建築家 隈研吾さんの講演会に参加しました | あひるさんの40歳から日大通信で哲学を学ぼう日記

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高校時代に諦めた「哲学を学びたい」気持ちが忘れがたく
2022年春から日本大学通信教育部で学習開始しました。
文理学部 哲学専攻です。

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こんにちは、あひるさんです。

 

今日は若干古新聞になりますが、先日参加した大学の講演会について書きたいと思います。

 

理事長・学長セレクト講座、建築家 隈研吾さん「集中から分散へ」

日大の学生向けに案内されているもの。日大は報道されているように内部の運営はろくでもないようですが、先生や講義のクオリティは悪くないと思います。

 

たぶん、役職員や運営周りで日大出身OB・OGを使いすぎなんですよね。内向きなんですよ。これ先日アンケートがきたのでがっつり書きましたが、日大の出身者は職員の端から端まで一切入れ替えるくらい血の入れ替えやらないと、よくはならないと思います。お前も日大なんだろ?とたまに聞かれますが、僕、出身は他大学です。

 

これも書きすぎると怒られそうなんですが、先生たちの授業はちゃんとしているわりに、学生の質は高くないのが残念なところ。


OBOGが職員や運営の主体だとすると、みんながみんなではないにせよ、自然と上から下までお世辞にも質が高くない人たちの集まりだということになる。


こういう人たちって、理性的な議論があまりできなくて、最初はそういう議論をしていても、やがてめんどくさくなって権力とか徒党を組むとか、そういうことに力を使うようになる。


理性的に考えればこうしたほうがいいということがあっても、「そんな議論はどうでもいいんだ」とばかりに、権力とそれにあずかる取り巻きはポケットにせっせと入れるようになる。


理性的な人たちは冷ややかな目を向けつつも大人しく黙るしかない。こうして、よくわからない傲慢な人たちがウマウマする構図だけが残る。僕がかつて一瞬いた某企業もそんな感じでした。日大の内側ってきっとそんな感じなんじゃないかと。とりあえず林真理子さんには頑張れるところまで頑張ってほしい。

 

さて、気持ち悪い日大の話はいいとして、隈研吾さんの講演会の話に戻そう。隈研吾さん、話を聞くにこれも林さんの伝手っぽいですね。挨拶がそれっぽかったので。それはすばらしい。僕が語るまでもないとても有名な建築家で、2020東京オリンピックのスタジアムをはじめ、世界中でたくさんすばらしい建物を設計されています。

 

数寄屋風といったら語弊があるだろうが、木材をふんだんに使うところや、風が抜けるというか、ミチミチに建物があるというよりどこか透いた感じのある建物が多いですな。

 

で、今回の講演テーマ「集中から分散へ」なのですが、端的に言うとどういうことか。

集中の例として示されたのは、ニューヨークのエンパイアステートビルでした。

画像の出典はWikipediaのエンパイアステートビルの項目。

 

人類は文明を築くようになって以来、一貫して集中を目指してきたというんですね。バベルの塔、ピラミッド、ヨーロッパの教会、大都会のオフィスビルディング、みんなそうだと。経済が成長する、これに伴って人が集中する。それに対応したインフラは集中として造られる。

 

東京オリンピックの国立競技場、1964年と2021年の比較の話が次にきた。

代々木の競技場ですが、1964年はまさに高度経済成長の時代。スタジアムは天を目指した。吊り構造といって、2本のコンクリートの柱が屋根全体を吊っているというすごい構造なんだそうだ。

これこそ集中の極致。天に向かっていく、垂直性、上昇性を象徴する建築だという。

 

で、隈さんは2020年の会場を考える際に、この集中の時代とは異なる考え方で設計をされたそう。

少子高齢化、経済は低迷する時代。もはや集中の時代ではない、集中の逆は分散になる。

 

具体的には、建物の高さを抑えるとか、競技をしない時にも使う建物にするとか。また、集中の時代のように鉄とコンクリートまるけの建物ではなく、木でつくる、木漏れ日や風が抜ける空間を作る。

こうしてできたのが、今回のスタジアムだったんだそう。東京オリンピックも報道は負の話ばっかりでしたが、オリンピックレガシーとかこのように考えられた建築というのがたくさんあるんですよね。(だからといって自分オリンピックばんばん招致すればよいとは考えませんが)


集中から分散の時代への転換点はいつだったのか。それは、日本においてはバブル崩壊であり、世界的にはコロナ禍だったのではないかとおっしゃっていました。日本はバブル期にはニューヨークのロックフェラーセンター買収したりしていた。リゾート施設を全国にばんばん立てるといったことをやっていた。世界的には、ブルジュ・ハリファとか上海・ドバイの高層ビル群とか、これも枚挙に暇がない。

 

しかし、コロナ禍はそこに冷や水を浴びせた。コロナ禍においてさかんに言われた「密」というワード、これが転換の象徴だろうと。集中がいきつくところまでいってしまった。これからは分散の時代なんだと。

 

建築で言うと、空間効率性を最優先に、コンクリートと鉄筋でガチガチに固めるというところから、木を使う、適度に疎がある、空間を通じて街や風景と建物がつながるというところへの変化。光、暖かさ、風通し、木漏れ日、自然なカラフル、職人の技術なといったところに、重視されるものが変わってきているのではないかという。

 

経済がこれ以上成長せず、少子高齢化していく時代。イケイケドンドンではなくて、どことなく寂しい時代に、ちょっと何となく幸せになれる、そんなものが人間の心を捉える時代になったんじゃないかという話はとても頷けるものでした。

 

僕としては、こういう考え方って日本だけなんじゃないか?世界はまだこれから豊かになっていく人がたくさんいるわけで、こういう縮小均衡な考え方はガラパゴスなんじゃないの?と思っていました。

 

けれども、隈さん曰く、こういうコンセプトがまさにアメリカ、欧州、そして驚くことに中国でも、好評を博しているんだそうだ。そして隈研吾デザインの建築物があちこちに生まれているんだそうだ。

 

小さいもの、移動できるもの、いろんな人を受け入れる、それがこれからの時代。このコンセプトは日本独自ではなくて、世界に受けるものだと。「分散の時代、日本人は主役になれる」、だから自信を持って発信したほうがいいと何度もおっしゃっていましたね。そう、ウォシュレットとかアニメとかラーメンでジャパンクールみたいな勘違いではなく、また右寄りな人たちみたいな勘違いではない意味でね。

 

じゃ何で日本は集中があんまり根付かなかったんだろうねという話もありました。隈さん曰く、日本は山谷多くてなかなか奥地に入っていけなかった、自然を丸裸にはできなかった。そういう条件の中で、自然と人間との距離が近いままだったんじゃないかとおっしゃっていましたね。京都なども、もちろん中国の都を日本に持ってきたつもりなのだけれど、なぜか中国を持ってきても京都は中国のような都にはならなかった。日本や日本人には、分散の遺伝子があるんじゃないかという話でした。

 

前回の講演会では面白くなかった質疑応答も、今回は面白かったですね。建築系の学生さんからの質問が多かったです。やはり通常知らない分野の人の発言は面白いと思う。

 

建築を学ぶにいい場所ってどこ?という質問に対して「実物をみるのがいいよ」は想定内だったのですが、「友達と旅行する、お互いに知っていることを自慢する、お互いに教え合う、そして喧嘩する」、これがいいというのは面白かったですね。お互いの感想を語り合うようにすると、見るという勉強に加えて、言語能力、言語化する力が磨かれるというんですね。


建築も言語能力がすごく大事だっていうんです。けれども、それをするには友達と旅行する、歴史的な建物勉強するときにも、友達と一緒に行くのがいいって。確かに、普通の旅行でも、ちょっと違う人と行くと、その人の感性から勉強させてもらうことがあったりしますね。


それから、「木の暖かさ」ってものは人類共通に感じられるのではないかという話も面白かった。なぜなら、人類は木の上に住んでいたからだと。人間は、絶えず木の質感、弾力性を感じてきたし、木に対しては懐かしい感じは持っているのではと。しかし、日本人と海外の人では、木をボルトで留めるか留めないかという大きな違いがあるんだそう。

他、「ふだん街のどこを見ているんですか?」という質問に対しては、「街を自分の足で歩くことでテクスチャを拾っている」と。テクスチャ、光の入り、街の関係、音・・・こういったものを自分の体をフィルタにして感じるんだそうです。街の人と友達になることで、ネットで分からない本音のようなものを街の人から聞いたりもするんだとか。それが街づくりで一番大事なことであり、そこからデザインが出てくるんだよ、という話でした。
 

エリアマネジメントできているといっても実は考える側が勝手に考えただけであって、実際にそこに住む人たちと離れてしまっているものもあるんだとか。どういう人間が入ってくるかということも考えられていなかったりも。だから、全方位的に、いろいろなところに目配りをして、街をつくっていくことが必要だという話でした。
 

今回の講演会を聴きながら、いろいろなことを考えさせられましたですね・・・。

 

集中に向かっていった歴史が、2000年頃を境に世界的に行き詰った。日本においてはバブル崩壊、2011年の震災などがターニングポイントでしょうし、海外においてもコロナ禍、あるいは地球温暖化かもしれませんね。

 

これはたぶん建築だけの話ではなくて、近代文明とか近代科学、近代社会の行き詰まりとも呼応するんじゃないですかね。どちらが鶏でどちらが卵かは分かりませんが、こういうものから建物空間ひいては人間社会やコミュニケーションのあり方もまた見直しを受けているのが現代なんじゃないかと思われます。

 

建物の側がこのように変わっていく。そうなると、今度気になるのは人間同士のコミュニケーションの方ですよね。建物は、隈さんのようなデザイナーの方が新しい考え方で世に送り出されていくわけですが、人間同士のコミュニケーションというのはなかなかリデザインされていないように感じます。

 

集中の時代、成長の時代、人は都市に住んだ。核家族でオフィスと家とを往復するだけになった。気づいたら単身の人も多くなって、人間的なふれあいの場というのは本当になくなった。個人はすんごくバラバラ。これが行きついたのが今なわけですが、それをリデザインする人は誰なんだろうか。あくまで個々人なんだろうか。

 

人が集まる場所、交流する場所、コミュニティってよく言うけれど、居心地のいいコミュニティを探すのは非常に難しく感じる。欲しい欲しいと思い続けて久しいが、未だに得られているとはいいがたい。

 

自分の場合は家族親戚以外でなかなか友人も多くない。会社の人たちは一緒に過ごす時間こそ長いですが、今の時代は会社の人と人間的に付き合うということは排除される傾向にあり、それ以上を求めないのが当たり前になってもいるし・・・。

 

ネットでいろんな人とつながるといっても、上から目線の人やら、陰謀論にまみれた人とか、変な人がたくさんいて、気持ちよく交流できる人を見つけるのは簡単でない。気の合う人を見つけて、その空間に気持ちよくいられる、それは場のデザインなのか個人として相手と交流する話法の問題なのか。どっちもあるような気はするが。人間関係やコミュニケーションのデザインには、僕もすんごく飢えています。

 

何はともあれ、今度東京に行ったら隈さんのデザインを尋ねてみよう。同好の士を見つける方はまあまだ課題であり続けるだろう・・・。