最近はすっかり涼しくなった。痛いほどの日差しを避けて日陰をえらんで歩くようなこともしなくてよくなったし、蒸暑さの中、背中の肩甲骨の間から腰のほうへ大量の汗がつたい落ちていったのが、今ではすっかりそういうこともなくなった。もう夏も終わったようだ。私のようなものでも夏の終わりのこの時期にはいくらかの寂しさを感じるものだ。通勤の途中で制服姿の学生を見かけるようになり、世間がまた元のリズムでまわり出したことを確かにさせる。私のほうは夏休みらしい休みもなく、ずっと仕事をしながら一週間が過ぎ、二週間が過ぎといったふうに時間が過ぎて、あっという間に夏が通り過ぎていった印象しかない。毎年似たようなものなのだが、今年はとくにそういった感じが強いように思える。


私は最近、自分の人生や死についてよく考えることがある。こういったことを考えるのが良くないことだとは解ってはいるのだが、どうしても頭に浮かんできてしまう。なにしろ、普通に道を歩いている時にも出抜けに、まるで風が吹くように急に頭に浮かんできてしまうのだ。


死について、自分のこともさることながら、母の死が最近とても確かなもののように感じられるようになった。私の母は世間一般にいっても、もういい歳だ。彼女が結婚したのも遅い方だったので、私の同い年の者の母親としては年輩の方になる。それに、もう3人の孫のいるおばあちゃんでもある。その母の命が、おそらくあと30年もすればこの世界から消えて無くなってしまうという、子供の頃には想像もしなかったようなことが、逃れようのない現実感をもって私に迫ってくるのだ。


30年、小さい子供ならきっとずいぶん長い時間に感じられるであろうこの時間は、成人して未熟ながらもいくらか世間を見られるようになった大人ならば、この30年という時間がどれほど短いものか痛いほどよく分かるはずだ。あと30年すれば必ずこの人は死ぬ。逃れようのない死の運命をまざまざと見せつけられる。この感覚は死刑囚がその刑が確定して執行されて、その執行の最後の動作が行われる瞬間まで、またその瞬間に感じるであろうものに似ていると思う。自分がどれほど泣いて暴れて、恐怖のために小便を垂れ流し、命乞いをして、聞いてもらえないからと散々に罵詈雑言を並べ立てても、その死刑囚はその運命からは絶対に逃れられないということを心のどこかで確信している。信仰のあるものならば奇跡を待つかもしれないが、その奇跡も起こらないことを誰よりも自分自身がよく分かっているのだ。刑の執行にのぞむ死刑囚にとってのこの短い時間と、私が今言っているこの30年という時間は時間の長短こそあれ全く同じものだ。


この30年という短い間に、私は彼女に対していったい何をしてあげられるだろうかと思う。この短い間に元気でいられるのはどれくらいだろうか?ゆっくりでも私の歩く速度についてこれるのはどれくらいまでだろうか?生を全うするまで耄碌せず、皆の言うことをきちんと理解できるのはどれくらいまでだろうか?そうして考えると私が母に何かをしてあげられる時間など、ほとんど残されてはいないことに気づく。


私の母は華奢で体の弱い小柄な人だ。幼いころに親を亡くしているらしく、死という言葉に非常に敏感に反応する人で、何より、そういった話題をとても嫌った。そのために若いころはとても苦労したらしく、教育もあまり受けていないようだった。何しろ働かねばならなかったのだろう。文字も子供の目にも下手だったし、本もろくに読まないので文章もかなり下手だった。祖母は昔風のものではあるが、何でも自分で作れるほど料理の上手な人だったが、母はお世辞にも料理が上手いとはいえない人で、そのうえ味音痴でもあるから何が悪いか分からないときている。しかし、そんな母でも毎日朝早く起きて私のために弁当を作ってくれたし、私の食べられないものもちゃんと分かっていてくれた。美的センスも乏しい人なので見た目も良いとはいえないが、それでもとてもおいしかった。父親の暴力にも耐えて、あざだらけの体で一日も休まずに会社に行ってくれた。殴られて目の周りが青くなっているのを隠すために、わざと大きい色付きの眼鏡をかけて出勤した朝のことをよく憶えている。また、息をするたびに苦しいといって無理をして会社へ行き、途中で病院へ行って実際にはあばら骨にひびが入っていたというようなこともあった。それでも毎日勤めに出て、遅くまで働いてくれた。昼休みのほんの短い時間と仕事の時間のいくらかを社長に頼んで都合してもらい、その僅かな時間で私の授業参観にも来てくれた。その当時はそれがとても恥ずかしかったが、今思えばとても有り難く、かけがえのないものだったように思う。


今母は3人の孫に囲まれて幸せに暮らしている。仕事もなかば引退し、出るには出ているが以前のように働かなくてもすむものらしい。いわば楽しみとして働いているのだそうだ。苦労の多かった母にしてみれば、今の状態は長い時間かかってやっと手にしたささやかな幸福だ。


私はこの母に対してこれからいったい何をしてあげられるだろうか。


私自身、この先20年が大事だ。いや、10年を必死に生きなければならないと思う。

このまま誰にもかえりみられず、愛されもせず、そのうえ自分の志した道をも中途で放り出したのでは、この世に生を受けた甲斐がない。何より男がそんなふうであってはならない。

私は絵を志した、だからその道を貫こうと思う。

描いても描いても満足できず、一生思い描くものが描けなかったとしても私は続けようと思う。最期の時に自分の人生を振り返ってみて、傑作と呼べるようなものが描けなかったと思うようなことになったとしても、絶対に何もせず、ただあたら一生を無駄に過ごしたなどとはその時になって思いたくない。結果として失敗したのだとその時悟ることになったとしても、道を志して失敗したのなら本望だ。武士が戦場で討ち死にすることになっても、医者と患者が成功を賭けた手術でたとえ失敗し訴えられても、最後の渾身の一投で逆転負けした投手もその道で失敗したのならそれは本望のはずだ。


むかし母がよく明日はないと思ってやりきれと言っていたのを今更ながら思い出す。

今日、帰り道に見上げた夜空には、とてもきれいな朧月がかかっていた。


およそ東京ではかなりのものが手に入るし、いろいろなものを目にすることができる。しかし、それと同じくらい目にすることが出来ないものも存在する。私はこちらへ越してきて、ことあるごとに夜空を見上げるが、青白く輝く白金のような美しい月を見れたことが無い。これはこの街で見ることの出来ない私の求めるものの中のひとつであり、とても残念に感じていることのひとつでもある。気象予報士ではないので、どういったメカニズムでそうなるのかは私には分からないが、東京の、いや関東の月は、真冬の張り詰めたような冷えた空気の中でさえも黄色く、日によっては赤みを帯びるくらいに濁った色をしている。夏ともなれば品のかけらも無いくらい黄色く、疲れた体に流し入れる栄養ドリンクの色にそっくりだ。こうした情緒のかけらも無い月を見て育つ子供たちはとても不憫に思える。青白く輝く白金の月から落ちてくる清浄な月の光を知らず、月といえば黄色いものだと思って大きくなるのだろう。重ね重ね残念なことだと思う。


私は昔から、すいぶん小さいときから、空ばかり見ている子供だった。なぜそれを知っているかといえば、その文言を学期末の通知表でずいぶんと目にしたからだ。両親への連絡欄によくそのことが書かれてあった。先生も何も毎度同じようなことを書かずともよいと思うのだが、それを家に持ち帰って見せると毎度のように集中力がないと叱られたものだった。休み前にその通知表を渡すのがとても嫌な作業だったことを今でもよく憶えている。そして、そうして空を見上げているのは昼間だけのことではなく、同じように夜も夜空を一人ぼんやりと眺めていた。まだ肉眼で天の川が見えたくらい昔、夏でも冬でもほとんど毎日外に出て夜空を見上げた。1等星の瞬きをその星と会話をするように見つめたのを今でも憶えている。なかでも冬の夜空が大好きだった。11時くらいに外に出て、往来の絶えた道の真ん中に立って真上に夜空を見上げると周りの景色は視界に入らなくなり、まるで自分が宇宙の中に放り出されたかのように目の前全てが星空に変わった。そうして立ったままゆっくり一回転、2回転とすると本当に宇宙遊泳をしているような気分になれたのをよく憶えている。


もう少し大きくなって、自分の部屋を与えられるようになると、2階にあった自分の部屋から夜中にそっと起き出して部屋の窓を開け、落ちないように気をつけながら屋根の一番見晴らしのよい特等席に座り夜空を眺めた。そこは考え事をするにはもってこいの場所だった。夏、寝苦しい夜などはよくそうした。屋根の上は地面の近くと違い寝苦しい夜でも意外と風があるもので、蛙の声の聞こえる夏の暗闇の中、そよそよと吹く風に吹かれながら冷やしておいたコーラを飲んだ。蛙の鳴き声に混じって蚊の舞う音が聞こえた。昼間ものすごく暑かった日などは瓦が夜になってもまだほんのりと温かく、その温度を足の裏や腰掛けたお尻から感じることが出来た。


冬、一人で夜中に起き出して見上げた月は、人を惑わすほど青白い白金の銀盤だった。闇の中にくっきりとした輪郭を浮かび上がらせて夜空に懸かっていた。放たれるその清浄な光の束が手でつかめると思えるほどはっきりと見ることが出来た。よしもとばななはある作品の中で、人が魂の均衡を求めるには月はあまりにも遠すぎると言っているが、私には昔から、いや今でもそのように思われたことはない。大人になっても、何時も何か困難にぶつかったときに私は夜空を見上げ、月を仰いでいる。神々しく遠い存在ではあるが、頼りなく思えたことは無い。


今夜も黄色く濁った月を見上げながら、美しい、その本当の姿を回想する。

黄色い月しか知らない子供たちには理解してもらえないことだろうと思う。

ここ2日ほど随分涼しく、過ごしやすかった。
季節は移ろいゆくもので、魔法のような季節や、時間が止まればいいと思うような瞬間も、人の思いとは関係なく規則正しく過ぎてゆく。


以前にも書いたが、私の住んでいる所は住宅街で、公営の団地がたくさんあり、そのため多くの公園や広場がある。毎朝通勤時に横切るその広場では、ついこの間までうるさいくらいの大音量でアブラゼミが鳴いていた。夏の日差しに焼かれたアスファルトは日が落ちても冷えきらないので、よく帰り道に地面から上がってくるむっとした熱気を肌で感じたものだった。風も弱くて熱気が抜けないために、夜になっても気温が下がらず、そのため夏の夜の闇の中で日中とほとんど変わらないくらい勢いで蝉が鳴き続けていた。ただでさえ寝苦しい夜が続きイライラしているところへ、暑いだろう 寝苦しいだろうと言わんばかりの蝉の声は、その時はとてつもなく不快なもののように思われたものだった。しかし、そうして腹立たしく思っていたのがついこの間の事ような気がする。今ではその声もすっかり聞こえなくなり、かわりにコオロギなどの秋の虫たちが涼しげな声で鳴くようになった。


まだ蝉たちも元気よく、むっとした暑さの中、やかましいほど鳴いていた頃によく見た光景がある。


辺りでは地上の生を謳歌する蝉たちが力の限り鳴いている中、地面の熱く焼けたコンクリートの上に止まっている蝉をよく見かけた。まだ死んでいるわけではないのだが、きっと夏も早い時期に羽化したものなのだろう、早くもその命を終えようとしているものらしかった。「ギッ ギッ」と鳴きながら羽根をばたつかせ、飛び上がろうとするのだが、上空まで飛び上がるほどの力はもうその体に残ってはいないらしく、ほんの少し飛び上がってはコンクリートの上に乾いた音を立てて落ちると、まるで壊れたオモチャか何かのように辺りを転げ回っていた。ひっくり返って電池の切れかかったオモチャのように力無く動かされる6本の脚はひどい虚しさを私に感じさせた。いずれこうしている内に鳥の餌になってしまうか、干からびて死んでしまった死骸が風で吹き払われて道の隅に追いやられ、朽ち果ててゆくのだろう。そうして命を終えた蝉の死骸があちこちに転がっているのをそのころよく目にした。可哀想だとは思わないが、命の儚さや虚しさをあらためて眼前に見せられたようで、ものの哀れを感じずにはいられなかった。


昔から虫の死骸というのは、人や動物の死とは別種の空虚さを私に感じさせた。肉体は魂の器というが、外骨格の虫の死骸はほんとうに魂の抜け殻のように見えた。舗装されたアスファルトやコンクリートの上に転がっている死骸は、路上に不法に廃棄された車のように長い時間転がっていた。風に吹かれてあちこちと動かされるたびに、カサカサと乾いた音を立てた。その後しばらくすると、カラカラに乾いた外骨格の体は、その節の部分からバラバラに外れて崩れていった。たしかにひと月ほど前には動いていたであろう脚は、まるで壊れた機械の部品か何かのように辺りに無造作に散らばっていた。その姿はたしかにこの硬い殻から何かが抜けて出ていったことを感じさせるものだった。

人が住まなくなった人家は、あっという間に古びて朽ち果ててしまうという。人が住んでいても、どこを修繕するというわけでもないのに、人が住んでいるというだけで家の老朽化の進行の度合いはずいぶん違う。人が住んでいるというだけでその家は魂を持った生き物のようにいきいきとしている。その時家は命を持っている。私の見た蝉の死骸は人の住まなくなった人家を連想させるものだった。また、アンドリュー・ワイエスの描く絵のようでもあった。まるでついさっきまで人がいたような気がするのに、それと同じくらいもう二度と誰も戻ってこないような気がする、世界の果てに打ち捨てられたようなあの感覚だ。目に見えて、構造物として確かにそこに存在しているのに、どこまでも空虚で空ろな世界の姿。


人が人の魂の存在を意識するのは普段の生活の中ではかなりむつかしいことだろう。それは動物や草木とて同じことだろうと思う。しかし、人はそれらを無くした時に、たしかにそこに何かが存在したのだということを驚きと後悔をもって感じるのだろう。


今日、こうしてあらためて死について考えてみたとき、私たちの周りにはどれほど無数の魂があるのかとあらためて思い当たった。