2024年1月12日
震災遺構 荒浜小学校に来ています。
荒浜小学校の記憶ということで、3月11日からの27時間を時系列的に見ていこうと思います。
2011年3月11日
14:14 荒浜地区に震度6弱の地震発生
地震発生時、1~3年生は下校途中で、4年生以上は校舎で授業中でした。
14:18 ガタガタッて凄い揺れの地震、長くて長くて、なかなかやみません。
地震がおさまってから児童と教職員は4階に避難しました。
道路を歩いていた人は、ぶっ飛ばされて、ここで死ぬのかって、その時思いました
14:50 ラジオのスイッチを入れたら、40分後に6m以上の津波がきます、
今すぐ避難をと繰り返し放送されていました
14:53 道路に出てうろうろ、
14:56 どうしたらいいもんかって途方にくれている人たち
15:00 避難先は荒浜小学校、みんな来るから、自分も向かわなきゃ、
とにかく荒浜小学校に向かわねばならない
15:04 町内を回って 津波が来るから 逃げろ 逃げろ と叫びます
とにかく 逃げろ~
15:08 情報は車のラジオだけでした
15:10 信号機は全部止まってしまってます
15:15 一刻も早く校舎の中に入るように夢中で叫び続けたのです
15:18 逃げてください 逃げてください
15:20 往復3回くらい車でお年寄りを運んだ
とにかく上だ上階だ~
15:28 海面の状態は異常なし、変化なしです
1階で避難してくる地域住民の方の誘導をしていた校長先生は、
消防団の方に「津波が来るぞ」と言われ2階へと上がります。
15:48 小学校の北側の用水が今まで見たこともないくらいの盛り上がりで
逆流していくのを発見
15:50 現在、津波が上がってきている状態です
ことの重大さにぞっとします。
15:51 白浪が立った津波を確認 津波警戒、みんな上にあががれ
15:53 津波が貞山堀を超えた
あれはなんだ 真っ黒い渦状のものが真横になって一斉に突き進んでくる
津波の流入止まらず
15:55 津波が来た!! 巨大な平べったい壁がグゥッと迫ってくる
少しずつ校舎に水が入ってきたと思った直後、
波とがれきが一気に押し寄せてきました
15:57 荒浜地区は大丈夫か 街を見ると、自分たちの家が無い、どこの家もない
その瞬間シーンと静まり返った、頭の中は真っ白
時間だけが経過していった
もう終わりだ!!これで終わりだ!!
15:59 みんな呆然と目の前の景色を眺めていた
16:15 町全体が流されていて、小学校の屋上に多数の人たちが避難していた
非常に寒く、まもなく雪が舞い始めた
これからどうなるんだろう! 外ばかり見ていた
16:35 寒さに震えながら、子供たちは毛布を巻いて廊下で救助の順番を待った
先生はカーテンや暗幕を外し子供たちにかけて暖を取らせ、
夜の間、避難者や子供たちを励まし続けた。
多くの住民は3階以上に居ましたが、寝たきりの方と車イスの方の二名が2階にとどまっていました。
一度波が引いた後、地域住民の方と協力してお二人を3階へと移動しました。
最終的に、校舎2階の床上40センチまで水が浸水していました。
17:30 ヘリコプターによる救助が開始されます。
最初に小学校入学前の小さなお子さんとお母さんから、
その次は小学生、中学生、高校生、大人の順に救助してもらうことにしました。
救助は真っ暗な中で屋上から一人ひとり吊り上げられるホバリングという形で行われました。
一人ひとり吊り上げての救出だったため、1回に5名しか移送することができませんでした。
直ぐに救助してもらうため、小学生を屋上の入り口から4階の廊下に一列に並ばせます。
先生がハンドマイクを使い「救助された先に行くまで低学年を見ててください」
と高学年にお願いしましたが返事が返ってきませんでした。
もう一度大きな声で「わかりましたか」というと全員から「はい」と返事がありました。
待っている間、子供たちは防災頭巾をかぶり友達とほほを寄せ合ってじっと我慢しています。
教職員は話しかけてリラックスさせるようにしていました。
2011年3月12日
一度に数人づつしか避難できないため、夜を徹しての救助活動となりました。
5:00 小学校6年生まで救助ができました。
それ以降、中学生、高校生と順番に救助していきます。
地震当日、児童・近隣住民合わせて320名の方が学校へ避難していました。
途中、ヘリの移送が途絶えます。
残された地域住民と先生方は、数日間の学校でのろう城を覚悟したそうです。
3階理科室に、学校に置いてあった災害備蓄品の仮設トイレが設置されました。
他に災害備蓄品として学校に保管されていたのは、水・ビスケット・アルファ米・毛布でした。
その他には、子ども用と大人用のオムツ、生理用品、粉ミルクは避難所となった直後から
備蓄されていないか問われていたそうです。
また、明かりになる物が無く、暗い中で過ごさなくてはならなかったことも、
子どもたちに怖い思いをさせたようでした。
ラジオは備蓄品には有りませんでしたが、避難時に持ってこられた住民の方が居たため、
情報を得ることはできたそうです。
外が明るくなると、学校周りの水はずいぶん引いてきました。
12:00 昼頃に西の七郷の方面から消防団の方が20名ほど歩いて学校まで来ました。
それまで、車でも外に出られないと思っていたので、徒歩で移動できることにとても驚いたそうです。
消防団の方から、「歩いて一緒に行く人は居ませんか?」と募集がかかりました。
13:00~14:00 消防団と50名ほどが歩いて避難
救助のヘリコプターには、ペットの動物たちを載せられなかったため、ペットを連れた方や元気な方々、
約50名が14時に学校を出発しました。
水は引いてきてはいましたが、皆さん膝ぐらいまで水に浸かって歩いて脱出しました。
15:00 再びヘリが到着し、ヘリによる救出が再開されます。
水が引き、近所の工場の基礎部分にヘリが着陸が可能となったため、歩いてヘリまで移動しました。
今度は、10分おきにヘリが到着し、一度に10人づつ避難できました。
18:00 18時には、残っていた150名の方の避難も全て終了しました。
18:30 最後のヘリコプターが陸上自衛隊駐屯地に到着します。
19:00 救助された児童全員(71人)を確認できました。
ヘリにて霞目駐屯地内の体育館に避難した後、3月16日には蒲町中学校の避難所へ移動しました。
その後、子どもたちの安否確認や今後の学校運営についての会議が連日行われました。
そして二週間後の3月24日に若林区役所にて卒業式を実施することが決まります。
卒業証書は震災前から学校に保管されてましたが、職員室も被災したため、新たに臨時の小さい卒業証書を作成しました。
しかし「もしかしたら卒業証書は無事かもしれない」という思いがあり、教頭が代表となって学校まで取りにいきました。
職員室の金庫の扉を開けてみると、金庫の中にも水が入っていましたが、卒業証書の棚までは来ていませんでした。
卒業式当日は、本物の卒業証書を卒業生に渡すことができました。
体育館の時計は、津波に襲われた3時55分で止まっていました。
さらにその後、震災以降5年間、子どもたちは東宮城野小学校の校舎を借りて、学習を続けました。
震災時91名いた在籍児童は、その後仙台市内外に転出したりして、閉校時には16名にまで減少していました。
年を経るごとに明るさと元気を取り戻し、荒浜の復興を一人一人が思い描けるまでに成長し、学び舎を巣立ったのです。
震災前の荒浜地区の様子です。
たくさんの民家が犇めくように並んでいました。
そこには、伸び伸びと育つ子供たちの姿や歴史のある貞山堀がありました。
美しい松林の風景があり、夏には海水浴で賑わい、活気に満ちたお祭りの行事もありました。
そんな荒浜の街で、人々が仕事をしたり学校に通いながら生活をしていたのです。
今は・・・・・・失われた街となってしまいました。
荒浜小学校の教室に「失われた街」模型復元プロジェクトで作られたジオラマ模型がありました。
建物が建てられた様子が再現され、
透明アクリル板に住んでいた人の名前や街の様子が書き込まれています。
たくさんの人々が生活をし、楽しく生きていた場所です。
一枚一枚のアクリル板に書かれた名前により、当時の思い出を振り返える手掛かりになっています
荒浜小学校も再現されていますね。
当時のクラスメイトの修学旅行の写真です。
流されてしまって手元に残っていない人もいるのでカラーコピーで配布したのでしょうね。
黒板は連絡メモが書かれ、それぞれの思いが記されていました。
今年の正月にも能登半島で大きな地震が発生しました。
被災された方には大変なご苦労があると思います。
でも、頑張って生きていけば、何とかなる
荒浜で被災された方々の体験が、頑張れば何とかなった・・・・・ということを証明しているのではないでしょうか
今の私には募金することくらいしか協力できないけれど、被災された方々にとにかく頑張って生きてほしいです。