2章 : <魔拂閣の>澪 7
クロティルドの気持ちはよく分かる。
澪だって。どうして自分がここにいるのか、実は今でも、よく分からないのだから。
けれども澪は持ち前の、なんとも緊張感のない声で、
「だいじょーぶだよ」
ほのぼのと、眠気を誘う表情で微笑んだ。
「私、うまくやっていけそーな気がしてるから」
「なぜ!?」
今度はクロティルドがびっくりした。
探るような瞳で見返す。白い頬が、興奮で紅く染まった。
「あのゼルペンティーナさん、なのよっ!? 校舎は破壊する、上級生も先生もおかまいなしに、ケガさせる。誰も手が出せないでいるの! どうしてあなたが……っ!」
言いかけてクロティルドは、はっと両手で口を塞いだ。
忘れてた! という顔で、大きく目を見開き、我知らず後ずさる。
「あなた……<魔拂閣>……だから……なの、ね……??」
澪は困った顔で、クラスメイトを見返した。
<魔拂閣の>と呼ばれても、澪にはもう、どうしようもないのだ。
その名に隠された大きな意味と釣り合わない表情で、澪は少し、心細げに呟く。
「有名なんだね……魔拂閣って……」
「<コンドラーチー>の名前を知らない人間なんて、ヨーロッパ大陸にはいないわっ!」
自分の領地に入ってきた盗賊に反発するかのような勢いで、少女は憎々しげに声を振り絞った。
「奴らは、私の家族を破滅させたのよっ……!? パパもおじいさんもおばさんも、そのずーっと前の先祖たちも、あの死神たちのせいで何もかもを失ったの! 国土はずたずたにされて、何もかも奪い盗られて! みんな一夜で故郷から逃げなくちゃならなくなったわ! なのに奴らはシベリアに逃げて、その後、中国にまで……! ……卑怯者っ! 売国奴っ!」
「でもねっ」
澪はこれだけは分かってほしい、という思いを込めて、隣にもう一度すり寄る。
「魔拂閣はもう――無くなったんだよ?」
「知ってるわ!」
クロティルドは澪をキッと見返した。
「魔拂閣(コンドラーチー)はもう、無くなった……。あなたが……滅ぼしたのよ……。そうなんでしょ……??」
その瞳は怒りに燃えていたが、同時に深く、哀しみに潤んでいた。
2章 : <魔拂閣の>澪 6
クロティルドは思った通り、とても責任感の強い女の子だった。
肩の上で直線に切り揃えた白い髪が、彼女の決意を表しているように見える。
「授業さえ始まれば、騒ぎは起こらなくなるわ。そのはず、なんだけど……」
続けようとして、クロティルドはきゃっ! と、耳を覆った。
中庭の向こう側から、男子生徒が両腕を振り上げ、こちらに向かって大声で威嚇してきたのだ。
澄み切った回廊の美観が台無しになるぐらいの、聞くに耐えない汚らしい言葉の連発で、両目は血走り、今にも、手すりを乗り越えんばかりの勢いで叫んでいる。
もちろん標的は澪だ。
クロティルドを威嚇しようとしたわけではない。
「クロちゃんっ?」
「……っ、だいじょうぶ……」
しかし気が抜けたようによろけた少女は、力なく、大理石の床に崩れ落ちてしまった。
(んんんん……)
澪は珍しく眉をひそめ、そして困った顔でゆっくりと、ガラスの回廊を振り返る。
男子生徒は罵詈雑言に飽きたのか、それともそれ以上の行動に移る勇気もないのか、今は回廊の上で、同級生たちと互いに何か、激しく罵り合っている。
澪は音もなく、一歩、足を踏み出そうとして――
「違うの……っ!!」
しかしそれよりも早く、背後からクロティルドの声が飛んだ。
「みんな過敏になっているの、恐れているのよ……」
だからやめて、と嘆願するような声だ。
「この学校は変わってしまったの。ゼルペンティーナさんが来てから、すっかり」
「ティーナさんって……」
「さっきの女の子のことよ」
疲れきったかすれ声で呟き、クロティルドは感情をこらえるように、小さく何度も首を振った。
「たった一週間よ。この一週間で、なにもかも、変わってしまった……」
男子生徒たちの耳をつんざく奇声が、透明の中庭いっぱいに響いている。
しかし澪はもう、それらを気にする素振りも見せなかった。
スカートのひだを正しながら、自然な動作でクロティルドの隣に腰を下ろす。
「……ここに入学する子たちは……」
話しかけるというよりは独り言のように、クロティルドは震える声で言葉をつなぐ。
「魔を狩る世界中の組織や集団から選ばれた、優秀で見込みのある、能力者や術者の卵たちばかりだから……みんな自分の腕前には、すごく自信を持っているの。故郷の技を代表してる自負みたいなのもあると思う。だから毎日、『誰が一番強いのか』みたいな、下らないケンカばっかりしてた。なのに、あの人……」
ボブカットの白い毛束が、震える少女の横顔を覆っている。
クロティルドは額を、膝へ押しつけた。
「あの人……先生たちは、「要(かなめ)さま」って呼んでるわ……。ゼルペンティーナさんが来てから、学校中がすくみ上がってしまったの。どんなに威張り散らしてた人たちも、あの人には逆らえない。みんなあの人を怖がってる。怯えてる」
いたたまれないぐらいクロティルドの背中が小さくなって、隣にいる澪にも、急に彼女の恐怖が伝わってきた。
クロティルドが震えている。
「……怖いわ……」
「……クロちゃん」
「どうして私、こんな所にいるのかしらって、すごく思うの。どうして、私、こんなクラスの学級委員長なのかしら、って。こんな怖い場所、私はここ以外知らないわ、本当はこんな所に来るはずじゃなかったのに、こんな所にいるはずじゃないのに、どうして……!」
急に声を荒げたクロティルドを、澪は傍で、じっと見守っていた。「クロちゃん……」
2章 : <魔拂閣の>澪 5
電球の切れかけたメンテナンス用通路をくぐり、どうにかこうにか、足に絡んだコードの束を払いのけると、そこは――
「……!」
なんと言い表せばいいのだろう。目を疑うような光景が広がっていた。
光の降り注ぐ、ガラスの円い大庭園だ。
正面にはガラスの手すりの大階段。
階段を登り切ったところには、ガラスの格子戸の大広間があり、その入り口には、しなやかな身体のブロンズ像。
金の葡萄が絡みついたアーチ。
緑色の炎を灯す、宝石で飾られた象牙のランプ。
光り輝く回廊が、左右へ伸びやかに、どこまでも翼を広げている。
談笑する、大勢の学生たちの足元で、一つ目の小猿がアンズの種をかじり、コウモリの羽根をつけたバッタが、思い出したように宙を飛び交っている。尾にも顔がある巨大なトカゲが、のっそり、澪の革靴へ這い昇ってきた。
しかし、トカゲの生暖かさも気にならないほど、そこは現実とは思えないほどの、透明な光に包まれた中庭だった。
なによりこの――光の量!
吹き抜けになった中庭の頭上には、円く切り取られた、一月の青空が見えていた。
小さなちぎれ雲が、ゆっくりと風に流されていく。
しかし、中庭に降り注ぐ光は、一月の光ではない。
白く、神聖な――
何か学校の外側とは違った、不思議な感覚が漂っている。
それはひょっとすると、あの巨大な一本の、古い植え込み。
庭園中央にそびえ立つ、巨大なブナの老樹のためなのかもしれない――
「……あの……」
背後から声をかけられて、澪はやっと我に返った。慌てて振り返る。
「さっきは危ないとこ、助かっちゃった。ありがとー」
「!」
ほんわか笑顔で言ったつもりだったのだが、それは予想以上に、少女を怯えさせただけにすぎなかった。
白い髪の大人しそうな少女は転びそうな勢いで二、三歩後ろにたたらを踏む。
表情はすっかり泣き出しそうだ。
「……あ……あの……私……っ!」
かといって。他の生徒たちのように逃げ出すわけでもないようだった。
澪には分からないが、かなりの諸事情が少女の中で渦巻いていたのだ。
シャツの赤いリボンを強くにぎりしめ、恐怖と躊躇に揺れ動く胸を押さえて、
「私……」
だが――
やがて、何かが、彼女の中で押し勝ったのに違いない。
眉を震わせ、少女はゆっくりと薄いまぶたを開き、
「私……クロティルドって言います。なぜだか分からないけど、クラスの学級委員をしていて……」
覚悟を決めたように、
「クラスの子を助けてくれてありがとう」
そう言って、両手をスカートの前で重ね、深く、丁寧に頭を下げた。
「クロティルド……」
「クロって呼ばれています」
その声はまだ恐怖に震え、とても聞き取りにくかった。
しかし澪には分かった。
(クロちゃんはきっと、責任感の強い人なんだなあ……)
澪は頬をほころばせ、小さく左右に首を振り、
「ううん。……それより」
ふいに心配になって、自分たちが抜けてきた小さなドアに視線を向ける。
「あの男の子……ケガは、無かったのかな?」
注意をそらした隙に、あの男の子は他の生徒たちによって、安全な場所に連れていかれたはずだった。
しかし、いくらなんでも、壁ごと吹き飛ばすとはひどすぎる。
気配に振り返ると、驚いたような目が、今はしっかりと澪を見返した瞬間だった。
白銀の、雪が降り積もる冬の湖のような瞳だった。
その瞳が、一瞬、はにかんだような表情を見せて、
「……大丈夫。それだけは」
今度は明らかに、澪に向かって微笑みを見せた。
自分でも、どうにも抑えようのできない笑みらしかった。
「私、みお」
その不思議な笑みにつられ、澪も小さく笑って、片手を差し出す。