どこかで見たこと読んだこと -36ページ目

寄らば大樹の陰、私論

「寄らば大樹の陰」
大きな組織や人物に近づき、その影響力の傘の下に入ることの
比喩表現です。
日本の社会では、明示、暗黙を含め「選択肢としては評価する」
のが一般的です。
子供が、大樹の陰に入ることを選択した場合、それを咎める
親は誰も居ないだろう。もしも、大樹が腐って倒れた時は、結果論
として、別の道を探せとアドバイスはするだろうが、大樹には近づくな
とは言わないし、言えない人が普通である。

では、大樹側から見ると社会はどの様に見えるのか、考えてみた。
先ずは、森の中で大樹はどの様に育つのであろうか。
巨木が腐り、または落雷で、倒木する。すると、森に空間ができ、
ひ弱な幼木でもなんとか育つ場所が開ける。
それだけ植物の植生が始まる。それは太陽と地中の養分の争奪戦である。
特に、樹木は、戦略的に高く枝を伸ばし、太陽光を独占し、他の樹木を
排除して行く。その結果、残った一本が大樹として生き残ることが許される
存在となる。蔦や草が戦略的に共生する。大樹となった木には、他の種の
生物が集まる。昆虫類、菌類などから始まり、摂取の食物連鎖に係わる
生物が集まる。大樹は、結果として多種多様な生物が集まって来るので
ある。大樹は、基本的に集めた訳ではない。
強力に一人養分を独占しているだけなのです。
しかし、大樹ゆえ、その養分は豊富であり、お裾分け、贈与して頂く
時間も、十分にある。
この養分が枯渇する時、この大樹は、倒れる。次世代の為に。
時間的、多様性へ配分された養分と、自分自身も次世代の最初の養分とも
なっている。

大樹からしてみれば、他を蹴落とし生き残った結果でしかない。
寄るものは、同種族以外の多種多様性の生き物である。
多様性を寄せ付けない生存競争は、自死を早めるだけだ。

大樹に寄る者は、大樹の滋養の豊富さを見極めた者達である。
大樹となるべきは者は、養分を蓄え、競合を殲滅し、
生存に貪欲で生き残った強さがある。
ただ、寄せ来る他の種にのみ寛容である。

蔦は、大樹から養分を摂る。大樹が倒れれば、自らは立つことも
できないが、それが蔦の生き方であり、種を永らえている。

資本主義の次代への発展では、大樹的な多様性を生む者への
寛容と贈与と、世代への自己解釈過程の理論構築が大きな戦略と
なるだろう。

神戸に、帆船 海王丸が入港していた。
この船から、多くの船乗りが育って行く。
まさに、帆船は、船の大樹たる観を呈していた。

$どこかで見たこと読んだこと-海王丸

自己責任の呪縛

自己責任に呪縛された世代

2010年1月21日NHKクローズアップ現代のテーマは
昨年も放送された「たすけてと言えない30代胸中」の
続編。
自己責任という言葉に縛られ就職が出来ない若い人たち、
路上生活しても、他人へ助けを求めない若い人たちの取材。

現状は大きく変わっていませんが、平野啓一郎氏の寄付を集めて、
路上生活者に使ってもらうという意見は
「たすけてと言えない30代」を問題視する側の発想として、
共同体的なイメージも付加され、具現化すべき活動だと思う。
しかし、その寄付の受け皿すらないのが社会の現状です。

1995年頃から社会特に、経済界では自己責任という
発想で、組織の中外を問わず、競争を社員にしいて来た。

収益のパイが細る日本において、分配に際して、争奪という
概念を据え、計算式化して来た安易さがそこにある。

ある企業の売上高が下がれば、経営者の責任より、
人件費を含む、経費の削減が公然と認められ、反発する者は、
丁度手ごろなリストラ対象となった。

自前の経営がしたければ、独立し、ベンチャー企業を
創業すれば良いとのブームすら起きていた。

しかし、自己責任という言説は、社会の人間関係を大いに
歪めた。他者に対して、私には責任はありませんよ。
という詭弁を隠す造語として、自己責任という言葉が使われた。

あたかも資本主義は、自己責任のルールがあるかのごとく
経済界が社員教育、または見せしめをして来てしまった。

競争から脱落したものは、ベンチャー企業で市場を開拓するか
路頭に迷うかしか選択肢がないような就業風潮を生んだ。

既に、社会が自己責任を規範だと言うのであれば、
人事の採用は、申込み順で採用しても同じことです。
自己責任を果たせないと決めつければ、リストラは
了解事項となているからです。

あなたが悪い、だから自己責任が果たせていない
という理屈は、社会の人間関係を収益の配分の
分母という安易な数量化する為の安易な理屈です。

基本的に共同体にはなじまない考え方です。

親の心配より、自分の心配をしろと言う風潮が
成り立つ会社や組織が、社会で業績を伸ばし、持て囃される
時代になってしまいました。

文芸春秋2010年1月号の蓋棺録(追悼記事)に
昨年11月24日に92歳で亡くなられた作詞家:丘灯至夫
(おか としお)氏の記事がありました。
代表作「高校三年生」、「東京のバスガール」など多数。
面白い作品としては、TV漫画の主題歌も多数、残しています。
「みなしごハッチ」「ハクション大魔王」など
これらは丁度、私達が子供の頃の作品です。
ハクション大魔王(1969~1970)の歌詞で、当時は余り
気にも止めていませんでしたが下記のフレーズがあったそう
です。

なにか困ったこと あるときは
呼んでおくれよ くしゃみが合図
ハ ハ ハクション大魔王
やってやれない ハ こともある
ハ ハ ハクション大魔王
やってやれない ハハハンハ こともある

この歌詞は「誰にも弱点はあるが、そこからいい味が出てくる」
との思いを丘さんは、歌に込めたのだそうです。
他者と自己の関係というのは、いい味が出て来て
初めて本質が判るのですが、お互いの弱点をさらけ出す時間の
経過が必要なものだということです。

今の社会では、人間の弱点すら、自己責任なのです。

詩人 吉野弘氏は、作品「生命は」において、
他者を「虻の姿をした」と比喩し、
うとましく思うことすら許されている間柄だとも言っています。

欠落した自己を認めない(無知な)者が、如何に他者の欠如を
認め、お互いを助けることができるのでしょうか?
自己責任とは、元々弱点のある人間が、人間らしく
生きる上では、全く、機能しない言説です。
これを使いたがる人は、自己を知らぬ、または、知ろうともしない
愚かさに気付かない人間なのです。

理論的な思考は、自己否定から始まるのです。

$どこかで見たこと読んだこと-大魔王

日航JA8119

日本航空が会社更生法の適用を東京地裁に申請した。
キャプテンが悪い訳ではない。
CAやグランドホステスが悪い訳でもない。

飛行機は、外から見ていると流線型のフォルムや素材は
高度な技術の蓄積を感じさせ、造形的な美となりえる。

整備士が悪い訳でもない。
日本航空の組織が先にあるという考え方が悪かった。
世界で勝ち抜く航空事業スタイルが無かったから過去の
コストを清算できず過去のツケが払えない状態となった。

最初に日本航空という組織がありき、必要なはずだ、だから
私達は、仕事する。という感覚が、経営のベースにあると
当然、他の企業とは、競争はしない。協議するだけである。

ということで、今の日本航空は、リストラと年金減額、
古い機体の廃棄により、営業的には事業黒字にもなる
であろうツケを一気に解消する道を進むことになった。

航空業界とは、移動や旅行の交通手段として選ばれれば、
収益を得ることができる事業です。

航空機の利点は、遠距離を高速に移動できることであるが
その高速性故に、安全性の確保には、多大な経費を必要と
する。高速移動を安全で確保するのが事業の柱なのです。
その他は、付加価値でしかないのです。

現在、航空機の高速性はインターネットやweb会議などICT
として代替され必要性も減っている。またエコロジーの
トレンドは、航空機そのもの存在意義も問う流れも生んでいる。
路線設定と価格設定によって利便性という付加価値を生む移動
手段の事業です。

1985年8月12日に御巣鷹山で日航123便(JA8119)が墜落し、520人の
尊い命が失われた。
日本航空は、今のままでは居られないだろう、飛行機を
飛ばすクルーも、乗客のアメニティを維持するクルーも、
今のままでは居られない。
日本航空は、現状は維持されると、機内アナウスをする
だけでなく、CAが作られた笑顔を無闇に振りまくのではく、
本気で航空事業を見直し、自らが他社と熾烈な競合を意識し
生き残ることが必要だと思う。
御巣鷹山で亡くなった乗務員を含む乗客と、遺族への思いを
正面から捉えて貰いたい。
CAの満面の笑顔はもう要らないのではないでしょうか。
スムーズな移動ができる介助をするスタッフとしての
スキルがあれば、満面の笑顔は必要ない。介助者としての心と
穏やかな微笑が少しあれば、十分と私は思うのです。

維持するのは、事故の教訓であり、日本航空という組織は
維持してはなならいのです。

$どこかで見たこと読んだこと
JA8119 1982年伊丹空港にて

政治詩

白川静 梅原猛 対談 「呪の思想」

大変面白い本でした。
あの煩型の梅原猛氏が、先生と崇める白川静氏との対話
漢字の生い立ちを、中国の古代史に見出した白川氏の思索は
悠久の歴史観を漢字の生い立ちからあたかも醸し出すようだ。
鍾乳洞の鍾乳石を構造する水のように純粋で、透明感があり、
しかも時間を越えた強さを感じる。


1960代、立命館大学の中国文学で、白川氏、梅原氏、高橋和巳氏
の交差する話は、知的な興奮を感じる。
各氏のその後の人生の契機を感じさせるエピソードである。
また最終章での両氏の日本文学に対する苦言の背景を感じる。


二人の対話は、白川教授の授業を生徒、梅原氏が受講するという
雰囲気が全編を構成している。その授業を、読者者は参観する
という本である。これも面白い。

紀元前1000年以前の中国、殷から周の時代と文字や「詩経」から
の古代文化の人々の呪術、詩歌などの思想として分析する。
殷と縄文文化、大和朝廷の文化的の関連性まで言及し、興味が
尽きない。

白川氏は詩経の思想の根源をいう。
そもそも詩を何故、歌うのか?
歌うことによってその対象の持っている内的な生命力という
ものを、自分と共通のものとする、自分の中へ取り入れる。

それで、自然を歌い、国を歌い、恋愛を歌い、政治も歌う。

この国や政治を歌うことが、中国という国の歴史と、日本の
歴史の違いを如実にしている。
白川氏は、中国の歴史では、社会に詩人が思想、道徳を浸透させて
それが中国での社会生活の成熟を促して来たという。

一方、日本には万葉集、古今集共に、政治詩、社会詩がない。
恋愛、自然、望郷、祝い詩。
それは現代にも通じると両氏ともするどく指摘する。

白川氏は、日本の文学は、個人の中に籠りすぎると指摘する。
政治がなければ社会はありえない。
中国人が政治的人間であるというより、日本人の方が政治的な
ものの欠如状態であって、むしろ、そいうものを充足しなければ
ならいと、指摘する。
梅原氏も、現代日本文学に社会問題での正面からの発言の欠如を
指摘する。
私は、ここに両氏の高橋和巳氏への深い思いを感じる。

今、野党が、民主党小沢幹事長を徹底的に批判するのであれば
「小沢幹事長批判」という詩を書いて、曲をつけ、ヒットさせ
国民を政治的に揺さぶらないといけない。
それが出来ない野党では、新しい日本社会が作れない。
小沢幹事長が「小説検察」を出し、ヒットしたら、既存の野党は、
それこそ、政治的役割を終える。

呪の思想―神と人との間/白川 静

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阪神淡路大震災15年

阪神淡路大震災から15年目の1月17日が来た。
今日の神戸は、大変穏やかな日でした。

神戸は、道路、建築物は新に復興したと言える。
しかし、被災した個人の傷は、心や身体ともに
同じ家族内でも異なり、ひとりひとりで異なる。

ひとりひとり異なるというのは、人生が
異なるからだろう。

理屈から言えば、1995年1月17日午前5時46分に
大地震の激震の波の中に居てしまった、ただ
それだけが同じだっただけで、人生は皆ちがう。

激震の時と地域だけが同じ条件、その結果の
影響は、様々に人生に表出するのです。

現在は、その被災地から転出した人、復興後
転入した人、震災後亡くなった人、生まれた人と
神戸も、人口の総体として生まれ変わって行く。

被災者には忘れないでもらいたい。
何かを突然失う喪失感はその規模が大きければ、
やはり影響が多いことを。
覚えておいて欲しい、悲しみを越えられない人が
まだ数多く周囲にはまだ居ることを。

そして何により、被災者は、励ましの声を掛けて
くれた全国の人々のその励ましで、疎ましい絶望
から確かに救われたことを思い起こして欲しい。

人は、正義的でありたいし、正義の人だと
呼ばれたい。しかし、正義にあっても不幸は
避けようがないのが、人生です。
だからといって、現実から逃避できるものでも
ないのです。

震災時の被災地への支援や、声援は、大変ありがた
かったのは、正義という政治的な枠組みを越えた
人間性そのもの発露としての行動として、被災者へ
伝わって来たからです。

阪神淡路大震災の被害は、人間を揺さぶったのです。
今日は、被害とその後の心の揺れを思い起こす日です。

この思いを自分自身の中で再度確認し、
震災直後と15年の復興の中で亡くなられた方々のご冥福を
謹んでお祈り申し上げます。

「この街へ 折れた心を 建てる冬」


$どこかで見たこと読んだこと