ブログを更新しなくなって随分経った。


 更新しなくなった理由は様々あるのだが、ひとつには更新をしなくなったちょうどその頃に携帯をiPhoneに変えたことがあると思う。

今ではガラケーと呼ばれるようになった二つ折りやスライド式に代表される以前からのスタイルの携帯はテンキーでの日本語入力に非常に適したものだったので、長文を電車の中などで移動しながらでも容易に作成できたのだ。しかし、タッチパネルではそうはいかない。長い文章を作成するのはかなり困難であり、そのうえ日本語の予測変換もその当時はかなりお粗末なものだったため、携帯で文章を作成するということ自体がまったく無くなってしまった。


 ふたつ目は、といってもこちらの方が主な理由であろうということは自分でも分っていることなのだが、その当時、私はネット上に蔓延する悪意に心底からうんざりしていたのだ。

そうしたことは今でもすこしも変わってはいないとは思うのだが、その当時の私は精神的にもかなり疲れていたのだろうと思う、人間のちょっとした悪意にもかなり敏感になっていたのだ。
仮に謂れの無い非難を浴びせられている人がいたとして、たとえその人が自分とは縁もゆかりも無い人物であったとしても、憂さ晴らしの為だけにに罵詈雑言を投げつけられている人を見るのは堪えられなかったし、また、そうした悪事を働く人達をも私は見たくなかったのだ。

こうしたことを言えば、おそらく豆腐メンタルと笑われるのであろうが、それ位までに当時の私の心は弱っていたのだろうと今は思える。


 それで、何故今更一度やめてしまったようなブログを再開しようと思ったかというと、とくにこれといった理由は無い。始めた時と同じように、何となく文章を書きたいという欲求が溢れてきたといったところだ。なんともお粗末な動機だが、なんにしろ私の中で何らかの欲求が嵩じて私にそうしろと促すのだから、私はその動物的な得体の知れないものに従うことにする。

私はこの “何となくそういう気がする” という勘のようなものが囁きかけてくる時はそれに従うようにしている。それがいつも正しいということは無いのだが、そうしたことで大きく間違ったということがこれまでにないので、いつもそうすることにしている。
こういう言い方をすると何やらまるでオカルト的な感じがするが、私はそういう人物ではない。ただ、私の中の無意識が、まるで私の意識を蔑ろにするかのごとく直接私の体に感覚的に知らせてきているのではないかと自分勝手に納得しているだけのことだ。



 いつからブログを更新していないのか全然憶えていない程だから、当然のことながらそれまで何を書いていたのかもまるで憶えていない。あらためて随分時間が経ったのだなとつくづく思う。
それで、ブログの更新をしなくなってから以降で私に起こったことを小さいことから大きなことまで、思い出すままに箇条書きで書いてゆこうと思う。


◎借金の精算が完了した。
  一時期300万以上あった借金は数年前に整理・完済した。
  全てが終わるまでの期間は大体2年弱ほどだったと思う。
  給料の半分近くが返済に消えるという現実がなくなった時の感動は忘れがたい。

◎職場が移転になった。
  規模が大きくなり以前の職場では手狭になったので引っ越しになった。
  現在の職場は大田区にある。

◎引っ越しをした。
  職場が移転したことが第一の理由。
  以前までの住所だと通勤時間があまりにも長くなってしまったためだ。
  上記の理由に加えて収入が安定したということもある。
  現在は賃貸、新築のワンルーム。職場と同じ大田区内にある。
  浴室乾燥機がこれほどまでに便利だとは思いもよらなかった。感謝である。

◎引っ越しを機会に家具家電を全て買い替えた。
  毎日帰宅時間が日付が変わる前後まで働いた。
  休みもほとんど取らなかった。というか取れなかったし取る気もなかった。
  稼いでも使い道は無く、休みは死んだように眠る生活だったので勝手にお金は貯まった。
  上記の理由があって出来たことだと思う。
  物持ちのいい方なので家具家電共にほとんど痛みもない。

◎主任になった。
  名ばかり店長のようなもの。待遇は変わらない。

◎婚活をした。
  有料のお見合いサービスのようなもの。
  “ 嫁は要らないが子供は欲しい ”という考えが当時の私にはあり、そこにつけ込まれた。
  料金が手頃だったのでやってみたが得るものは何も無かった。
  この市場では私はもはや不良物件でさえないのだという現実を確認した。
  得るものは無かったが特に恨んでもいない。いい経験になった。

◎ジョギングを始めた。
  始めた理由は山登りの為の体力づくり。
  1年半ほど続けて、ジョギングだけでは満足できなくなりジムに通うことにした。
   
◎ジムに通うようになった。
  去年の10月から通って来月で1年になる。
  週に3~4日で通っている。
  1年で6キロ減、筋量も増え大胸筋や腹直筋も目で見て分るほどになった。

◎一眼レフを買った。
  コンデジを姪っ子に譲り、一眼レフを購入した。
  購入理由はコンデジの小口径レンズでは広角側での周辺の歪みが気になるため。
  最近、より大口径のレンズを別に購入した。非常に満足している。
  
◎ゲームをするようになった。
  引っ越しを機会にPS3を購入した。
  週に1~2度、1時間から2時間程度プレイする。
  格闘ゲームしかやらない。理由はやめようと思った時にすぐにやめれるから。

◎アニメを見るようになった。
  2003~4年位からアニメは見ている。
  録画機能付きのテレビを購入したことが機会になって深夜アニメを撮り溜めている。
  見るのは1日に1本(30分)。休日なら3本程。オンデマンドのような状態。
  ハーレムものの良さがよく分らない。それでも否定はしない。こうしたことは多様性が大事。
  
◎とりあえずテレビをつけるという習慣がなくなった。
  数年前までは見る見ないに関わらず帰宅したらテレビをつけていたが、それをしなくなった。
  世間では色々な理由が言われているが、単純に面白いと思わない。
  見るものはほぼ決まっており、それを録画して自分の好きな時間に視聴する。
  人々がその生活をテレビに合わせるようなことは今後もう無いと思う。
  
◎十年ぶりに恋をした。
  これは私自身も思いもよらないことだった。
  結果は望ましいものではなかったが、いまでもその娘のことは大好きだ。

◎iPhone5を予約した。
  ハード側の能力が限界に近づいているのでこの選択は当然のことと言える。
  予約の成立は在庫を確認してからなので確定するのは17日以降になると思う。
  予約したものは32GB/White。
  私はケースや保護フィルムなどは使わない。
  前述したように異常に物持ちがいいので今の3GSにも傷らしい傷がないため。



 以上、長々と小さなことから大きなことまで書いてきたが、箇条書きにすると私のつまらない人生にも色々と起きていることがあるものだと実感した。
ざっと思い出すままに書いてみたので漏れているものもあるかもしれないが、そうしたことは思い出した時に書いてゆくことにしたいと思う。


 最後にもうひとつ、一番始めに宣言したとおり、このブログでは時事問題に関しては扱わない。これは私がこのブログを始めるにあたって制定した憲法なのだ。

又聞きの又聞きのような伝聞による情報をもとに、ネット上で無責任に文字と言う言葉を投げつけあったとしても、それは正しく論争とはいえないと私は思うからだ。
しかも、共産圏であれば仕方が無いとして、言論の自由の保障された国に住まいながら、皆が匿名と言う仮面を被って互いに汚物を投げつけ合う様は、私の目には滑稽なものとしか映らない。

私は決して政治に無関心なのではない。それはこの世の全ての尊いものを指して誓うことが出来る。嘘ではない。
私はただ、そうした論争は匿名でなされるべきではないと強く信じているだけなのだ。
故に、匿名でなされるこのブログでは私個人のこと、私がこの目で実際に見た、聞いた、行った、考えた、経験した等々、私が直接関わったことなどを扱うことにしたいと思う。



さて、今度はどれだけ続くか分らないが、以前よりも雑多なことを交えながら気軽にやっていきたいと思う。

外は真っ青に晴れ上がっている。何と疎ましい天気であることか。この無遠慮な日の光が実に憎らしい上に何より暑くて堪らない。




今日私が見た朝の天気予報では雨を匂わすようなことを言っていたので傘を持って家を出たのだが、どうやらこのぶんでは使うことはなさそうだ。




週間天気予報を見るかぎり、来週末にはどうやら梅雨明けのようだ。梅雨が明ける前にもうひと雨くると思っていたのだが、このぶんではどうも降りそうにないように思える。世間一般では晴れの日の方が喜ばれるのだろうが、こうしたうんざりするほど暑い快晴の日ばかり続かれると私のようなものは本当にまいってしまう。






先日、といっても何週間も前の話だが、私は生まれて初めてカラスに襲われる体験をした。




私感だが、最近私の住んでいる地域に以前よりもカラスの数が増えたような気がする。おそらく何処からか追いやられてこの地域へやって来たのだろう。実際に増えたのかどうかは調査をしたわけではないので正確なところは分からないが、それでも私が今の住まいへ越してきた当初よりも、早朝聞こえてくるカラスの鳴き声が増えたことは確かである。




カラスをはじめ、鳩やネズミ、また、都市環境に適応したカモメなど、都市に住むそうした獣の多くは時として実に凶暴なものである。カラスなどはその最たる例で、高度成長期以降、長い期間人が食すような高カロリーの食物を食しながら多くの世代を重ねたことによってかなり知能が発達しており、そのうえ鳥類が元来持っている強い攻撃性がその行動に如実に現れている。現在主流とされている学説では、なんでも、鳥類は小型の肉食恐竜から進化したものだと言われているらしいが、彼等のあの強い攻撃性を見ていると、全くの素人の私にも果たしてそうかも知れぬと思わせるようなところがある。




ゴミの収集日には、彼等にゴミを荒らされないために都市部の住宅街ではもはや当たり前になったゴミ用のネットが私の住まう地域でも広く使用されている。誰しも自分の出したゴミ袋を食い破られて中身を外に散らかされるのは嫌なものらしく、皆が一様にそのネットの中にきちんとゴミ袋をおさめてゴミを出している。しかし、おそらく最初はかなりの効果を発揮したと思われるこの対抗策も、今ではほとんど用をなさないものになりつつある。




彼等は餌場のひとつとしているその地域一帯のゴミの収集日をきちんと記憶していて、朝まだ暗いうちから仲間と鳴き交わしてその収集場所付近に集まってくる。私はその頃まだうとうととしているのだが、眠っているか覚めているかといった曖昧な世界の中に何処からかカラスの鳴き声が入って来るのでそのことを知っているのである。最初は一羽が鳴いているだけなのだが、その数は次第に増えてゆき、最終的には四羽から五羽ほどの数になってまるで会話でも交わしているように鳴き交わすようになる。一応ゴミを出すのは八時までになっているのだが、ゴミの収集車が収集に来るのはもっとずっと後の事なので、ゴミが集まってから収集車が来てそれらが無くなるまでの間が彼等の食事時間になる。




いくつもあるゴミの袋の上にきれいにかけられたネットを彼等は器用にめくり上げて、ゴミを出しにくる人間をずっと観察していたのかと思えるほど的確に、多くのゴミ袋の中から新鮮な食べ物の入ったものを選びだす。そうして鋭いくちばしで袋に穴を開け、中から残飯や、賞味期限がきれてしまってはいるもののまだ食べられる食物を取り出して食べるのである。海亀や海鳥がビニールの袋などを誤って食べてしまって命を落とすことがあると聞いたことがあるが、彼等にはそういったことなどまるでなく、食材についたビニールでも包み紙でもきれいに取り除いて食べてしまう。恐るべき学習能力である。進化の過程において肉食は脳を発達させる一因になると聞いたことがあるが、果たしてそうであるかも知れないと思われるものである。どうかすると、彼等は季節毎にどのようなものが残飯としてゴミに出される傾向にあるのかさえ熟知しているのかも知れない。






その日は急に頭の後ろの方で羽音が聞こえたので、私はとっさに頭を低くした。始めはあまりに急なことだったので何が何やら分からなかったが、自分の頭の上を飛び去ったものの姿を見てそれがカラスであることを知った。直ぐに反応したとはいえ、頭に少しだけ足が触れたのがはっきりと分かった。私は幸か不幸か、やたらと自尊心の強い人間なので、ただそれだけのことで何か自分の身が汚されたように感じられ、もともと火の気が強く燃え上がりやすい私の心の中は真っ赤に燃え上がってしまった。しかし、片手には鞄を持ち、シャツの浅い胸ポケットには携帯が入っているので激しい動きもとれず、しかも電車の時間が迫っていたこともあって、その日は怒りをこらえて先を急ぐことにした。しかし、凶暴化してずる賢くなったカラスはしつこく、背中を見せた途端に低空飛行で追ってくる始末だった。電車に間に合わなくなるぞと自分に言い聞かせながら怒りを抑え、私はカラスと対峙したまま後ろ向きに彼等の視界から消える曲がり角まで歩くことにした。つくづく嫌な奴らだと思われるのは、面と向かって対峙したときには大声で鳴くばかりで全く襲って来ないくせに、体を半身にでもするとすぐに頭を低くして飛び立つそぶりを見せるところである。全く薄汚い卑怯者である。昔あるニューヨーカーが鳩など羽のついた鼠だなどと言っているのを聞いて、なるほど上手いことを言うと思ったものだが、その弁でいけばさしずめカラスなどはくちばしのついたゴキブリといったところだろう。




私がそうして後ろ向きにカラスと対峙して歩いていると、けたたましい鳴き声に何事かと表に出てきた老婆と行き会った。話してみると、いつもはこれほどではないとの事だったが、性質の悪い害獣に絡まれている私を見て老婆はいくらか私に同情してくれたようだった。




結局この日はこの一件でいつもの時間の電車には乗れず、一本遅い方の電車になってしまった。しかし、この辺りはまだ学校に上がるか上がらないかといった幼い子供も多いので、そういった子供達が襲われはしないかと無性に心配になってしまった。大事が起こってからでは遅すぎるので早めに何とかして欲しいものである。




その後も私の怒りはなかなか収まらず、今度会った時には木刀で打ち落としてやろうと手薬煉ひいて待っているのだが、なかなか奴らが現れずに口惜しい思いをしている。木刀でどうやって羽のついたものを打ち落とすのかと笑う者もいるだろうが、都市のカラスは1メートルまで近づいても全く逃げないし、飛び掛かってくる時には人の腕の長さほどの間合いまで近づいてくるのである。それほど我々人間の事を侮っているのだ。動物をよく知る者なら分かることだが、人間を侮り、悪い癖のついた獣というのは非常に危険なもので、たいてい元のように直すことは出来ないものである。極端な言い方をすれば、血の味を知った虎とひとつ床で臥す事が出来ないのと同じ道理である。






害を為す獣とはいえ、命を絶つのは心苦しいものだ。害獣であれその体には赤い血が流れており、触れれば温かくもあるからである。しかしそれでも、より我々にとって深刻な不幸を生み出さないためにその命を絶ち、駆逐するのは正しいことであると私は信じているし、ありとあらゆる全ての命が等しく尊いため、殺生すなわち罪という者の言葉など私は愚にもつかない虚言であると確信している。そうした命と命のせめぎ合いは、およそこの世界に存在する全てのものが、その存在を現した時から負うことになった宿命であるはずである。それ故に、生死を問わず、その相手の存在を自身の生存の為に必要なだけ押しやるのは当然のことであり、そうされるべき事であると私は思う。私欲や楽しみからそれを行えば当然罪にあたるだろう。その肉を食べもせず、毛皮や骨、脂、角などまるで役立てるつもりもないのに、唯々楽しいという理由からのみ行うハンティングのようなものである。しかし、自分達の命をつなぐために良い実をつけるものの種だけを残し、悪い種や役立たない実のものを取り除いてゆくことは誰しも行うことであり、我々はそうして今日まで命をつないできたはずである。






私はこうした豊かな時代、豊かな国に生まれた者が、物事の目に見える部分のみに感激し、感激から偏った思想に走り、自分一個の思想を御旗に掲げて他の国々や人々を非難するような者を目にするたびにつくづく残念に思うことがよくある。米一粒作ったこともない人間が農政を語り、戦争を知らない若造が老人の前で戦争や国防を語る。動物は大好きだと称しながらその世話は全くせず、肉が大好きと言いながら屠刹される獣の声を聞いたこともない。こういった者達は自分がいかに脆い肉の塊で、どうにかこうにかこの地上に存在できている獣の一つであることをついつい忘れているように私には思える。そうした獣であることに心底から得心出来ていないところが則ち彼等の言う自然から彼等自身が遠ざかっていることの何よりの証であることに気がついていないようである。戦争に夢中になるのは塹壕にいる兵士ではなく、何の危険もない会議室の一室にいる人間であると誰かが言っていたが、この理はこの場合にも通ずるところがあるように思う。








何にもせよ、最近ではカラスの姿を目にしたときは気をつけるようにしている。朝から糞など落とされたのでは誰でもたまらないではないか。

残念なことに日に日に暑くなる。曇っているにもかかわらずこの蒸し暑さときたらいったいどういう事であろうか。




今年は例年にもまして、ぎりぎりまでエアコンを使わずに扇風機で乗り切ろうと考えている。何も地球環境のことを考えてという訳ではない、少しでも電気代を節約しようというケチな魂胆からだ。そこまで電気代の高騰を気にかけなければならないほど生活に困っているわけではないのだが、大体において、私はエアコンの不自然な冷気が苦手でもあるし、体調を崩す原因にもなるものなので出来るだけ控えようと考えてのことである。それに、人間安楽な方に流されやすいもので、一度それに頼り始めると辛抱というものをしなくなる傾向があって歯止めが効かなくなるものだ。そのため、結局最後には頼ることにはなるのだが、無駄な抵抗を承知の上で毎年いよいよという時までエアコンのスイッチは入れないことにしている。




私の部屋に窓が二面以上あれば、僅かばかりでも風を入れて溜まった熱を放出することが出来るのだが、残念なことに南側に一面しか窓がないために空気を入れ替えることもなかなか難しい。








私の住まいの周辺には多くの紫陽花が植えられているが、その紫陽花も最近は花の時期を終えたものが目立つようになった。家を出て最初の角にある紫陽花などは、今朝見たときには花は殆ど終わってしまっていて、残っている花はほんの僅かで、その残っている僅かばかりの花も花弁の縁が茶色く色が変わり始めていて、欝陶しい暑さのなか力無く萎れていた。この紫陽花も蕾が膨らみ始めたのがついこの間のような気がするが、今年こうして会うことができるのももうあと僅かのことであろう。花が終われば一年の間会うことが出来なくなるが、おそらくきっと来年も今年のように大きく立派な花をつけて私の目を楽しませてくれることだろうと思う。




こうして考えてみると、ただの紫陽花ひとつにしても、一生のうちに目にすることの出来る機会など僅かなのだと思い知らされる。あまりにも当たり前に咲いているので、人はついついそうしたことの尊さに気付かずにいることが実に多いものだ。