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五色塚古墳と、その眺望




神戸市垂水区の五色塚古墳のロケーションは象徴的です。
明石海峡を挟んで淡路島を望む高台に位置しています。
現在は、葺き石や鰭付円筒埴輪も含め、造成当時の前方後円墳全体が
復元されています。見学は無料で円墳の頂上に登ることができます。
造成当時に近い状態で見学することができる稀有な古墳です。
六甲の山並みと海に囲まれ、この人工の大型造形は、近代的なデザインと
思える程です。
当時の人々には、見たこともないデザインに心を奪われただろうと
容易に想像出来ます。


眺望は、大阪湾を挟んで大和盆地の山並みまで見えます。
瀬戸内海方向では小豆島までというロケーションで、明石海峡を通る船や山陽道を、
行き交う人々に、その存在を誇示する場所にあることが良く分かります。

造られたのは、4世紀の終わり頃で、地元の豪族が葬られていたと
パンフレットには記載されています。
この豪族は、応神天皇の頃に活躍し、ヤマト政権の傘下で、
明石海峡の交通を支配していたようです。
地方豪族は、4世紀の頃、ヤマト政権から武力と官僚機能を期待
されていたようです。
日本国として天皇制を明確に対外的に表明するのは、中国の体制を
学び7世紀の律令体制が整ってからです。
それまでは、地方豪族から大和へ人材を集め、国家を形成していたのです。
地方も、弥生時代を経て、小規模ながら国であった。
この時代は、この国々が120程あり、その国々から共立されたのが
卑弥呼という事になります。

この五色塚古墳は、卑弥呼の時代から約100年程経た時代となります。
地方豪族が官僚化して行く過程です。

地方の住民からすれば、前方後円墳の造成は、一大イベントであり
土木工事や埴輪窯、金属加工など工業団地が身近にでき、また、
目の前には古墳という象徴で人心を一つにし、地域振興効果が
具体的にあったものと想像出来ます。




この連休中に中野雅至氏の
「肚(はら)が据わった公務員になる!」
という本を読んだ内容は、中央官庁のキャリア・ノンキャリア、
都道府県職員、市町村職員、専門職公務員と、階層を分けて
現状の本音を吐露し、理想的な公務員のモチベーションを、
仕事の哲学として、表現し、今後公務員を目指す若者への
ノウハウ本となっている。

個人的には、ビジネスで公務員の方々との商談が多いので
ユーザーサイドの心情分析として参考になる内容でしたが、
現職の公務員にとっては、煙に巻かれた様な結論なので
多少、気の毒な結論でした。
詳細は、読んで頂くとして、問題定義と結論を紹介します。

公務員は、「全体に対しての奉仕」がお仕事という哲学は
外向きの綺麗ごとで、仕事のモチベーションが上がらないという
問題定義から、公務員の各階層の現状分析と、各階層毎に
仕事の哲学としての目標をご提案されています。

ただし、結論が無性に歯痒い印象です。
それぞれの階層での哲学目標は個別に提示しているのですが、
公務員全体への提示としては、公務員は個人の承認を目指す
のでなく、各省、各部門をチーム労働と考え、
「チームとしての承認」をモチベーションにするべきだ。
というのが著者の結論です。

ここで、それならば、問題定義であった
「全体に対しての奉仕」がお仕事という哲学のままで
良いのではないかという思いが強まるのでした。

それよりも、仕事では公も民もなく誰でも、他者に見える形に
心を配り、その周辺で仕事が連携する遠大な仕掛けを目指すだけで
良いと、古墳に登った眺望から、しみじみ思うのでした。



第10回小磯良平大賞展

小磯記念美術館 第10回小磯良平大賞展

今日は、小磯記念美術館へ第10回小磯良平大賞展を
鑑賞にお邪魔しました。

普段の展示は、神戸にゆかりの画家の企画展示が多いので
日本各地の画家の作品が一同に会する良い機会でした。

作風もリアリズムから抽象、アニメ的なものまで、材質も
油絵は、もちろん、アクリル、墨汁、岩絵の具多彩で楽し
めました。
作風の影響か、外は雨でしたが、普段より会場が明るく
感じられました。

大賞1点、新人賞1点、佳作4点、入選48点という規模が
丁度良い展示でした。

この中で、私が気に入ったのが、新人賞の宇野嘉祐氏の
作品「輪ーCORAL」でした。

死滅したサンゴ礁を、リアリズムに表現した作品です。
一瞬、葬儀の際の白菊を思わせる白い塊は、サンゴが
死んで、白色になった状況を捉えた作品です。

作者のコメントも掲載されていましたので、
掲載させて頂きます。

「生きとし生けるものは、死後も生まれ変わりループしていく、
輪廻の世界観、生命観をサンゴの骨を使い表現しました。
死滅したサンゴに生命を感じ、崇高なものに対する尊敬や畏敬の
念をもちながら描きました。
人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じ、
人間としての在り方をより深いところから見つめ直すことが
大切だと感じながら制作しました。」

東日本大震災を経験した人々が、ようやく復興へと歩みを
始めた今、画家達が自らの制作に心象の何を表現しようと
する力もまた深く、かつ無限を超克しようと画家の内面を
繰り返し回帰する。

その中で、美術作品を作るとは、何か・・・
「人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じ」
と宇野氏が言う、克服する強さや気高さを対象から、発見すること。

また美を発見する方法は、画家、音楽家、小説家の違いはあるだろう。
話は横道にそれるが、ならば、営業も同じこと。
美しい仕事には、気高さがある。多分、その仕事に疲れることはない。

話を戻します。
宇野氏は、死滅したサンゴの崇高さに感応し、尊敬と畏敬を
対象に抱き、作品を描いた。
そのサンゴとの情報解釈過程で、コード化された「崇高さ」が
絵画表現として抽出されていた。作品から崇高さを感じられた。

宇野氏は、1984年生まれ 札幌在住
札幌の画家では、西田陽二さんなど、白の表現が上手な方が多い
様な気がする。冬、雪の自然の為であろうか。
宇野さんの白の情感にも、自然を強く感じる。


我々観客は、その画家の解釈過程を感じようと
鑑賞を楽しむ。

また、この日の小磯記念美術館では、
ロビーコンサートが開催されていた。

「バロック時代の音楽」
演奏は、神戸市室内合奏団
1Vn幸田さと子 2Vn黒江郁子 Va横井和美 Vc田中次郎

Program
♪ヴィヴァルディ
弦楽のための協奏曲 ハ長調
♪ヘンデル
ラルゴ
私を泣かせて下さい
♪テレマン
組曲「ドン・キホーテのブルレスカ」
♪ヘンデル
見よ勇者は帰る
♪バッハ
小フーガ ト短調
♪ヴィヴァルディ
四季より「秋」
四季より「冬」

アンコール
♪バッハ
エア

宇野氏のサンゴの死後の輪廻への崇高さへの感応は、
ヴィヴァルディの四季の輪廻への崇高さと通じる。
人生の終わり、四季で言えば「冬」。
その厳しさを「冬」アレグロ・ノン・モルトで感じながら
そのライブ演奏からは、弦の響きに崇高さを感じる。
そして、ラルゴ、アレグロと続く中で、春への輪廻の
予感を強く感じさせてく、心を揺さぶられました。

MCの田中さんのバロックに関するお話も、面白かった。
ドレスアップした女性陣は、演奏は、勿論だが、
大変美しかった。


今日の小磯記念美術館も、
期待していた以上に、非常に楽しめました。
これだけ楽しんで入場料が160円というのは、
喜ばしい限りです。

<第10回 小磯良平大賞 新人賞>
宇野 嘉祐「輪-CORAL」
$どこかで見たこと読んだこと-宇野嘉祐氏 「輪ーCORAL」

故郷の喪失と再生

故郷の喪失と再生 (青弓社ライブラリー)/青弓社

¥1,680
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故郷の喪失と再生「青弓社ライブラリー」

2000年に多摩ニュータウンで行われた講演会
「故郷の喪失・故郷の再生」での講師陣(5人)の
講義録である。

東京の郊外で、経済成長期の首都の人口増加に
対応する為に開発した日本初のニュータウンである。
開発直後は、ニュー-タウンの居住者は皆、故郷から
移動して来た人々であった。
現在は、その大型居住区で生まれ、そのニュータウンから
移動して行く人々も多くなった。

その意味で、過疎地と人口流出の構造は同じである。
過疎地は、この状況が先行して現れている。

この本は、社会学、民俗学、歴史学、文学からの
個人の心象としての「故郷」を相対化する講義である。

歴史学からの視点では、「故郷」は、明治政府の政治指導部
からの国民意識発揚へのイデオローグとして、政治的に発現した。
社会学、民俗学からの相対化では、政治や資本主義の商品化への
故郷のイメージ利用を示唆していた。

この本は東日本大震災の10年前に書かれたものなので、
唱歌「故郷」の歌に込められた意味の分析にも情緒的な
雰囲気の影響は少ない。

震災後の村の再生にはこの本の内容が生かされる視点がある。

古来、村の存在理由は、水利の共同、萱場、山林の共同管理
などインフラの共同管理であった。
インフラの共同管理による生産物を集積する場が村の本質で
あり、プレ資本主義の準備構造を内包していた。
村の文化である催事儀礼は、この共同管理の紐帯を再確認する
通過儀礼であった。

この村世界では、村八分は、生活からの排他を意味する。
逆に言えば、村は、生活して生き残る手段として選択された
インフラの共同管理である。

独占と孤立へは、禁忌の傾向を持っていた。

その場の思いつきの独創より、受容と反復が共同管理が村での
生活の維持には、不可欠なのである。
この事は、縄文、弥生時代から変わらない。

村は共同管理という生活の場であり、共有と配分の場では
ないことが、明治以降の資本主義への順応の速さに表れている。
生産物の明治以降の社会的共有と分配の志向は、近代的な
自意識の確立を待たなければならない。


「富国強兵」と、「村おこし」に大きな差が無いことを日本人は
経験した。政治的な故郷を経由することで、国が、国家と村を
同じものの様にイメージされた来た。

現在でも、故郷の再生を言う時、資本主義を前提とした生活を
意味することを社会学は指摘する。

本来、個人的な生い立ちの郷愁、情感であるイメージの故郷が、
商品として流用されている。
これを政治的な訴求点にする政治家も多い。


故郷を懐かしむのは、個人的な記憶のことであり、事実と異なる
ことも混合している。他人と共に共感できるような状態ではない
部分が多い。
生活のモチベーションや美的感覚の具現化のベースとしての
故郷には個人の社会化として意味がある。
一方、その個人的な感情のシンボルとして故郷の商品化を
試みると故郷は、世情への演出と広告宣伝費が必要とされ、
個人のイメージではなく、共同幻想へと妥協する。

この事は、「故郷」に住んでいる人にとって、時々、故郷に来ては、
環境が悪くなったの、昔は良かったなどと転出して行った人に
言われのは「大きなお世話」という感情が湧くことで、知られる。

故郷の再生には、村の共同管理のインフラを明示することが必要だ。
過去の個人的なイメージでは、生活は出来ない。

弥生時代、大阪や奈良では、眺望の良い丘陵に、村が構成され、
環濠が造られた。生産物を守る為の戦いに有利な場所を選び
共同で管理した。
結果、眺望の美しい場所に村が出来た。この場合、生活の場である
村は、風景が美しい事になる、

共同で管理するインフラの無い場所での生活は、成り立たない。

震災復興の村、過疎の村を再生するのは、ターゲットとする
その場所で共同で管理すべきインフラが何かを生活を掛けて
追及する必要がある。
もしくは、生活が出来るか暮らせば良い、ダメなら再生しない
だけの事である。
これが、自然で古代からの村、つまり故郷の歴史である。

インフラが無ければ、他所の共同管理のインフラのある場所へ
移住するか、消滅するだけである。

故郷の喪失と再生には、美ではなく、ただ、生活が関係している
事実を知ることである。

個人のその場所への過去の思い出が、
悲嘆であるか、歓喜であるかは、再生には関係ない。


あまねく照らす

朝ドラ「あまちゃん」の感想

朝ドラ「あまちゃん」は好評にて最終回を迎えたようですね。
東日本大震災以降、初めて東北を舞台にしたNHKの朝ドラとして
また、工藤官九郎氏の朝ドラ初脚本でスタート前から注目を
集めていました。

結果、音楽的な評価も相まって、良い評判で終えたというのが
感想です。

制作スタッフやキャストからの感想や業界の評論家など
専門家評価は、これからも出て来ると思いますので、専門的には
そちらに総合評価は、そちらにお任せ致します。

何しろ全ての回を観た訳ではありませんので、熱狂的なファンと
言うことも出来ませんので、個人的な小ネタ的感想を書きます。

大震災という悲劇の後の復興におけるエンターテイメントの役割
というテーマが制作サイドのモチベーションを意識されていた
ドラマという印象は常に感じられました。この特殊性を抜きに
このドラマの感想は書けないと思われます。

結論的に言えば、東北の被災者の方々が、このドラマで少しでも
元気を出す事が出来たかで、評価されるべき位置づけになります。

ドラマ上映中の観光客の増加から見えれば、ある一定の効果は
あった証左であると思えます。

ドラマは、岩手県の架空の北三陸市を中心に小袖海岸をモデルにした
漁村袖ヶ浜に住む人々と北三陸鉄道をモデルにした北鉄に関わる人々
から始まる。
そして、そこに天野家の3世代の家族を中心に家族の変化を中心に
脚本が進む。
やがて、大震災により3世代の変化した生活と東京在住のエンター
テイメントの関わりへとドラマが進み、最終回被災地で若者が
明日への希望を持つことで終わる。

余りにも簡単な要約で申し訳ない。(笑)
実際のドラマは、キャスティングの妙、絶妙な掛け合い台詞、
更には音楽的な時代背景、手作り感の立て看板やジオラマでの
災害の表現など、脚本家と制作サイドの細かな仕掛けが多くの
視聴者の琴線に触れ、ネットなどでも多くの高評価の声が上がっている。

当然、台詞や脚本で解釈を否定的に捕えた人も多く居たが
ネットでの否定的な意見は、遠慮勝ちという伏線を轢いてからの
発言が多い。(なのでファンからの感情的な反論は少ない。)
歌詞の文言や台詞回しが感情に合わないというのが多い様に思えた。
一部のキャストの台詞が不鮮明で聞き取りにくい。
他のドラマからの小ネタの流用が多すぎる。
(逆に評価する人は、流用をオマージュとして楽しんでいる。)
歌詞に被災地不で適切な文言があるというご意見などだ。


全体のストーリーでの積極的な訴求点が見えにくいので
上記の様な細部で違和感を持たれている印象である。

大きなテーマは、被災者を被災地で、元気にさせるという
大変難しいテーマなので、ストーリーとしては大変難しい創意が
要求されていたと思う。

東京では育ったヒロインは、東京では元気が出なかったが
初めて母の故郷へ行って、祖母と出会うことで、俄然、元気が出て
周囲をその元気さで引っ張るヒロインへ変化する。
その勢いで今度は東京へ出てアイドルを目指す。
その途中で、祖母が居る故郷が津波の大被害を蒙る。
その祖母の故郷を元気づける為、再度、地元へ戻り、東京の
エンターテイメントの力も借り、被災者へ勇気を与える存在となる。

広い世代の被災者を、現在のエンターテイメントだけで元気付ける
ことは、元々も無理なことである。

40年前、20年前、現在それぞれの年代で、感情移入出来るエンター
テイメントはそれぞれことなる。
そこをテーマにしたが故、サブテーマ:アイドルも重層的、輻輳的に
ならざる得ない。

それはある種、時代的な変容を、そのまま受容する覚悟を強いる。

アイドルも、また40年前、20年前、現在とでは変容する。
それは、橋幸夫、松田聖子、AKBに代表させることが出来る。
脚本では、AKBは、GMTと現実とフィクションを絶妙に交差させる。

そこで、キャストで生きるのが、小泉今日子と薬師丸ひろ子である。
松田聖子世代のアイドルとして、劇中劇としてのリアル化に成功している。
つまり、キョンキョンと薬師丸ひろ子は、劇中劇としてリアルな
アイドルとしても、現在の女優としても平気に共立できる位置
関係に脚本で設定できたのだ。

脚本家は、リアルなアイドルと女優を4人確保した事になる。

実力はあったけど運が無かったアイドル
実力に不安だったアイドル

過去の挫折を娘に託す主婦
現在は、実力を伴った大女優


この架空の変容を「潮騒のメモリー」という歌で表現する。

春子は、17歳の頃をそのまま復元するかの様に、
今でも歌えることを劇中歌で証明した。

鈴鹿ひろみは、歌詞を、「三途の河のマーメイド」を
故意に「三代前からマーメード」に替え、時代の流れを清算し
自分自身の変容を受容した。

20年前の本物のアイドルは、時代の変容も受容し、
過去をそのまま再生することも出来ることを証明した。

ドラマの復興のテーマをここに求めたと思えた。


ここで視点を変えるが、20年の変遷で思い起こすのは
伊勢神宮の式年変遷である。
変遷の真意の正式な伝承は無いらしいが、持統天皇の治世
690年から始まり、1300年も続いている。
弥生時代から続く建築様式の技術伝承という意味合いも
あるという。
伊勢神宮の祭神は、皇室の氏神、天照大御神である。
弟である素戔嗚が、天上界で暴れ、太陽神である天照は岩戸に引き籠った。
天上界も地上界も光を失い全て闇に包まれた。
古代より素戔嗚は、地震神として恐れられている。

岩戸から天照大御神を引き出すには、アメノウズメが桶を伏せ、衣類を肌蹴
させるほど陽気に踊った。それを見て、八百万の神々も一斉に笑い出した。
この騒ぎの様子を見る為、天照が岩戸に隙を開けると、アメノタヂカラが
天照の手を取って、引き出した。
これで、太陽の光が戻った。

地震で被災地に笑顔が途絶えたときこそ、勇気と慈しみを持って
陽気に歌うことが、笑顔を戻す一助たることは、エンターテイメントの
古代からの矜持として、誇って良いとも考えさせた。

アマカフェでの鈴鹿ひろみの変容としての「潮騒のメモリー」は、
慈しみの母性として、地上をアマねく照らす。
























敗者の古代史

敗者の古代史/中経出版

¥1,890
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「敗者の古代史」森浩一著

古事記、日本書紀に記載された古代史を視点を変えて読む。
当然ながら朝廷側の勝ち残った者を正義として綴られているのが記紀である。
また、この記紀の記録は、古墳や寺社の史跡として現代とも繋がっている。

現代の史跡を取材すると、記紀とは異なる伝承も現代に残っている。
森氏が言う敗者の古代史の残照と思える。

書き残された「事」から、「物」を引き出す。
この思考回路が本書の史観であり、面白さである。

「事柄」から「物」を生む。これは、現代でもメディアの一つの機能である。
現地を取材し、記紀を読み直す、正にメディアとしての再構成する
ことにもなり、物語へと一気に傾斜する可能性があるが、森氏は
その傾向に研究者として、最大限に気を配りつつ本書を構成し、その事も
本書に安易なメディア的制作を自省している。

本書の冒頭で述べている言葉が印象的だった。
「敗者の立場で古代史を読み直すことは、さまざまの地域の隠された
歴史を掘り起こすことになるかもしれない。」
この歴史の掘り起こしは、その地域の人々を元気にする。
と、森氏はこれまでの経験から述べている。

また、敗者として注目する特徴は、歴史書からは意図的に消され、痕跡しか
残っていない人物へ光を当てることにあるようだ。

例えば、第1章では、物部氏の始祖ニギハヤヒノ命は、神武に負けた敗者では
なく神武東征のモデルであるという視点である。その理由は、現地取材から
シンプルに省察される。現代に残る神武の神社は皆無である。それとは逆に
ニギハヤヒを祀る神社は、生駒の周辺に数多く存在し、今でも、ニギハヤヒと
して祀られている現実である。
神武とその物語が、歴史的事実ではないことが、現代への敬意の伝承が無い事で
証左されて行く。人民は、上から与えられた物語に表向きは、諾とするが、
親愛と敬意を伝承するとなる現実的なものである。

時の権力が押し付けてくる事柄は、沢山あるのが歴史の常である。
不正義でも正義である「事」を権威で抑圧する。
現代の政治家でも言説の正義を自己主張する者が多い。
政治と権威を区分できない声だかのみを心情とする貧しい人性の変わり映え
しない(出来ない)政治家が沢山居る。
大平さんみたいな政治家が出て来い!

しかし、敬意と尊敬を人民から得る人物は、例え権威より不正義の事と抹殺され
ても、神社として今も敬意を維持し、本「物」として醸し出される。
時間を掛けた編集である。この時の継承が本物のメディアである。

「あとがき」でも、面白い視点が提示されている。
日本人には「判官びいき」があるのに「歴史上の敗者」の研究が少ないのは
何故か、という問いに対し、森氏の回答は、鋭い。
研究者が、楽な道(権威に従った視点)を選ぶから。
また、義経に関しては、同情が無い。当時、国司の中で誰でも欲しがる伊予守を
頼朝に何の相談もなく、朝廷から受けてしまう判断力の無さは、政治家としての
致命的な欠陥があったと見ぬいている。古代の権力闘争では、もっと厳しく、
占いや、言説一つで生命を失う事件には、事欠かないことからであろうか。

弥生時代、古墳時代、飛鳥時代と東アジアでの国家間の覇権争いが、氏族間の争いと
密接に連動したグローバルな時代だった。
この時代に敗者として舞台から消された人物を、読み解くことは、現在の国家間の
覇権潮流を読み解き、未来へのベクトルを考察することに繋がる。

未来は、過去からやってくると言う概念の一つの証左である。

14章の藤の木古墳の被葬者は、蘇我馬子の指令で東漢直駒に暗殺された崇峻天皇で
あると言う取材は、とても面白い。
羽黒山の鏡池と法隆寺の西円堂の類似性の指摘は、現地を実際訪れて確認したい。