2章 : <魔拂閣の>澪 1
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
:谷川俊太郎
>
八束隊のおにーさんたちは、
「逃げて帰ってくるんじゃないぞ」
「帰りたくなっても、そうそう帰ってこれる距離じゃないからなあー」
あはははと、「くらっかぁ」を鳴らし、玄関口まで、全員総出で見送ってくれたけど、いくらなんでも『西側』が、ここまで遠いとは思わなかった。
電車とバスを乗り継いで、飛行場から「じゃんぼじぇっと」で十時間ぐらい。
差配のおじさまが何度も何度も手荷物とチケットを確認して、「移動中は眠った方がいいよ。水分はしっかり取るんだよ」と、キャンデーも一箱くれたので、到着しても、全然疲れたとかそういうのはなかったんだけど、そこからあと二回、小さな飛行機に乗り換えて、地下を走る電車に乗って、幌のついたバスに乗って、ロバさんの引っぱる小舟に乗って、谷を抜け、森を走って……
「どうですか、新しい学校の感想は?」
とても綺麗なお兄さんが、銀縁の知的な眼鏡の奥から、にっこり優しく微笑んだ。
青い屋根の校舎を背景に、水色の髪がきらきらと、朝の太陽に輝いている。
片手を大きく、前方へ差し出しているから、やっぱりそっちを見なくちゃいけないんだろうなあ……。
「あ……。ステキだと……思います。私、ずっとずっと、こういう学校に行ってみたいと思ってたんです!」
澪はとっさにウソをついた。
本当はさっきからガンガンと、「危ないよセンサー」が頭の中で鳴り響いている。
さらにいうとこの森に、入る直前から気付いてはいたのだ。
この「学校」は、普通の子供の行く学校じゃない。
確かに、総主は、
「澪と同じような能力者の行く学校だよ。不思議なモノもいっぱいあると思うけど、気にしちゃダメだよ」
と言ってくれたけど、これじゃあ、まるで――
「……事務長さんで、<七番番頭の>ヴァレリーさん……」
「ヴァレリーでいいですよ?」
「ヴァレリーさん……」
澪は、何度も何度も、一月の青空に目をこらしながら、スースーする短いスカートのすそを押さえつけて、
「どうしてここには……。その……。いろんな……」
渇いた喉を、ぎゅっと鳴らし、
「人間の霊が、たくさん……浮かんでいるんですか?」
「――はい?」
<七番番頭の>ヴァレリーさんは、世にも珍しい新種のカエルを見つけちゃったぞ? というような顔をして、まじまじ澪を見返した。
質問してしまってから、急に、澪も我に返る。
(そうか、番頭さんには『見えて』ないんだ!)
「あのっ!」
「ミス・日野寺」
互いに同時に声を発し、二人はぎょっと黙り込む。
気まずい沈黙が一瞬流れ、
「……お先にどうぞ。ミス日野寺」
気を取り直し、先に持ち前の、折り目正しい姿勢に戻ったのは<七番番頭>の方だった。
「わたしに何か」
「いえ」
澪も慌てて、訂正する。
「何でもないんです。ただちょっと、時計塔や窓の装飾が、あんまりきらびやかだったから、つい……」
「そうですか?」
怪訝そうに、背の高い<番頭>が、澪の顔を覗き込む。
目が合うと、完全武装な知性と理性だけで作られていそうだった白皙の顔には――
今や、澪に対する、深い気遣いが溢れていた。
この人が「事務長」ではなく、学院の「番頭」と呼ばれたり「執事」と呼ばれたりしているのが、今ならなんとなく分かるような気がした。
澪はちょっと恥ずかしくなって、しかし視線はどうしても外せないまま、
「何でもないです……」
消え入るような声で、小さく呟く。
<番頭>は、それ以上は何も聞かなかった。
ただ最後まで澪の様子が気がかりだったようで、しばらくは澪を見つめたまま、ゆっくりとかがめた膝を戻し、
「何かあったら、事務長室に来てくださいね。理事長室の隣にありますから。わたしでできることなら、なんでもお手伝いしますよ」
そう言いつつ、校舎の鋼鉄の扉に手を押し当てた。
1章 : みおちゃんレンタルされるよー 7
>
「――逃げきれますかね。あいつは」
沈痛な面もちで、八束はぽつり、と呟いた。
閉めきった薄暗い室内に、障子から薄明かりが差し込んでいる。
澪が出ていくと、広間は唐突に、静まり返った。
光の中に浮かんだわずかな埃をぼんやりと目で追いかけながら、八束は無意識に、軒先を打つ雨だれの音に耳を澄ましていた。
「……逃げきらせなければならないでしょう」
薄暗がりの中から総主が返す。能面のように感情のない声だ。
「ここから先は、わたしたちは手を出せない」
「しかしせめて、誰か供をつけてやるわけには――」
「それは無理だと言ったはずです」
総主は短く、言葉を切った。
「何者にもあの子が、この里を離れたことを気取られてはならないのです。里の者たちにも、上層部にも。まだあの子は尾備の里の、守備隊の内部にいるのだと――そう思わせておかねばなりません。あの子を狙う者たちはそれだけで、慎重に事を運ぼうとするでしょうし、それが時間かせぎにもなるでしょう。そのためにも、一人きりでそっと……何も知らぬまま……あの子は里を離れねばならない。わたしたちの下らぬ諍(いさか)いに巻き込まれないようにするために」
澪が狙われている――
そのことを八束が知らされたのは、ほんの二日前のことだった。
情報収集を任務とする守備隊の差配役が探り出したところによると、表沙汰にはなっていないが、不穏な、澪をつけ狙う一派がある。そしてその流れは、とても根深く、複雑なもので……
一度表に出てきたが最後、確実に大きな戦(いくさ)となる。
戦いは熾烈で、過酷なものとなるだろう。
しかもこの戦いは、誰が勝ったとしても、澪を苦しめるだけの結末にしかならない。
それは八束たちが勝利したとしても同じだ。
そんな戦いに、澪を立ち会わせるわけにはいかない。
「……八束」
隊長の思いつめた様子に気付いたのだろうか、総主の喉から絞りだすようなかすれ声が漏れた。
奇妙に低い声が、時間が凝固したかのような重苦しい天井に響く。
「……今度はわたしたちが、あの子を守る番なのですよ」
上層部にすら秘密にしておいた、西側との「契約」。
そして秘密の「進学」。
澪は自分に与えられたそれらの任務に、疑いなど全く抱いてはいないだろう。
自分を育ててくれた人たちが自分を騙しているなどとは、考えてもみないだろう。
澪は彼らを、心の底から慕い、信じきっているのだ。
しかし、それでも、
「あの子を決して、この里に戻してはなりません」
頭巾の縁を震わせ、強い口調で総主は続けた。
「次はわたしたちがあの子を守るのです。焼け滅んだ村から抱えられ逃げてきたあの子が、大きくなってもわたしたちを信頼してくれて、いつでも力の限り、この神社と里と山々を守ろうとしてくれたように。……最後まで、勘づかれるようなことがあってはなりませんよ。勘のいい子です。そして必要以上に自分を抑えて、わたしたちのために尽くそうとしてくれる子です……もしも自分のために戦が起こり、仲間たちが傷つくはめになったと知ってしまったら、最後……」
あの子は責任を感じて、最悪の事態を招いてしまうかもしれませんからね。
最後の言葉はくぐもり、強まった雨脚の中に、かすれて消えた。
あとは。置物のように沈黙した総主が呟く。
「あとは……あの子自身が、己の力と運で、自分の未来を切り開いていくのです」
1章 : みおちゃんレンタルされるよー 6
八束は白い歯を見せて、にいっ、と笑い、
「入隊試験に受かって間もないお前に、いち早くお役目が授けられたんだ。奴ら、それが嬉しいんだろう」
飛んできた高下駄を片手で払いのけ、素早く奥の座敷へ投げ返した。
そして顎をしゃくり、困ったように、
「……そういう奴らだ」
澪もつられ、まぶしそうに目を細め、にっこり笑う。
「隊長っ」
「ん? なんだ」
「あのね、私……」
すぐ隣では、まだ青年たちが畳の上でとっくみあいを続けていた。調子のいい隊員たちが、周りから無責任なヤジを飛ばす。
それはとても幸せそうで――澪にとっては、いつもキラキラと輝いている風景に見えて、
「私、向こうに行っても頑張るから……!」
力いっぱい全身で、思いのたけを隊長に告げた。
百年抱えた心の秘密を、ついに大切な人に打ち明けるかのように、 息を継ぎ、頬を紅潮させ顔をはね上げて、
「頑張って、たくさん修行してくるからっ!」
「うんうん、そうだね」
隊長は照れたように笑い、袖から両腕を引き抜くと、その小さな頭に手を伸ばした。
今だに似合わない紋付きの黒羽織を着て、紺色の長い髪を後頭部でまとめた小さな少女が、今、真剣に八束を見上げている。
八束はしばらくまじまじと、この見慣れた、小さな女の子を見つめ直した。
「いっぱい頑張っておいで。たくさん修行をして、たくさん勉強して、お前の『契約』を……しっかり果たしてくるといい」
そしていつものように少々手荒な力加減で、ぐりぐりなぜる。
大きくて厚みのある、どっしりとした手のひらだ。
頭をなぜてやると、澪はいつも、うとうとし始める。
「それが今度の――お前の任務だ」
隊の羽織は大事に預かっておいてやるから。
そう言って、八束は澪を覗き込み……必死に眠りに抵抗しようとしている少女に気付いて、楽しそうな笑みを浮かべた。
八束は喧噪の中、なおも低い声のままで、
「いつでも帰ってくるといい。お前は尾備山の日野寺の子だ。俺たち、守備隊が育てたようなもんだ。だから帰ってくるといい。だけど……あんまり強くなるなよ?」
そう付け足すと、眠りかけていた澪が驚いたように額を上げた。紺色の澄み切った瞳の奥に、八束の姿が映り込む。
八束は幅広の肩を揺すり、クククッ、と皮肉げな笑い声をたてて、
「お前が強くなりすぎると、オレの立場が危ういからな」
本気だぞ、と急に真面目な口調になって、眉をつり上げる。
それが冗談だときちんと分かっている澪も、こぼれるような笑顔になった。
「頑張ってくる」
「うん。頑張ってくるといいよ」
八束はもう一度、澪の髪に手を置いた。
「……いっぱい頑張ってくる」
頭をなぜられながら、澪は長いまつげを上げ、じっと隊長の顔を見返した。
そして互いの視線が触れ合うと、互いに首を傾げたまま、最上の笑顔で朗らかに笑った。