日シュ同祖論 | きまぐれさとみの気まぐれ日常スタイル

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日常を気まぐれに思いついたことをいろいろ書いてゆきます。春と夏には「風のように旅する男」の本領発揮…てな旅日記を入れたり…時々聖書や聖クルアーンに書かれていることに近いこと書くかも。

 日本の史跡には謎が多い。おそらく東アジア最古のものだろうと言われるものがある。そもそも我々の祖先はどこから来た何者だろう。

日ユ同祖論の根拠
 日ユ同祖論はよく言われるが、その根拠として、日本人に多いYAP因子がユダヤ人のものと同じであることから、日本人の祖先はユダヤ人だったという説…これはユダヤ人の間では有名である。

 そもそも日本国としての起源は西暦紀元前660年に神武天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)が橿原で即位したのが始まりと言われる。その60年ほど前、エフライム朝イスラエルが滅亡、王族や貴族たちはユーフラテス川の東へ流刑にされた。

では、縄文人はどこから来た?
 そうだとしても、それ以前に住んでいた縄文人に関しては辻褄が合わない。神武天皇即位以降の歴史は弥生人の歴史で、縄文人はそれ以前に住んでいたから。また、縄文人は争った形跡がなく長年平和に暮らして来たようだ。

 縄文人はシベリアからサハリンを渡って北海道の上陸、そこから中部・北陸まで生活範囲を広げた。また、天然アスファルトを新潟県で掘り出し、北海道で加工し、青森で使用するなど産業も活発だったようだ。

 アイヌ人はエサウの末裔と言われているが、これも日ユ同祖論から来たもので、セイル山の動乱もしくは滅亡によって流れて来た説がある。しかし、アブラハム・イサク・ヤコブの時代から見ても縄文時代の長さからいって不自然である。

 アブラハムがウルの町を出たのちにシュメールはアッカド人に滅ぼされている。シュメールの最後の王朝、ウル第3王朝の時代にアブラハム(当時はアブラムという名だった)は父や兄弟とウルに暮らしており、なぜ、裕福なウルの町を出たのかは定かではない。

 しかし、いずれこの繁栄は続かないことをアブラハムは知っていて宣べ伝えたのだと思う。そうなると、それを聞いた一部の人たちが迫害を恐れて東へ移動したのではないだろうか?それなら争いごともなく平和に暮らす理由もわかる。

 そう考えると、東日本はエドム・イドマヤ・シュメールで西日本はイスラエルに分けられ、同じ遺伝子を持つ民族となったのではないだろうか。

日本の混乱の元凶は?
 ちなみにアイヌ人とウチナーンチュは平安時代ぐらいまでは争いごともない平和な日々を過ごしていたようだが、ヤマト人は平安時代末期から戦が多い不安定な時代が続いた。おそらく縄文系と弥生系が混在し、また、イスラエル系とエドム系も混在し、争いごとの元になったのではないかと思う。

 さらに、弥生時代後期(紀元前330年以降)は難民や移民が多く流入し、国情が不安定になった。4世紀にも多くの難民や移民が流入したことも不安定要素なのかもしれない。

 しかし、縄文時代の平和な日々やシュメールやイスラエルの民の子孫、また紀元前660年から一つの王朝が現在まで続いている世界でも特殊な国に暮らしていることは確か。最終的に世界はどうなるかはわからない。しかし、恐れて混乱することで事態は悪化する。

 今は、自分が生かされている人生を大切にし、できることを誠実にこなすしかないのではないだろうか。日々コツコツと行うことが気がつけば大きな成果を挙げているのではないだろうか。

 今年から来年にかけては大変な時期になると言われている。しかし、自分なりにひたむきに生きていけば、時代が変われば、流れも良くなるかもしれない。