きまぐれさとみの気まぐれ日常スタイル

きまぐれさとみの気まぐれ日常スタイル

日常を気まぐれに思いついたことをいろいろ書いてゆきます。春と夏には「風のように旅する男」の本領発揮…てな旅日記を入れたり…時々聖書や聖クルアーンに書かれていることに近いこと書くかも。

 パレードが途中で中止になった夜も、事故と無関係なだんじりは予定通り地区の4基の宮入。すでに商店街には岡本のだんじりが待機。

19時を回ると東から北畑、中野、小路、田邊のだんじりが宮入のため続々と練りあるく。小路のだんじりが岡本坂に向かう。

そして登り口で岡本のだんじりと練り合戦。岡本のだんじりは各地区のだんじりと練り合戦をやり、見送る。そして、4基のだんじりは保久良神社の御旅所がある鷺宮八幡宮に向かう。


 4基のだんじりが坂を登り終えると、岡本のだんじりも坂を登る。こうして夜のだんじり曳行は鷺宮八幡宮の宮入へと移る。
 今年もやってきました。本山だんじりパレード。昼前に岡本駅から山手幹線へ向かう。摂津本山駅前。

森のだんじりが休憩中。パレード前から地区を練り歩いている。特に摂津本山駅や岡本駅付近は絶好の練り歩き場所なのであちこちからだんじりがやってくる。


 地元岡本のだんじりも商店街を練り歩いている。そうして本山8基、魚崎地区から魚崎と北青木(きたおうぎ)のだんじりも参加。毎年の顔ぶれ。10基のだんじりが勢ぞろいし、だんじりパレード開始。実行委員長や地区の会長などの挨拶の後、区長の挨拶の場面で県知事が挨拶。

 各地区の練りが始まって、地元岡本のだんじりが練りに難儀していた。

田中地区の本山最大のだんじり。新型コロナ禍の前は打ち上げ花火やら派手に打ち上げているけど、今回は風船を用意していた。ただ、練りの疲労の際に事故が起き、だんじりパレードは中止。

 神様は維新を嫌ってるのかな?
 日本の史跡には謎が多い。おそらく東アジア最古のものだろうと言われるものがある。そもそも我々の祖先はどこから来た何者だろう。

日ユ同祖論の根拠
 日ユ同祖論はよく言われるが、その根拠として、日本人に多いYAP因子がユダヤ人のものと同じであることから、日本人の祖先はユダヤ人だったという説…これはユダヤ人の間では有名である。

 そもそも日本国としての起源は西暦紀元前660年に神武天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)が橿原で即位したのが始まりと言われる。その60年ほど前、エフライム朝イスラエルが滅亡、王族や貴族たちはユーフラテス川の東へ流刑にされた。

では、縄文人はどこから来た?
 そうだとしても、それ以前に住んでいた縄文人に関しては辻褄が合わない。神武天皇即位以降の歴史は弥生人の歴史で、縄文人はそれ以前に住んでいたから。また、縄文人は争った形跡がなく長年平和に暮らして来たようだ。

 縄文人はシベリアからサハリンを渡って北海道の上陸、そこから中部・北陸まで生活範囲を広げた。また、天然アスファルトを新潟県で掘り出し、北海道で加工し、青森で使用するなど産業も活発だったようだ。

 アイヌ人はエサウの末裔と言われているが、これも日ユ同祖論から来たもので、セイル山の動乱もしくは滅亡によって流れて来た説がある。しかし、アブラハム・イサク・ヤコブの時代から見ても縄文時代の長さからいって不自然である。

 アブラハムがウルの町を出たのちにシュメールはアッカド人に滅ぼされている。シュメールの最後の王朝、ウル第3王朝の時代にアブラハム(当時はアブラムという名だった)は父や兄弟とウルに暮らしており、なぜ、裕福なウルの町を出たのかは定かではない。

 しかし、いずれこの繁栄は続かないことをアブラハムは知っていて宣べ伝えたのだと思う。そうなると、それを聞いた一部の人たちが迫害を恐れて東へ移動したのではないだろうか?それなら争いごともなく平和に暮らす理由もわかる。

 そう考えると、東日本はエドム・イドマヤ・シュメールで西日本はイスラエルに分けられ、同じ遺伝子を持つ民族となったのではないだろうか。

日本の混乱の元凶は?
 ちなみにアイヌ人とウチナーンチュは平安時代ぐらいまでは争いごともない平和な日々を過ごしていたようだが、ヤマト人は平安時代末期から戦が多い不安定な時代が続いた。おそらく縄文系と弥生系が混在し、また、イスラエル系とエドム系も混在し、争いごとの元になったのではないかと思う。

 さらに、弥生時代後期(紀元前330年以降)は難民や移民が多く流入し、国情が不安定になった。4世紀にも多くの難民や移民が流入したことも不安定要素なのかもしれない。

 しかし、縄文時代の平和な日々やシュメールやイスラエルの民の子孫、また紀元前660年から一つの王朝が現在まで続いている世界でも特殊な国に暮らしていることは確か。最終的に世界はどうなるかはわからない。しかし、恐れて混乱することで事態は悪化する。

 今は、自分が生かされている人生を大切にし、できることを誠実にこなすしかないのではないだろうか。日々コツコツと行うことが気がつけば大きな成果を挙げているのではないだろうか。

 今年から来年にかけては大変な時期になると言われている。しかし、自分なりにひたむきに生きていけば、時代が変われば、流れも良くなるかもしれない。
 さて、今日でユダヤ宗教暦の閏月が終わります。いやぁ、色々あったね。今年は陽暦が閏年。そこへ天保暦、ユダヤ宗教暦、ユダヤ政治暦の陰暦三つが重なった。重なった初日に能登半島の地震が起きた。

 まぁ、日本ではユダヤ宗教暦の閏年が終わったら少しはマシになるのかも。アメリカは今年の9月ぐらいまでは色々あるだろうけど。

 スマホに聖書やコーランのアプリを入れていて、いつでも気になるときは見ているけど、聖書アプリにキリストの殉教と復活に関しての週と書いてあったが、今日現在ユダヤ宗教暦では13月…つまり閏月。正月ではないのだ。アメリカでは政治暦に由来している。政治暦の閏年の正月元日が陽暦の9月上旬。だからアメリカは9月入学。宗教暦の閏年が開けた新年は明日から。つまり、日本の入学式シーズン。

 しかし、聖書に書かれている事柄は全て宗教暦に基づいている。そうならば、ある宗派が、最後の晩餐の後、裏切った使途を除いた使徒たちと新しい契約を結んだことを記念して行うことや、キリスト教各派が死と復活に関して行う行事全てが明日以降に始まるニサンの月、すなわち正月に行われるわけ。

 ただ単に形骸化し、本来の教えから逸脱してしまった結果、現在もあちこちで戦争が起き、人々が安心して暮らせない状態になっている。

 盲目的に信じることは破滅につながる。信じるなら、その根拠を探して突き詰めてからでも遅くはない。正しい認識で心理にたどり着けば、誤った方向に導かれた人たちより神の恩寵を受けやすいと思う。なぜなら真実に近いほど、神の力を受けやすいから。
 帰ってきましたぁ。帰りの新幹線の中ではしんどかったけど。もう、旅の途中飲みすぎて。さて、旅の途中でYahooニュースから面白い記事を見つけた。

子育て世代に不寛容な日本社会
 日本では公共の場で子供がぐずって泣いている場面が多いと思う。ヨーロッパではあまり見られないので、なぜかということが書いてあった。まだ、言葉も知らない子どもは泣くことでしか意思表示ができない。ただ、言葉を覚えて、自分で動けるようになれば、自分で自分を律することが必要になる。

 日本では子どもがぐずって泣いていると周りが冷たい視線を浴びせる。そうすると親は泣き止ませるために子どもの要求を受け入れてしまう。だから、またぐずって要求を突きつけてくる。結果、常にあちこちで子どもが泣いているというわけ。昔は子どもと親の間に立って子どもに言い聞かせる人が多かった。

 しかし、今は泣いたり走り回ったりする子どもを迷惑がる人たちが多い。なぜこうなってしまったのか?

当事者意識がない一般市民
 子どもに対して不寛容なのは、自立した大人だけの世界で満足しているから。当事者意識がなければ、和を乱すことには神経をとがらせるわけだ。ヨーロッパでは子どもがぐずって泣いている親に対して暖かい言葉をかける人が多いそうだ。それはかつて自分も同じ思いをしていたから。そうなると親は周りの人たちが味方なので、下手に子どもの要求を飲まないで放っておくことができる。要求が受け入れられなくなると、子どもは要求を通すために泣くこともなくなる。

 ただ、現在の日本は未婚率が高く、子育てに苦労した経験がない人が多い。それで、子育てしている人に冷たい。また、それを体感しているからこそ、結婚しない、子どもを産まない社会になっているのではないだろうか。

75歳以上の人たちが捨てられるのは自業自得
 結婚していなくても、異性の友達や恋人がいる人はいずれ結婚して子育てをするという漠然とした考えはあるはず。それなら、自分もいつか通る道なのでもっと親身になって考えるはず。

 しかし、社会の目が厳しいから結婚を考えない、子育てを考えないから子育てしている人に厳しい。では、異性の友達や恋人を作れば…意外と学生ならともかく、社会に出てしまうと出会いがない。そもそも、恋愛に関して後ろ向きな考えを作ったのは現在75歳以上の人たちである。恋愛を問題視し、タブー視した結果、結婚のハードルが高くなると結婚しない人が多くなる。

 それはいずれ、社会が高齢者を支えきれなくなる時代の到来を意味する。すでに公的年金が壮大なネズミ講になっている現在、どこで破綻するかわからない。そうしたとき、75歳以上の人たちが捨てられることになる。そうなってしまってから後悔しても後の祭り。

 現在我々ができることは50代までに自分の人生を再構築すること。今ある立場にしがみつかないで、新たな可能性にかけること。家族を守る必要のない人は今ある地位を捨てて冒険することもいいだろう。新しい仕事や生活を作って行くことも必要。20代の頃に築き上げた地位は20代の頃に最適化されているので、歳をとるごとに満足な結果を出せなくなる。

 また、若い頃に常識だったこともいまでは非常識になっていることもある。常にトレンドを読み、最適解を求め、自分の人生を修正、再構築していかなければならない。

 現役時代にしかみつくより、老後をいかに上手く生きて行くか…40代から初めて、50代には結論を出さなければならない。出せなければ50代に終わってしまい、60代以降は蓄えを切り崩し、それがなくなれば税金で食べていかなければならなくなる。

行政は交流や出会いの場を
 新しいことを始めようにも人も仕事もない。そんな状況であるから、自分が若い頃に築き上げた立場にしがみつくのだと思う。もし、方向性の似た者通しが出会えば、何か行動を起こすだろうし、必要とされるものがあれば、提供できるだろう。そこにビジネスが生まれるし、趣味やスタイルが合う異性と出会えれば、結婚や子育てにも想像がつくだろうし、そうなれば子育てしやすい社会になるはず。

 特に人口減少時代には人々の出会いや交流の場があるかないかが明暗別れると思う。100人のビジネスパーソンと交流すれば、自分にあったビジネスがあるかもしれない。100人の異性と交流すれば、結婚相手が見つかるかもしれない。

 それが、数人しかいなければ、ビジネスや結婚に関しても宝くじで高額当選を当てるぐらい難しくなってくる。出会いや交流、チャンスをどれだけ多く提供できるかが、これから自治体が生き残るかどうかかもしれない。