どこかで見たこと読んだこと -37ページ目

八方不美人

通常国会開催前に、小沢幹事長の資金管理団体の土地購入問題で、
政府与党民主党の議員は逮捕者が出て大変な騒ぎのようです。

夏の衆議院選で、民主党へ投票を行った者としては、この状況は
既に想定済みです。

西松建設の昨年春の検察への小沢一郎氏の態度を見ていれば
いずれこうなることは、予想の範囲です。

昨年の西松建設献金問題は、途中で尻切れ状態であり、小沢氏
からも国民へ明確な説明があった訳ではないのです。

元々、検察は、今回の土地購入問題の資金について、不明瞭な
状況にあることは、掴んでいたはずですが、とりあえず、
西松建設問題で、小沢氏の出方を見ていたということです。

文芸春秋2010年1月号の松田賢弥氏のスクープ記事は、昨年
秋から冬に掛けて、検察から各マスコミへの情報により
構成されていると思われます。この記事の結論は鹿島建設と
小沢氏一族の姻戚関係を引き合いに出し、関係の深さを記事
としており、小沢氏の政界での資産運用の姿勢を見抜いている
内容となっていました。

つまり、検察は、既に昨年の春には、元秘書などの供述や
押収した資料で裏付けは取れていたはずです。
これらの記事は、検察側からのリーク情報でなければ解明で
きない内容です。
では、なぜこの時期に政府から攻撃対象の官僚である検察は
最終的な情報操作や関係者逮捕の行動に出たのか?
これは簡単な理屈です。

鳩山内閣の支持率の低下を待っていたのです。
いくら官僚機構の検察と言えども、有形無形の世論の後押しが
無いと政界の実力者を追い詰めるのは、簡単ではありません。

2010年1月16日日経新聞の記事で面白い内容が載っていました。
アメリカのオバマ政権が1年経って支持率低下で、急激に求心力を
低下させているという記事の囲み記事に、(日米政権そっくり?
「八方美人」遅い決断)があり、オバマ、鳩山両政権ともに
内政、外交に難題を抱えながら、同じように支持率が落ち込むのは、
あちらこちらにいい顔をしようとする点でも似ているのではないか。
そして、その八方美人の結果、方針が定まらないところが
両国民に不評なのではないかという分析記事です。

八方美人は、気配り上手、中立、器用に調整など日本社会の裏側、
もしくは本音では、止むを得ない的な好意的な評価もあります。
しかし、表向きとしては、マイナスの社会評価で、いい加減、
自分勝手、不誠実なイメージです。
ようは、結果次第では、良しともされる便利な比喩表現です。
過去の自民党政権時代は、八方美人も良しする政治家も沢山いたと
思います。逆に言えば、政治は、八方美人でなければやっていら
れないとも考えれて来ました。
冷戦構造や対植民地政策など対立軸が明白な時代は、政治家にも
八方という方向感覚が理解しやすかったのだと思います。

政治的方向性を自らが創造すべき政治家であっても、八方の方向性は
指針として持っていなければ政治的な指導者にはなれません。
全ては結果でしかないのが政治家の歴史評価です。
政治家は、歴史を作る気概であれば、八方美人を選択するのは、
全く問題はない職業なのです。

小沢氏の会見などを見ていると、八方不美人というイメージを持って
しまいます。
八方美人の逆ですから、新聞論評など表社会では、政治家の生き様
としては、八方美人より正しいことなのでしょう。
しかし、秘書や、部下にイエスマンだけを残すと、八方不美人は根本
から腐るようです。自己否定という知性の誘導が鈍るからです。
八方不美人な政治家は内部だけには本音で話し合える契約ブレインを
金銭で集めるべきでした。

今回の小沢氏の土地購入問題は、おそらく検察の証拠は全て出揃って
いて、確実に小沢氏を追い込むことでしょう。

日本の有権者は、もし、民主党が早急に小沢氏との関係を断ち切り、
新しい政治方針を明確に建てられるのであれば、支持率は逆に上がると
私は予測します。
日本国民は、実は八方美人の方が好きなのかもしれません。

鳩山氏の資金団体も、小沢氏の資金団体も、表現を複雑にして、政治
資金が何故必要なのか、毎度、その理由が小市民には判らないのです。
資金は無いが、見事な八方美人を貫き通す政治家のリーダーシップは、
本当にダメなのでしょうか?
そして、政治学というのは何の為に存在するのでしょうか?

$どこかで見たこと読んだこと-都賀川の鴨

西宮戎


どこかで見たこと読んだこと


2010年西宮戎に行って来ました。
大きなマグロが奉納されています。
戎さんは、商売繁盛の神様ですのでビジネス雑感。

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相手に情報を伝え解釈してもらう。

文字で書けば、比較的簡単な表現である。
これを実行しようとすると大変な心身の活動を必要とする。

更に、この活動の、時間とサービスとして直接貨幣価値として
交換できるところまで行くのは、大変難しい。

難しい理由
1.通常の人間のコミュニケーションでも解釈は常時している。
これに対価を払うという契機が解釈する側では、発生しにくい。
バカでは判らないし、利口なのは自分自身の才覚である。
どちらにしても、この情報に対しては、支払う気力が起きない。

2.発信者に好かれたいと思わない、逆に、不審者であり
詐欺師と思ってもこちらに不利益が何も無い。
発信者と係わりを積極的に排除したい場合。

3.解釈した情報に、現在、興味がないことが、確実な場合。

これらの要素を持ったまま解釈できた情報に対価を払うことは
ない。しかし、これがネットワークを通じた結果であった場合、
人は、支払に応じる時代に向かっている。

メディアとしてのネットワーキングに支払う行動とは
どういことが起きてゆくのだろうか。

相手に情報を伝えるメディアとしてのネットワークを構成し
理解できない場合は、解説も付帯サービスするネットワーキング
があれば、人は、そのネットワークを活用したいと望む。

これまで、広告のマスメディアと店舗により、新商品を提示
され消費者という勝者感情の満足感の区分で生活を維持し
つづけている。
今、格差社会と言うが、勝者感情を刺激された消費者として統計
的に分けられ生活を既に100年以上過ごして来た。
消費者であるかぎり自由と平等が許されて来た消費者の時代と
言っても良いのではないだろうか。
つまり資本主義では、生活様式として交換可能な財産の所有量に
よって、自由と平等のレンジが変わるという勝者感情の刺激の上で、
生活を選択して来た。
その勝者感情を中心とした生活では、価値を生むとは、格差の
中で、より勝っているグループに所属することを言う。格差が
無ければ元々成り立たない社会で生きているのだ。

情報処理を基礎としたシステムとしてのネットワークと
その活動を基底するネットワーキングは、如何なる人も
差別はしない。
ネットワーキングに参加するか、参加しないかという区分しかない。

ネットワークの参加を維持するコストを生活モデルとする
時代が近づいている。

ネットワークで、参加コストが無料であれば、全ての人に
自由な参加を前提としている為、勝者は、ネットワーク運営者
のみが権利を持ち、参加者の意見が集約されるという情報収集を
ネットワークという機能で実現するだけの従来の勝者感情の資本
主義社会の一部でしかない。

新しい社会基盤としてのネットワークは、意味が異なる参加者は、
事前に契約で峻別される。情報の解釈ができることを前提とした
ネットワークである。
消費者としての勝ち組となれるかは、個人の解釈した情報の活用の
仕方次第であり、その事業は従来型資本主義の事業で全く問題ない。
ネットワーク内では、解釈は当然であれ、会員相互の信頼、尊敬は
既に成立しており、その相互の信頼、尊敬の念は、ネットワーク外
で、活用されて更に補強されることになる。
この高まる信頼、尊敬関係は、少人数の方が良さそうである。
また、その信頼度を上げるメンテナンス=ネットワーキングへの
コストは、外部での利益とのトレードオフとして、算出も明確で
ある。

相手に情報を伝え解釈してもらうというのは、民主主義と資本主義の
両面から少しづつ妥協して構築するネットワークで初めて実現する
新しい時代のサービスである。

ネットワークは、解釈という制限で、人数は自動的に制約される。
1.ネットワーキングに対して無知では参加できない。
2.尊敬を持って関わりたいと思う人に対してしか活用しない。
3.興味がない人は、有料なネットに参加しても脱退する。

知的に尊敬できるメンバーのネットワークと運営母体のネットワー
キングが、その知性をより交信させるequipmentとして事業化して
ゆくことになる。これは身分制度から身丈制度への移行と言える。
情報の交流サロン化は、産業生産性の目的を再定義することになる
と予測される。

相手に情報を伝え解釈してもらえるネットワークが、これからの
社会の要請であることは確かである。

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西宮戎オリジナル 鯛みくじ
「吉」でした。



どこかで見たこと読んだこと

新春です。

新春を迎え、今年は、よき年となりるように祈っています。


今日、1月4日神戸は、冬とは思えない程、温かい日差しです。

空を見上げれば、ジェット旅客機の飛行機雲を発見。

同じ方向に2機、飛んでます。神戸上空では珍しく間隔が近い。


飛行機雲が短いと、明日の天気は、良いそうです。

長く引いている場合は、下り坂ということです。


携帯のカメラで、この映像が撮れるか今年の運試しで、

願いを込めて、適当にカシャ!



どこかで見たこと読んだこと-sora

撮れました。合格

良く見ないと判りませんが、2機とも、4時方向へ飛んでます。


太陽が逆光で携帯の液晶面は、全く見えていません。

携帯カメラの性能を信じ、勘だけで撮りました。

写真を改めて、見ると、今日の神戸の空は、季節が違うような空でした。


これで今年は、「景気が、良い!」と、勝手に判断しました。(笑)

皆様にとって、良い一年となることを、お祈り申し上げます。

「牛の鈴音」その2

$どこかで見たこと読んだこと-牛の鈴音2



労働とは何かを問われると、日常では答えに窮することがある。

社会生活からすれば、衣食住と趣味を得る目的の作業と
サービスの提供という表現になりそうだがが、得る物と、
作業を交換しているのであるから、労働は、交換ということにも
なる。
しかし、交換は相手の価値観と相対的に一致しないと成立しない。

相手の所有物や期待サービスと、こちらの所有物や供給
サービスの交換の契機が起こるのは、供給側に必要以上の
余剰物が発生し、交換可能な物やサービスが既に存在している訳です。
人間の歴史を遡るって考えると、収集した余剰物を共同体に
差し出すこととは、猿類とは本源的に異なる相互扶助への
心理的な発端と考えてよいのではないかと思う。
動物の死骸や、木の実を集団で集めてきて、分配する。
死骸や木の実を集めて、差し出す行為までが、労働です。
分配の際には自らの手を離れた社会的なルールが付随して来ます。


差し出すとは、贈与ということです。
そのことで、友好的な共同体の相互扶助という関係の維持を
確認していたのではないかと考えることができるのです。

労働とは、余剰な成果物を生産しサービスとして差し出すことで、
相手に喜びを持って受領されることを期待することです。

労働の結果として、贈与の提供による好意を得るという時系列に
なります。ボランティアな労働とは、処理を意味し好意を期待しない。
しかし、ボランティアな労働であっても、サービスの提供を
受けた方は、提供者の存在を好意的に認める場合が多々見受けられる。
贈与することは総じて、労働に含まれた性質と考えられます。

つまり、労働とは、贈与の方向性と好意の強さを持つベクトルであり、
物や人との間の仲介、サービスとして人間の社会性の基本要素の一つ
であると言え、「人間は、労働する動物である」とも言えるのです。
労働の提供を受けた人間は、相手の活動を労働と認識した瞬間に
相手を人間としての共存関係を認めるのです。
認められる成果とサービスを発生させる欲望は、人間の本源の自意識
として、好意的な相手(他者)を必ず必要としていることが解るのです。


自己内部で労働とは、相手が喜ぶことで、自分自身の存在意義を再確認
する行為です。
労働の貨幣的な価値は、その相手の喜びを、貨幣価値へ相対化し、付加
価値で演出しているに過ぎないのです。
何らかの労働の結果、相手が、ありがたいと思うことが、他者に価値を
生み、市場を形成する成果物、サービスであれば、貨幣との交換が可能
となるだけです。

市場では、相対的に珍しく、最新であるものが、付加価値を付け易いのは
当然だが、原価の成果物、サービスが、先ずは、相手の喜びとなっている
かがかつては重要なことでした。現在は、先物取引ではサービスを先に
提示し、後から喜びがあるはずだという論理的市場も高度に成立している。

牛の鈴音の話に変わります。

老齢の牛と体がボロボロの老人。牛は、老人から干草を得る。
老人は、牛から、運搬の動力、耕作の動力を得る。
老人は、体がボロボロで体調も悪いが、牛の世話の労働を休まない。
老人が休まないと、牛も休めない。牛も、老人と共に体がボロボロになる。
老人は、畑仕事がなくても、牛の食料は牛の為に必要と草刈は欠かさない。
お婆さんにとっては、自分より牛を大事にする老人に困った様子です。

お婆さんは、この牛が居ない方が、老人の体と、自分自身の体には、
良いことに、思い至ります。
現実的に考え、肉体的消耗を防ぐ理論的な結論を下した訳です。
つまり、牛を売ってしまうという付加価値を年老いた牛に見出す。

流石の老人も、お婆さんの理詰めの現状判断に、反論もできず、
牛を市場に出す。結果は、売れない。なぜか。

市場価格より、高い価格を老人は設定しまう、値下げ評価に
対応せず、市場からドロップアウトせざる得なくなる。
老人の牛への価値と、市場のこの牛への価値基準のレンジが重ならない。
牛の奇跡的な加齢に対する評価が老人と市場で、価格へ変換ができない
のです。通常、牛の寿命は15年程度、この牛は40年は生きているのです。

市場から排除された老人は、村人と酒を飲みながら、市場が如何に
牛の価値を知らないかを、得意げに話します。
村人も、老人の意見に笑いながら賛同します。
はなから市場では、この牛が売れないことを皆、知っているからです。

老人は、機械による効率化や農薬による除草に何故、進めなかったの
だろうか。
元々老人が足に障害を持っていて、他の村人の農耕速度に遅れていた
のではないだろうか。
昔から周囲も農作業の動力は、牛を使っていた。
皆が牛を使っている間は、老人の障害は、それ程、大きな、作業の
遅れはなかったと想像できる。
機械化、近代化になって、老人の障害は、作業の効率化からは、
全く程遠く離れた位置になってしまった。

周囲と比して優れている点は、無農薬の農作物という自然指向での付加
価値と、40年前に買った牛が、今でも生きて動力を提供し、これにより
30年近く設備投資の先送りが出来たことです。

この老人と牛の活動は、農産物市場に対して労働として一体化しています。
老人の障害から見れば、一体化せざる得なかったとも言えます。

スピード化、効率化への諦めです。
しかし、これは農作業では、規模の縮小、限定を意味します。
牛の動力は、障害を持つ老人からの世話として、老人の労働へ内部化してゆく。
牛は、老人の動作にのみ速度が同期していることをまた、知っているのです。

牛と老人は同期して初めて、労働を成立させることが出来たのでした。
労働とは、相対的な他者が、贈与に対して感謝することで、成立する。
昨今のユーザーが全ての価値観を表面的に決定すると想定するマーケット
リサーチや社会分析に社会思想学的な観点を流し込んでいると思う。

仕事がない、不景気、デフレなどにより、賃金の低下や、販売価格の
競合関係による値下げ要求。
これらと、労働とは、基本的になんら関連はないと思う。
労働とは、人間関係の基本であり、各個人の人間性の発露すべき
形態であり、労働であるかないかは、感謝させれるべき成果物、サービス
であるかのみを問われるのです。
価格は、市場が付加価値と共に論理化し、演じているだけです。

自分の労働に、自分で価値を設定できることが人間にとって
一番本源的な行為であると考えて、労働を捉えないと、謂れ無き罵倒や
差別を受けることになります。

牛の鈴音の老人が、なぜ年老いた牛と農作業をし、牛を売る段になると
市場より遥かに高い値付けをして、値を下げることが出来ないのかと、
考える必要がある。
社会的に孤立、または自立している人間とは、自分の労働の価値は、
自分で決めなくてはいけないのです。

老夫婦は、子供達も無事成人できたのも、この牛のお陰と考えていた。
そして、死んだ年老いた牛に対して、お婆さんの言葉が心に響く
「この牛は、本当に、よい事をしてから死んだよ。
寒いこの冬を越す為の薪を沢山残していってくれたよ。ありがいことだ。」

映像は、老人と牛が、山から運んだ薪が綺麗に詰まれているところを
静かに写し取って行く。

労働が、利益を上げることだと思うと本質を見失うことがある。
利益にのみ興味がある人は、労働に興味があるのではなく、使い方の知ら
ない金銭の額の社会的な効用に興味があるだけなのです。
労働とは、感謝してくれる他者、人間の心の存在を感じることなのです。
就職する仕事がないことと、労働をしないこととは、別の問題です。

牛の首に掛けられた鈴の澄んだ音は、映画全体にリズムを与えます。
それは、老いた牛の歩みと年老いた農夫の労働が同期した音なのです。

自分自身が、労働を見失うと、牛の鈴音は聞こえて来ないでしょう。
就職や仕事の中で、労働をしている実感がないのでは、人間として
本源的なことを他人に委ねてしまっていることになるのです。
次第に、自ら進んで仕事に工夫することが出来なくなってしまいます。

賃金の多寡と他者から存在を認めらる労働とを、混同して日常の仕事を
見ていないのか、その意味で、この映画を観ると、労働しているかと
自省する人間でありたいと思うのです。

「牛の鈴音 公式ページ」

「牛の鈴音」その1

$どこかで見たこと読んだこと-牛の鈴音1

日本経済新聞2009.12.27版
第一面に2010年「日本と世界」と言う特集で
台頭する新興国・地域も交え、日本はどんな成長経路を
描けば良いか、内外の識者の意見を掲載していた。
第1回目は、キャノングローバル戦略研究所理事
(元日銀総裁)福井俊彦氏である。
日銀総裁当時から世界経済へ鋭い判断を明示する
国際派エコノミストという印象でした。

今回の紙面では、意外に激しい表現を目にした。
要は、これまで日本は、アメリカの核抑止力の元
世界第2位の経済大国という「美しい衣」を身にまとい、
快適な環境に置かれてきた。だが、地球を市場とした、
生存競争がこれから厳しくなる。その点をちょっと軽く
受け止めていないかと、日本国民へ警告する。
その美しい衣は、中国に譲る段階が、目の前にせまり
それすらも、歴史のただの通過点でしかないとの指摘だ。

新政権には、政策議論が足りない、それも成長過程で
激しく戦い、勝ってゆくための議論が足りないと指摘
してる。来年度予算の国債比率を見ると議論の不足は
指摘通りで、既に経済界からは不安が出ている。

経済的にアジアを見る目も、鋭い。
アジアを一体の市場とみなし、相互に鍛え合い、その
成果を得る要件を整える必要があると的確である。
政府が、この指摘を重要視し、早急に東アジア共同体
構想を固め、各国とのFTA条約を締結できるが、鍵だと
私も同じ印象を持っている。

しかし、福井氏から「激しく戦い、勝つ」という表現を
使っていることに驚いた。経済、政治の状況認識が甘い。
さらに、企業には表現が激烈である。
企業は、原点に返ったマーケティングと顧客ニーズに
合った製品づくり、地をはうような地道なセールが
必要という。まるで一から出直しというようなものだ。
それに追い打ちを掛ける様に、日本の戦後の復興期も
そうだったと、非常に指摘が厳しい。
福井氏の視線は厳しい。日本はまだ戦争を反省していない、
そこから出直せと言うことかもしれない。
世界第2位の美しい衣はアメリカからの幻想であったと
いうべきか。

今の企業人に地をはうような地道なセールスという
イメージを如何に伝えたら良いか判らない経営者へ
お勧めしたい映画がある。

韓国ドキュメンタリ映画でイ・チョンチル監督の「牛の鈴音」
という作品である。
山の奥で農作業をする老夫婦、そして40歳という高齢の
メス牛。老人と年老いた牛の1年間のドキュメントである。
周囲の農家は、農薬や機械での近代化が進んでいるが、この
爺さんは、頑固に、牛で農作業で無農薬という状態。
おばあさんは、牛ばかり面倒を見るお爺さんと牛へ、愚痴が
絶えない。この愚痴と牛の風景が、観客の笑いも誘う。

お爺さんは、昔の針治療の失敗で左足が自由にならない。
杖がないと歩けない。それなのに牛で農作業をやり、かつ
牛の餌の草刈りもする。お婆さんの愚痴も、なにやら共感
する部分も多い。

まともに歩けない老人を載せた荷車を、年老いたまともに歩けない
牛が引く物語です。原題は、OldPartnerです。
病院へ行くのも、この荷車、町の集まりに行くのも、この荷車。
この足が悪い老人の草刈や畑仕事は、地面を這ってやるしかない。
その映像がなんども繰り返されるので、是非、見て頂きたい。

地を這った結果、畑や田んぼには、見事に作物が成果として実る。
これがこの老人の地を這って行う労働です。

冬を迎えた12月、山へ枯れ木を集め、荷車に満載し、それでも
足りず老人も背負う。
その老人の引きずるような歩みと、牛の歩みが、同期する。
この映像が素晴しい効果を生む。
老人と牛は、一心同体なのだということが伝わる。

この枯れ木集めの後、この牛は動けなくなり、そして死ぬ。
死の間際、老人は、牛を締めていた紐や鼻輪を全て、外す。
自由の身になった牛が、顔を挙げ、瞳を老人に向け
穏やかな表情のまま、「ごっとん」頭を落とし、息が途絶える。
映像は、その瞬間を撮っている。

愚痴ばかりの婆さんは、「この牛には、助けられた。そして
冬を越す薪を残してくれた。ありがとう。」と声を掛けた。

ここには、働くということの意味を深く考えさせる流れが
あった。また商品の価値という物語もあった。
そのことは、「牛の鈴音」その2、として次回で述べたいと思います。

日経新聞での福井氏の経済界のエリートへ向けた
「企業は、原点に返ったマーケティングと顧客ニーズに
合った製品づくり、地をはうような地道なセールが必要」
という戦争を反省するようなレベルの戦闘的指令への、
各企業の判断が、世界成長への対応力、未来への洞察力の
レベルを評価する指針となるものと考える。


「牛の鈴音 公式ページ」