私は人との係わりが殆どない人間だったので、夏の思い出というようなものが全くといっていいほどない。

成長すればするほど、私個人の歴史が現在へ近づけば近づくほどそういった思い出がないように思われる。

私には記憶が無いも同然だ。


しかし、過去にこの目で見た光景や心に感じた印象などは、断片的ではあるが憶えている。

そうした記憶の中でもう見ることは出来なくなった夏の夜空のことが思い出される。


夏休みも終盤に近づく頃、私の郷里でも地元の花火大会があった。うんと小さい頃、まだ私の身長が1メートルに満たないくらいの頃に連れて行ってもらったことが一度あったと思うが、私の父親はそうした娯楽に対する出費には恐ろしくけちなうえ、人ごみが嫌いだったのでそれっきり行くことは無かった思う。いや、人ごみが嫌いというよりも子供の私たちが夜店の食べ物やおもちゃなどをせがむのが疎ましかったというのが本当のところだと思う。小さい頃から物をせがんだりねだったりしては怒られた記憶がある。今でも憶えているのが、打ち上げ花火を見ては「馬鹿どもが金を燃やしてやがる」とか、家庭用の花火を欲しがったり誰かが買ってきたりすると「無駄遣いだ、金を燃やしてるようなもんだ」などと散々に言われ、弟とこっそりやっていたことを憶えている。弟とどれだけ楽しく花火を楽しんだ後でも、いつものごとく人格が変わるほど酒に酔った父親から散々に悪態をつかれ、嫌な気持ちで布団に入ったものだ。


そんな夏の夜、お盆も終わって、そろそろ夏休みも終わりが見えてきた頃に花火大会は行われていた。「そんなものは無駄遣いだ」との理由で私も弟も花火大会へ行くことは禁止になっていたが、十数キロ先で打ち上げられる花火を庭先から十分に見ることができた。

家にあった床机を庭先に出して弟や祖母と腰掛け、十数キロ先で打ち上げられる花火を眺めた。田舎の花火大会なので打ち上げられる花火の玉数は東京の花火大会とは比較にもならないほど少ないのだが、それでも十分な量だったと思う。距離があるので花火が開いてから自分たちの腰掛けている地点まで音が到達するのに時間差があった。夜空に上がってゆく細い光が見えたと思ったら、そのすぐ後にぱっと花火が開いて、きらきらときらめきながら暗い夜空に光が染込むように消えていった。あまり連続では上がらない花火が開いては消え開いては消えて、夏の夜空に染込んで消えてゆく火の粉の一つ一つを私は目で追いかけた。ぱっと開いた花火が大きいと音も大きくて、遅れてくる音の大きさに不意をつかれ、びっくりして弟と顔を見合わせて笑った。祖母が冷えたスイカやうちわを持ってきてくれて、みんなでスイカをかじりながら花火を見た。祖母が立てるパタパタといううちわの音が聞こえ、蚊に食われないように私や弟の体を時おりうちわで叩いた。そうするうちに打ち上げ花火は終わり花火が現地での仕掛け花火になると私たちのいるところからでは見ることが出来なかったので自然とそこでいつもお開きになった。

毎年ある夏のイベントが終わって床机の上に仰向けに寝そべると、真上には夏の夜空に天の川がはっきりと見えた。天上を斜めに横切る天の川のほかにもたくさんの夏の星を見ることが出来た。私の小学生の頃まではその星々がどれもこれもはっきりと見えて、今では肉眼では見ることができなくなった星の瞬きもはっきりと見ることができた。そうして夏の夜空を見ながら仰向けに寝そべっていると自分が地球に張り付いている小さな存在であることをはっきりと感じ取ることが出来た。夏のぬるい風の中にも、その頃になると夜風にはひんやりとした風が時おり混ざった。しばらくそうして夜空を見上げながら弟と他愛のない話をし、その後床机を片付け家に入った。


母が食事の後片付けをする音が聞こえ、父親はいつものごとく酔っていた。出来る限り父親とかかわらないようにして静かにテレビを見た。私がまだ小学校も低学年の頃は夏場は一階に蚊帳をつっていたので蚊帳をつる手伝いをし、そっと布団に潜り込んだ。風が無い日は蚊取り線香の煙が部屋にこもって鼻をついたことをよく憶えている。眠りにつくまで弟とふざけたりして過ごした。あまりはしゃぎすぎると父親が出てくるのでほどほどにして騒ぎ、弟が眠ってしまうと柱の古いボンボン時計の振り子の音を聞きながら私も眠りについた。


今思えば、幸福な時代だったと思う。


最後に花火を見たのはいつだろうか?

記憶も辿れないほど昔のことだ。

ずいぶん久しぶりに日誌を書く。


もう数週間前から鬱症状は脱していて、側頭部の痛みもおさまっていた。

前回、最後の日誌をつけていた頃はかなり気分が塞いでいて、ずいぶんと青臭い内容のものを書き連ねてしまったようだ。今読み返してみると恐ろしく気恥ずかしい内容ではあるが、そのときの気持ちに嘘はないのでそのままにしておくことにする。


毎日うんざりするような暑い毎日が続いているが、はっきり言って私は夏が大嫌いだ。暑さ自体が苦手であるということもあるが、何よりもこの夏の夜にみなぎる悪魔的というか野性的というか、そうした荒々しい生命力に満ちた空気が私をひどく疲れさせるからだ。しかし、そうした空気に魅力を感じ、惹かれている部分があることも私自身の理性がよく理解している。


私が抱えている精神的な病の中でも、もっとも厄介なものの中に理性というものがある。私は思春期に入ったばかりくらいの頃からこの理性というものが頭から離れたことがない。常に心のどこかにこの理性というものが残っていて、周りの皆のようには振舞えたためしがない。感情の赴くまま、奔放になれたためしがないのだ。そして、この心の欠陥をその当時からよく認識し理解していた。

しかし、人は言うだろう、ではなぜその欠陥を認識できていて、それが欠陥であることを理解しているくせに何故直せなかったのか。また、そもそも直そうと努力したのかと。しかし、ちょっと待ってほしい。結論からすると私は戦うには戦ったし、あがいてもみた、そして結果として敗北したといえる。しかし、それは考えてみれば当然のことなのだ。その敵が理性であり、その姿をはっきりと捉えれば捉えるほどその姿は巨大化し堅固になるのだ。その敵を意識すればするほど理性は肥え太り、私の心にびっしりと深く広く根を張るのだから。斬れば斬るほど相手が増えるようなものだ。


ドストエフスキーがある作品の中で言っていたことだが、人間がその人生を幸福に全うするのに必要な意識量などほんの僅かでいいという。私もそう思う。

理性や意識などというものは人が過ぎた過ちを犯さない程度に備わっていればそれで十分なのだ。私はよく理性や意識などが癌細胞のように思われる時がある。人がこの地上に受けた生を幸福につつがなく暮らし生きてゆくのに必要な意識や理性などは、おそらく良性のポリープくらいで十分だと思う。いや、それでも十分すぎるかもしれない。


思えば人の人生など短いものであるし、人が一生の間にすることといえば程度の差はあってもたかだかしれている。大局的な見地に立って人の成す事を眺めてみるとだいたい似たようなものだ。それなのに、人はことさら何かにつけて理屈をつけ、事を難しくしているように思える。求めているものは極めてシンプルで単純であるにもかかわらずだ。ちょうど、意中の相手に想いを打ち明けるのと似ている。答えはひとつで、シンプルなものであるにもかかわらず、あれやこれやと考える。どれほど考えてもその考え自体がつまらないもので、求めているものではないことを百も承知の上でだ。こうした例は人がその人生において幸福のために求める事柄に対して、理性が存在するがゆえにその獲得を困難にしているという分かりやすい例だと思う。


しかし、理性があればこそ人間であることも事実なのだ。そうでなければ生物学的に見たところのサルとなんら変わらない。二足歩行をするサルというくらいのものだ。また、一切の理性を排除して人間がその人生を送ったとしたら、人の一生は蝉の地上での数週間と同じで、あっという間に過ぎ行き終わってしまうような味気ないものになってしまうだろう。


幸か不幸か厄介な理性という病を背負い込んだが故に私たちはサルからヒトになり、しっかりと結ばれた自然の環から少しだけ離れ、迷いや苦悩を持つことになった反面、心を持ち幸福を知るようになった。もちろん、動物も幸福を感じることはある。しかし、苦悩する心を持つ人間の感じる幸福と、しっかりと自然の環に抱きとめられた動物の幸福は性質の異なるものだ。そうした幸福を感じることができるのは心を持つ人間だけだろうと思う。


ずいぶん話が飛躍してしまったようだ。

何にもせよ、しかるべきときに理性によって身を律し、ある場合にはそれを振り払い情熱に身を任せることが出来なければならない。そうしたことが今の、いや、昔から私に出来ていないことだ。

ともかく、私は分不相応に巨大な理性を持ちすぎている。

この理性をどうにかして半分でも3分の1でも捨てられればいいのだが、なかなかそれが難しい。

うんざりするような日が続いている。毎朝私を叩き起こすギラついた夏の太陽が死ぬほど恨めしい。この季節の光は私には強すぎるのだ。世間には夏が大好きだという人種が存在するそうだが、私には全く理解できない。根暗でひがみやの日陰者には夏ほど嫌な季節はない。


最近気分がすぐれない。気持ちが落ち込んでどうしようもない。どうやらまた鬱症状が出そうな兆候だ。何もする気が起きなくなるのだ。家へ帰ってもテレビさえ見る気がしない。わいわいとした騒がしさがひどく気に障ってイライラするのだ。いつもだったら気晴らし程度にはなるのだが、こうなると気持ちを苛立たせるだけの迷惑な存在でしかない。それでも腹は空くので食事だけはとる。そうはいっても、本当に腹を満たすためだけの行為だ。一番手のかからなそうな料理を作り、無気力に口に入れる。不味くはない、作り慣れたものだけに失敗もない、しかし、たいして美味しいとも感じない。


今、ある光景が頭に浮かんだ。ずいぶん昔のことなのにこういったことはなかなか頭から消えてくれない。恨めしい限りだ。


それはたしか私がまだ小学校2年生の頃だったと思う。クラスのお誕生会なるイベントでのことだ。

こういったことがまだ現在でも行われているのかどうか分からないが、そういったクラスで誕生日を祝うといったレクリエーションが行われたことがあった。そのお誕生会なる行事は、一般的な小学校のあの3:4程の比率の長方形の教室を色紙で作ったチェーンや花飾りで装飾するところから始まる。勿論、その飾り付けはクラスの全員で行う。その飾り付けを作る作業もまたそのイベントの一環なのだ。勿論、私もその作業に参加した。その時は皆でわいわいと楽しく色紙で飾り付けを作ったものだった。だいたいにおいて小さな子供はこうした物を作るのが好きなものだが、その頃から私は手先が器用だったので皆にいろいろなことで重宝がられ、また、そうしたことが私自身頼りにされているようで嬉しかった。


私の家には誕生日を祝う習慣がなく、祖母が孫のためにと、年金でケーキを買ってきてくれるだけだった。その為、私はずっと誕生日のプレゼントというものを貰ったことがなかった。しかし、それは私の家が貧しいためだと幼心に思っていた。実際、私の家は私の住んでいる地域でも貧しい部類だったと思う。しかし、そのころはまだ貧しいだけだと思っていた。
だから私はこのお誕生日会で初めてプレゼントを貰えると思ってとても楽しみにしていた。その頃は私もまだ普通の愛らしい子供だったのだよ。生まれ落ちたときから今のようなひねくれた日陰者ではない。故に友達などもいたのだ。仲良く一緒に遊ぶ仲間もいた。もうだいぶ前から何を貰えるだろうかとずっと楽しみにしていたのだ。


飾り付けのすっかり済んだ教室はとても華やかだった。教室の天井の真ん中から四隅に向かって色紙のチェーンが掛けられ、扉や窓などにも柔らかい色紙で出来た花が飾り付けられていた。所々に金や銀の色紙でアクセントがつけられ、さぁ今から楽しいイベントが始まるぞというワクワク感を演出していた。


そのお誕生日会は季節ごとの生まれでまとめて祝うようになっていた。私は春の生まれだったので、学期の最初になった。
机が教室の後ろの方に寄せられ、壁に沿うようにして椅子が円形に並べられていた。お祝いされる側の人間が黒板のある前の方に座り、祝う側の人間がその他の椅子に座った。ちょうど真ん中にスペースが出来るようになっていて、そのスペースで皆が出し物をするようになっていた。どんな出し物だっかは覚えていない。小学校の低学年だ、きっと他愛もないものだったのだと思う。歌ったりふざけたり、誰かの物まねだったり、まぁ そういった類のものだと思う。そして、そうした出し物が終わり、いよいよプレゼントの時間になった。私達祝ってもらう側の人間が前に立ち、先生が声をかけると一斉にプレゼントが始まった。女の子は女の子に、男の子は男の子にそれぞれプレゼントが渡されていく。周りからは「はい!」「ありがとう!」といった声や笑い声が聞こえた。皆楽しそうだった。そしてプレゼントの時間が終わり皆がめいめい自分の椅子に帰っていくと、私は気づいた。私だけが一人ひとつもプレゼントを貰えずその場に立ったままでいることに。


今、このことを思い出しただけで、息が苦しく指が震えてうまくキーを打てない。


私はしばらく何が起こったのか分からなかった。頭の中になぜ なぜといった声だけが鳴り続けた。今でもあの時の皆の目をはっきりと覚えている。きっと最期の息を引き取るまで覚えていると思う。あの招かれざる客を見るようなしらけた目。それまで仲良くしていた連中のばつの悪そうな目。女子の死にかけのかわいそうな動物を見るような哀れみの目。先生のどう対処しようか思案し、うろたえている目。皆の目を私は今でもはっきりと思い出せる。
私は身の置き場も分からずそのままつっ立っていた。先生もこんな事になるとは思いもしなかったのだろう、かなりうろたえていた。しばらくして私と仲良くしていた者達何人かに話しかけ何事かを説得していた。しばらくするとその中の一人がしぶしぶ私の方へプレゼントをもって近寄ってきた。ばつの悪そうな、仕方なさそうな様子でやって来て私にそれを渡した。それは勿論私あてのものではない。彼はそれを渡し終えるとそそくさと自分の椅子に帰っていった。


私は幼心にもこの時にはっきりと悟った。自分が本当には誰にも愛されていないことを。家で誕生日を祝うことがなかったのも、プレゼントを貰うことがなかったのも、理由は家が貧しいからでもなく、習慣がなかったからでもない、ただ単純に私が誰からも愛されていなかったというだけなのだ。学校でも頼りにされていた訳ではなく、単に重宝がられていただけなのだ。利用されていただけなのだ。いると信じていた友達も本当にはいなかったのだ。最初から存在していなかったのだ。私が勝手にそう思い込んでいただけなのだ。私はこの時に経験した疎外感を一生忘れないだろう。いや、忘れたくても記憶から消えてくれることはないだろうと思う。


私も生まれてからそれまではすくすくと健やかに育っていたのだ、自分のことながら素直な愛らしい子供だったと思う。今では考えられないことだが、あの頃は私はどちらかといえばひょうきんで明るい性格の子供だった。しかし、それからはそれ以前のようには振る舞えなくなった。まったく裸になって相手を信用することが出来なくなってしまったのだ。いつも猜疑心にさいなまれて相手に全てをさらけ出すことが出来なくなった。今は仲良くしていても、いずれここぞというときには裏切るんじゃないかとか、心の中では本当には私に親しみなど感じていないのではないかとかいったふうに、いつも相手を疑ってみる姿勢が身についてしまった。そうしたことは相手にも伝わるもので、皆との関係もしだいにぎくしゃくとしたものになっていった。何よりも私が友達というものを作れなくなった。クラスが変わっても、中学 高校と学校が変わってもそれは変わらなかった。新しい出会いにも、ある一定の距離まで近づかれると私の中でむくむくと猜疑心が起きだしてきて、それ以上はだめだと私に囁くのだ。歩み寄ろうとする私の背中を引っ張って、きっとあの時と同じだぞ、後悔するぞと私を行かせてはくれない。それでも、勇気を振り絞り、猜疑心の言葉を振り切って歩み寄っていったことも何度かあった。しかし、残念ながら結果は猜疑心の忠告した通りだった。そのたびに彼は「ほら、言ったとおりだったろう。だから人は信用ならないのだ。」と私の肩を抱いて暗がりのベンチに腰掛けさせた。


話を戻そう。先生はそうして事態の収拾を終えると、早々にお誕生日会を解散させ普段の学校生活に私たちを戻した。

そのあと、掃除をして、家路についた訳だが、私はその日どのような心境で家路についたか覚えていない。きっと一人、道々地面を見つめながら帰ったと思う。家に帰っても親にはそのことは話さなかった。それは覚えている。そんなこととても話せたものじゃない。話そうものなら父親は嬉々として私を詰ったに違いない。きっと「ほらみろ、俺が普段から言ってる通りだ。」 「お前にプレゼントなんかくれる奴なんかいるわけないだろ。」などといったに違いない。それは容易に想像できる。なにしろ普段からそのようなことを耳にしていたのでね。あの男には絶対に知られたくないと思っていた。


その後、二度とお誕生日会は開かれることはなかった。私たち春生まれの回で最初で最後だった。皆それが何故なのかは知ってはいたと思う。残念に思ったものもいるかもしれない。ひょっとしたら私と同じ境遇になる者もいたかもしれないな。もしそうだとしたら幸運だったな。あんな経験はしないにこした事はない。先生もあのようなことが起こりうるということを学んだに違いない。先生も悪気があったことではないから私は先生のことは恨んではいない。しかし、先生、二つだけ見落としていましたね。ひとつはクラスが皆仲良く、みんなが友達だと信じて疑わなかったこと、批判的な視点を持ち得なかったこと。二つ目は子供は大人が思っているほど無邪気な天使ではなく、子供なりの社会を持ち、打算を知り、現実を知る残酷な者だということだ。


私はどうすればよかったのだろう。単なる事故、アクシデントとして私の中で処理すべきだったのだろうか?しかし、それを行うには私の感覚は子供にしてもあまりにも鋭敏すぎた。単なるアクシデントとして笑って受け流すことなどできなかった。


今でもわからないのだよ。

私の何がいけなかったのだろうか?

私じゃいけなかった理由は?
あんなにみんなで一緒に楽しく遊んだのに?

うちが貧乏だから?

私の見た目が悪いから?

私はあの頃も暗かったか?

私は人を傷つけることを言っていたか?

私は暴力をふるって迷惑をかけたか?

いじめっ子だったか?

面白くなかったか?

いやな子供だったか?

何故?何故、私ではいけなかったのだ?

私が何をしたというのだ?

何故私は皆に愛されなかったのだ?

私は何故誰からも愛されない?

どう考えてもわからない。そして、この問いに答えられるものはいない。



このお誕生日会で得たものはない。先生、何もないよ。

いや、ひとつあるかな。私はこの日、猜疑心という腐れ縁の友人を得たよ。

皆から守ってもくれるが、遠ざけてもくれる。要するに私を一人ぼっちにしてくれる奴だ。

いい奴だが、悪い奴でもある。

何度絶交を突きつけても、いつも私の知らないところで私を見ていて、そのときになったらいつも「ほらね」と背中から声をかけてくる。


いいお誕生日会だったよ。ある意味私にといってもうひとつの誕生日だ。