是非ともそうしなければならないと信じ込んでいる修行僧か修道士のように見えた。




それでも、祖母の場合はその作業の程度が幾らか度を過したようなところがあって、そこまで取ってしまうと良い土が外へ流れ出てしまうので残しておいた方がいいというような場所まで全て取ってしまっていた。もちろん、皆そこは取らなくてもよいのではと言ってはみるのだが、頑固な祖母が自分の意見を曲げるなどということがある訳もなく、いつも取らなくてもいいようなところまで、まるで髭でも剃りあげるかのようにきれいに草を取り尽くしていた。




祖母が育てる花は、それが好きだからか、或は育てやすいからかは分からないが、たいてい種類が決まっていた。菊は仏壇に供えるために、いつも北側の庭で別に育てていたが、他のものはたいてい南側の庭で育てていた。水仙やマーガレット、パンジーなどは毎年同じ場所に植えられていて花を咲かせていたのを今でもよく覚えている。とくにマーガレットはその場所に根付いているのか、毎年同じ時期に大量の花を咲かせていた。その他、どうしてかは分からないが、祖母はいつも鶏頭と葉牡丹だけは毎年欠かさず盛んに栽培していた。この祖母の趣味は今でも私にはよく分からない。葉牡丹など私の目にはうっすら色の付いたキャベツにしか見えないし、鶏頭にいたっては形状がグロテスクなのと、あのけばけばしい色合いがどうしても私には昔から馴染めず、祖母がどうしてこんなものをきれいだと感じるのかが私には全く分からなかった。




他にも私の知らないような花々を祖母は多く育てていたが、残念ながら私がその花の名前を知らないのと、その当時は花などに興味などなかったせいで覚えていない。しかし、たいてい祖母は先に話した菊や水仙、葉牡丹に鶏頭を好んで育てていた。とくに菊の場合は古くから育てているらしく慣れたもので、白や黄色の菊をたくさん育てては仏壇に供えたり、墓参りに持って行って墓前に供えたりしていた。それでも時期によっては花が残ることがあって、そうした余裕のある時は切り花にして新聞紙に包み、それを近所の家々に配っていた。そうして隣近所に花を配るときには私もよく手伝わされたものである。もちろん昔気質の祖母のことなので、そうして手伝いなどしても小遣いなどくれるわけでは決してない。そうすることは祖母の価値観からすれば当然のことだからである。




祖母はそうした一見地味な花を好むような人だった。庭には祖父が植えたと聞いている古いツツジが植えられていたのだが、ツツジの花の色味や花形共にとりわけ美しいとも思わない私と違って、祖母はそのツツジの花がとても気に入っているようだった。




植物を育てることに魅力を感じるような性質は、そうした祖母の強い影響があってどうやら受け継いでしまったようだが、しかし、好みについてはほとんど受け継がれなかったようである。




先に話した通り、祖母は少し地味で無骨な、どことなく土の匂いのするような昔ながらの花が好きな人だった。そうした部分でも昔ながらの古典的な審美感を祖母はずっと持ち続けていたのだろうと思う。そうした好みからか、花屋の店先に並んでいるような色とりどりで華やかな印象を与えるような花はどことなく苦手なようだった。おそらくそれは嫌っているのではなくて、謙遜と慎みが美徳とされた時代に育ったような人なので、そうした華やかなものに対しては何となく尻こそばゆいというか、面映ゆいというか、そういった複雑な思いがあったせいだと思われる。




そういった祖母の好みに対して、どうやら私は華やか、というか繊細で雅やかなものを好む傾向があるようである。これは最近気が付いたことだ。祖母が聞いたら男のくせにと笑われること必定だが、しかし、こればかりは好みなのでどうにもしようがない。祖母は花に香りを全く求めない人だったが、私は香りのある花が大好きときているので、祖母と孫とはいえずいぶん違いが生まれるものである。桜や藤、菖蒲、百合、薔薇や木犀といった、およそ祖母が育てたことのないような花ばかりを好んでしまう。私の家にも誰が植えたか分からない白い薔薇があったが、祖母は薔薇には全く関心を示さなかった。おそらく興味の対象外だったのだろう。




花だけに限らず、私はどうやら叙情的なものを好むような傾向があるようだ。このことについてはもう数年前に気がついていた。男の好みとしてはあまりよろしくないものだが、花の好みと同じで、何に惹かれるかということは理屈の外のことなのでどうにもならないことなのである。男としては情けなく、弱々しいことこの上ないが、どうにもならないことなのだ。竜笛より篠笛、三味線より箏、ドラムやトランペットよりもバイオリンやピアノといったようなものなのである。








私が、たとえ幾らか馬鹿だとしても、もっと男らしい男であったならば、幼い頃から多くの人々に愛されただろうと思う。男は半ば獣でも、やはり男らしいのが一番である。人もそう思うものだ。私のように美しさに心が惹かれてしまうような者は所詮片輪者なのだ。そういった人間はたいてい心底からは人に愛されないものである。




美とは何とも不思議で厄介な代物だ。まるで天使で悪魔のようである。それとも、人知を越えたものであるが故に益も害も共に我々に及ぼすのであろうか。






何にしろ、薔薇を育てられる庭が欲しいものだ。今の住まいでは薔薇どころか朝顔さえ育てられない。