アマゾンで注文していた、

フイチンさん愛蔵版の下巻がもう届きました。
上巻が届いてから読むつもりです。

 

 

フイチンさんの上巻も今日の夕方に届きました。
早速読み始めています。

 

 

「フイチンさん」やっと読み終えました。
ちょっと普通のマンガとは
トーンもスタイルも違っていたので、
なかなか苦戦しました。

時々他のマンガを読んで、
間に20冊くらいの別のマンガをはさんで、
やっと最後まで読めました。

色々な意味で普通のマンガとは違うマンガでした。

ある意味この作品が、
僕のマンガ体験の原点でもあります。

 

手塚治虫のキャリアのうち、
1968年から1973年は、
衰退期、スランプ期、暗黒期などと呼ばれている。

 

劇画の人気が高まり、
手塚治虫の丸っこい線は古いと言われ、
正統派の勧善懲悪のストーリーも
優等生過ぎると評価されていた。

 

まず少年サンデーに
1967年の8月から
1年間連載された「どろろ」は、
水木しげるの妖怪ものと
白戸三平の時代ものに
大きな影響を受けて書かれた作品だ。

 

そして「地球を呑む」「上を下へのジレッタ」
「空気の底」「I・L」「きりひと讃歌」
「時計仕掛けのりんご」
「人間昆虫記」「奇子」などの作品は、
掲載誌もそうだが、
大人がターゲットの劇画寄りの作品だ。

 

そして少年誌の連載作品も
当初は18のエピソードを
想定して始まった少年サンデーの「ダスト18」は、
不人気のため6つのエピソードで連載中止になり、
後に2つ足して「ダスト8」として刊行された。


そして少年チャンピオンの「アラバスタ―」は、
手塚治虫自身が
「暗くて救いのない作品」と回想している。

 

しかしスランプ期といっても、
仕事量は多く、手塚治虫の年譜から
その頃に書かれた作品を抜粋すると、
主なものだけでこれだけの数になる。

どろろ  1967~1968  少年サンデー
ブルンガ1世  1968~1969  冒険王
地球を呑む 1968~1969 ビッグコミック
ノーマン 1968   少年キング
上を下へのジレッタ 1968~1969  漫画サンデー
火の鳥 ヤマト編 1968~1969 COM
空気の底 1968~1970 プレイコミック
鬼丸大将 1969 少年キング
火の鳥 宇宙編 1969 COM
火の鳥 鳳凰編 1969~1970 COM
I・L 1969~1970 ビッグコミック
青いトリトン(海のトリトン) 1970~1971 サンケイ新聞
ザ・クレーター 1969~1970 少年チャンピオン
ガラスの城の記録 1970 現代コミック
アバンチュール21 1970~1971 少年少女新聞
アポロの歌 1970 少年キング
きりひと賛歌 1970~1971 ビッグコミック
やけっぱちのマリア 1970 少年チャンピオン
時計仕掛けのりんご 1970 週刊ポスト
人間昆虫記 1970~1971 プレイコミック
火の鳥 復活編 1970~1971 COM
アラバスタ― 1970~1971 少年チャンピオン
鳥人大系 1971~1975 SFマガジン
ライオンブックス 1971~1972 少年ジャンプ
火の鳥 望郷編 1971~1972 COM
ダスト18(ダスト8) 1972 少年サンデー
奇子 1972~1973 ビッグコミック
ブッダ 1972~1978 希望の友
サンダーマスク 1972~1973 少年サンデー
ミクロイドZ(ミクロイドS) 1973 少年チャンピオン
ユフラテの樹 1973~1974 高一コース

 

そして1973年の11月に
「ブラックジャック」の第一回が、
少年チャンピオンに掲載され、
手塚治虫は長い暗黒トンネルから抜けるのだ。

 

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」の
原作を読んで、実写映画も見ました。

今わりとはまっている、
押見修造の原作。

押見修造自身が、吃音で悩んでいたらしく、
他の作品にも言葉がうまく出ない人物が
登場しています。

実写映画もなかなか良かったです。
かつて知り合いの人で、
吃音で悩んでいる人がいたので、
少し他人事ではなかったです。

 

「フイチンさん」と言えば、
思い出されるのは高野文子だ。

 

別に直接的な関わりは、
ないと言えばないのだが、
あると言えば大いにある。

 

高野文子の独特の絵柄は、
徐々に確立していったわけだが、
その過程において、
上田としこの存在はかなり大きい。

 

それはウィキペディアで
最近知ったことなのだが、
言われてみれば高野文子の絵柄は
上田としこの絵に似ている。

 

しかし高野文子も、
今ではそれほど知られている作家ではないし、
まして上田としこなんて、
歴史上の人物くらいの認識だ。

 

それでも上田としこが作品に込めたものは、
高野文子にもちゃんと伝わっているし、
僕のような一読者にも伝わっている。

 

そして上田としこや高野文子を知らない、
どこかの誰かに対しても、
上田としこや高野文子の影響下で
作品を書いているマンガ家の作品を通じて
伝わっているに違いないのだ。

 

僕とフイチンさん 第1回

 

僕が小学生の低学年の頃、
母方の実家が石川県の金沢市にあって、
まだ祖母が健在で暮らしていた。

 

ある夏休みに金沢の祖母の家に行き、
数日滞在したことがあった。

 

特に金沢の実家の近所には
知り合いなどはおらず、
僕は1日目から退屈した。

 

それで実家の近所の、
多分貸本屋だったと思うのだが、
そこの本屋で何か読む本はないかと、
探しに行った。

 

そこはおそらく閉店前の貸本屋で、
僕が普段読むような本とは、
少し違う感じの本が並んでいた。

 

しかもそのちょっと違う感じの本は、
売られていて、
1册30円から50円くらいの、
ものすごく安い値段がついていた。

 

今から考えると、
貸本として散々回転した本を
閉店処分として、
投げ売りしていたのだろう。

 

しかも主要な本はほとんど売れた後で、
地味めの本しか残っておらず、
かろうじて僕が読めそうな本として、
選んだ中の一冊が、
上田としこの「フイチンさん」だった。

 

僕とフイチンさん 第2回

 

今回はじめて知ったことだが、
フイチンさんというのは、
ハルピン(旧満州)の大金持ち、
リュウタイさんの家の
門番の娘さんという設定。


その明るく元気のいいフイチンさんの
日常を描いて大ヒットしたマンガだ。

 

「フイチンさん」は、
講談社の「少女クラブ」に
1957年から1962年にかけて連載された。
つまり昭和32年から37年にかけてである。

 

「フイチンさん」の作者、
上田としこの父親は南満州鉄道の職員で、
としこも生後40日からハルピンに住み、
昭和21年に強制引き揚げ令が出るまで、
ハルピンで暮らしている。

 

ちなみに上田としこは大正6年生まれで、
昭和3年生まれの手塚治虫より、
10歳以上年上である。

 

もちろん赤塚不二夫より、
ちばてつやよりはるかに年上

 

図版はちばてつやが書いた色紙

 

 

僕とフイチンさん 第3回

 

大正6年生まれの上田としこだが、
身長の高い家系だったらしく、
身長は167センチあったそうだ。

 

当時の女性は平均で
150センチ前後だったらしく、
かなりの高身長である。

弟の裕二は187センチあったそうだ。

 

女学生時代は日本で過ごし、
抒情画家の松本かつぢに師事している。

松本かつぢは少女雑誌の挿絵などを書いていたが、
少女漫画の先駆的な作品
「くるくるクルミちゃん」を書いている。

 

松本かつぢの門下には、
少女イラストの第一人者、
田村セツコもいる。

 

松本かつぢの紹介で
東京日日新聞に1年間、
漫画の連載をした上田としこだが、
風刺漫画家の近藤日出造から
「君みたいな世間知らずは漫画家には向かない」
と言われてショックを受け、
社会勉強のためにハルピンに戻り、
満鉄に就職する。

 

そのまま終戦を迎え、
街頭でたばこを売ったり、
ハンカチにイラストを描いて、
売ったりする過程で
漫画の絵が荒廃した人々の心を
明るくすることを実感する。

 

なんとか日本に引き揚げたとしこは、
様々な仕事をしながら
アルバイトで「少女ロマンス」に挿絵を描き、
集英社の「少女ブック」に
「ボクちゃん」の連載を開始して、
大人気漫画家になる。

 

そして昭和32年、41歳の時に、
ハルピン時代の思い出をベースにした、
「フイチンさん」を
「少女クラブ」で連載しはじめるのだ。

 

 

僕とフイチンさん 第4回

 

そして昭和40年代の後半、
すでに衰退した貸本屋の店頭で、
僕は「フイチンさん」と出会っている。

 

僕にとってはすでに「古い」絵柄、
そして舞台は中国のハルピンという、
何重にも違和感のある、
普段読まないタイプのマンガだった。

 

それでもなぜか
「フイチンさん」は
とても印象に残っているマンガなのだ。

 

そしてそれから40年以上が経った2013年、
ビッグコミックオリジナルで
「フイチン再見(ツァイチェン)」という
マンガの連載が始まった。

作者は村上もとかというマンガ家だ。

 

フイチンってあの
「フイチンさん」のことかなと
僕は思っていたが、
特に読もうと思うほどではなかった。

 

 

僕とフイチンさん 第5回 最終回

 

「フイチン再見」は4年間連載され、
2017年に完結しているが、
あまり売れてはいないようで、
ブックオフなどではあまり見ない。

 

僕は最近偶然読んだ、
森田拳次の「ぼくの満州」の中に、
満州ゆかりのマンガ家、
赤塚不二夫やちばてつやや高井研一郎や、
上田としこなどが、お金を出し合って、
浅草の浅草寺に満州母子像、
そして中国の柳条湖跡地に
中国養父母感謝の碑を建てた、
という記述にいたく感銘を受けて、
ツタヤで探して
「フイチン再見」全10巻を読破したのだ。

 

そしてあらためて
「フイチンさん」の本編も読みたいと思い、
Amazonで注文した。

 

「フイチンさん」の本編は
2015年に小学館から
復刻愛蔵版が上下二巻で出ていたが、
すでにプレミアがついていて、
まあまあの値段だった。

 

「フイチンさん」がどんな内容だったのか、
まったく覚えてはいない。
それでもなんとなく、
いいマンガだったようなイメージは
残っているのだ。

 

それは「フイチン再見」で描かれている、
上田としこの生涯がとても魅力的で、
その体験を元にして上田が得た、
戦争はいけないとか、
男女差別はいけないとか、
マンガは子供に夢を与えるとか、
そんなような色々な気持ちが、
ギュっと凝縮されて、
別な形で表現されていて、
幼いボクは「フイチンさん」を読んで、
そんな表には現れていない、
無意識下のメッセージのようなものを
いつのまにか受け取っていて、
それが時が熟して、
今やっと享受できるようになった、
ということなのだろうと思っている。

 

マンガってそんなに凄いものなんだということを
もっと多くの人に伝えたいと思っている。

 

戦争の悲劇は
二度と繰り返してはいけない。

この言葉は
あまりにも使い古されていて、
あらためて僕のような
キャラの人間が言うと、
かえってパロディーで
笑いを狙って言っているようにも聞こえるが、
本当に僕はそう思っている。

 

というのも昨日は、
自主的にマンガ倉庫の
整理に行っていて、
そこで森田拳次さんの
「ぼくの満洲」というマンガを見つけ、
持ち帰って読んで大泣きしたのである。

 

森田拳次さんは
「丸出だめ夫」などを書いたマンガ家で、
1997年から1999年にかけて
「しんぶん赤旗日曜版」に
「ぼくの満洲」を連載していた。

 

赤旗というのも
イデオロギー性の強いメディアなので、
これまでこの作品には、
触れる機会がなかったが、
イデオロギーとは別に
このマンガの感動的な部分には
素直に感動できた。

 

満洲出身のマンガ家は多く、
ちばてつや、赤塚不二夫を筆頭に
「釣りバカ日誌」の北見けんいち、
「ダメおやじ」の古谷三敏、
「フイチンさん」の上田トシ子、
「柔侠伝」のバロン吉元、
「山口六平太」の高井研一郎などがいる。

 

満洲で育まれた、
大陸的なおおらかな発想と
戦争は絶対にいけないという、
批判的、反骨的な思想が
日本のマンガ文化の発展にも
大きな影響を与えていると思う。

 

昨日の「アウトデラックス」に
柴田亜美が出ていた。

 

柴田亜美はマンガ家で、
「南国少年パプワくん」の作者だ。

僕は「パプワくん」を読んだことはないが、
倉庫で作業している時に
何回も背表紙を見てよく知っている。

 

読んだこともないのに
作者の名前と作品のタイトルを
覚えているというのは
それくらい単行本の背表紙を
頻繁に見かけていたということで
「南国少年パプワくん」は
コミックスが全7巻なのに
これだけ見かけるということは、
かなりの冊数が出回っている、
ということの何よりの証なのだ。

 

番組内でも言っていたが
コミックスの総売り上げ冊数は
累計600万部ということで、
一冊400円と仮定しても、
印税は約10パーセントだから、
40円×600万部で2億4000万円になる。

 

もちろんこれだけではなく、
「南国少年パプワくん」は
アニメ化しているので、
関連グッズの売り上げ、
DVDの版権など、
膨大な売り上げになる。

 

その大成功を反映して、
柴田亜美は麻布十番の
高級マンションに
犬3匹と暮らしているが、
そのマンションは10年前に
1億6千万円で
即金で買ったというのだ。

 

しかもマンションの
前のオーナーが
「南国少年パプワくん」のファンで、
元は1億9千万で売りに出ていたものが、
「パプワくん」の色紙を書くと
1億6千万に下がったというのだ。

 

柴田亜美はそのマンションの
大理石の床に
土産物のこけしを枕にして、
直接寝て仮眠をとるのだが、
その時間も
36時間眠らずに作業して、
一回10分という過酷な時間で、
熟睡しないように
あえて寝心地の悪いこけしを
枕にするのだという。

 

同時期に活躍したマンガ家として、
「セーラームーン」の武内直子、
「スラムダンク」の井上雄彦、
「ハンター×ハンター」の冨樫義博
などの名前を挙げていたが、
みんな大差ない生活をしていたのだろう。

 

僕のマンガ道 第7回 最終回 1997年~2019年

 

1997年にねこぢるさんがお亡くなりになって、
心にポッカリ穴が空きガックリと力が抜けた。

 

しかしその後も少なくとも2019年までは
生きる運命にあった僕は、
日常のルーティーンをこなしながら、
時々マンガを読んだりして生きて来た。

 

その前から、そしてその後にも、
僕の心を支えてくれていた作家は、例えば、
ちばてつや、本宮ひろ志、楳図かずお、
倉多江美、古川益三、蛭子能収、古屋兎丸、
諸星大二郎、いましろたかし、榎本俊二、
井上雄彦、こうの史代、よしながふみ、
安野モヨコ、伊藤潤二、安西水丸、吉田戦車、
河内遥、冬川智子、東村アキコ、森下裕美、
ヤマシタトモコ、施川ユウキ、南Q太、
伊藤三巳華、岩明均、鳥飼茜などである。

 

尊敬するミュージシャンの
頭脳警察のパンタは、
「自分が一番好きなことを仕事にしてはいけない」
と言っている。パンタが一番好きなものは
バイクだったので、それを仕事にはせず、
二番目に好きなロックを仕事にしたのだそうだ。

 

僕の一番好きなものはマンガなのだろうか、
もしかしたらそうなのかもしれないが、
今はマンガに関することを
もう少し仕事にして行こうかと思っている。

 

僕のマンガ道 第5回 杉浦日向子

 

「ガロ」にはガロ三人娘と呼ばれている作家たちがいた。
やまだ紫と杉浦日向子と近藤ようこの三人である。


僕はこの三人の中では杉浦日向子が一番好きだった。

杉浦日向子は1980年に「ガロ」でデビューして、
その後、マンガ家、エッセイスト、時代考証家として
大活躍したが、2005年に46歳でお亡くなりになった。

 

その間、希代の怪物、
荒俣宏と結婚していた時期もあった。


1993年には「百物語」の終了を機に
漫画家としては引退されているが、
それも闘病のためだったと後に何かの本で読んだ。

 

やまだ紫さんもお亡くなりになり、
元気で活躍しておられるのは近藤ようこさんだけだ。

 

写真は若い頃の杉浦日向子さん

 

 

僕のマンガ道 第6回 山野一とねこぢる

 

僕が「ガロ」をリアルタイムで読み始めた頃、
毎月のように精力的に作品を発表していたのが山野一さんだ。

 

そして1985年7月号から一年間、
「四丁目の夕日」が連載され、
僕は毎日を次号が発売されるのを待って暮らし、
次の回を貪るようにして読んでいた。

 

後に山野さんは「鬼畜系漫画家」、
というジャンルに分類されているが、
そのマンガには高度な哲学が
メッセージとして隠されている。

 

その後山野さんは当時の奥さんとの共作で
「ねこぢるうどん」の連載を始めた。

 

青林堂から「ねこぢるうどん」の
最初の単行本が出た時には
「ガロ」に掲載された全ての作品は収録されておらず、
僕は編集部に電話して
「他の作品は単行本化しないんですか?」
と聞いた覚えがある。
後に「ねこぢるうどん2」が出版された。

 

その後ねこぢるは爆発的な人気になり、
複数の雑誌で連載され、アニメにもなり、
キャラクターグッズも販売された。


その人気の絶頂で奥さんのねこぢるは
謎の自殺を遂げている。

 

一人になった山野さんは
ねこぢるyというペンネームで作品を発表していたが、
2006年に再婚。2008年には双子の女の子が生まれて、
双子を主人公にしたマンガ
「そせじ」を電子書籍で出版している。

 

写真は水木しげる先生と一緒に写っている山野さん
長身の美男子

 

僕のマンガ道 第4回 つげ義春とつげ忠男

 

僕が18歳くらいの頃、
色々な趣味嗜好がこじれて、
結局好きなマンガ雑誌は「ガロ」、
というところに落ち着いた。

僕は1966年生まれなので、1984年頃のことである。

 

「ガロ」は青林堂の長井勝一が、
白戸三平に「カムイ伝」を書かせるために
1964年に創刊した雑誌だが、
「カムイ伝」第一部は1971年に終了し、
その後は「ガロ」では再開していない。

 

「カムイ伝」終了後、
「ガロ」はマニアックな同人誌のような
形態の雑誌になっていたが、
僕はこのような場で行われている表現こそが
真のオリジナルな表現だと思い込んでいた。

 

「ガロ」の最初期は
白戸三平と水木しげるによって支えられていたが、
もう一人、大きな存在だったのがつげ義春である。

 

つげ義春は1965年の「ガロ」デビュー以降、
1968年の「ねじ式」を経て、
1974年まで「ガロ」に作品を発表し、
マンガ界、サブカル界のみならず、
日本の他の芸術表現の分野までを含めて
多大なる影響を及ぼした。

 

そしてもう一人、つげ義春の弟で、
兄の存在の陰に隠れて、
あまり有名でないのがつげ忠男だが、
つげ義春とはタイプの違う、
ワイルドな表現が特徴で、マニアなファンも多い。
僕はこのつげ兄弟の作品が好きだった。