3章 : 大きなノッポの鳩時計 6
――二ヶ月前。
マリーナに初めて出会った時、澪は本気で泣きそうになっていた。
どう楽天的に考えても、澪は迷子になっていたのだ。
トランク一つを抱えたまま、澪は心細くて悲しくて、なによりこれからどうすればいいのか分からなくて、心底、泣きそうになっていた。
しかも異国の地で。
夕焼け空が、急速に薄れていく。
船乗りたちや乗客たち、土産物屋の売り子たちでさえ、とっくの昔に家へ帰ったようだった。
人気のなくなった夕暮れの港。
11月の冷たい風が吹いて、鉄線がびょうびょうと悲しげな音をたてている。
見渡しても、どこにも人家の影は見えない。
頭上に張り巡らされた鉄線に、わずかに幾つかのランプがぶら下がり、白い光を放っているだけだ。
どうして案内人のおばさんが、澪を船に乗せたところで消えてしまったのか、澪には理解不能だった。
飛行機に乗り日本を離れ、幾つかの電車とバスを乗り継いだところまでは順調だった。髪にパーマをあてた気の良い案内人のおばさんは、あちこちのショッピングモールで大量の買い物をした。モノレールに乗った。ほかほかの蒸しパンをくれた。そして澪を船に乗せて――
消えてしまったのだ。
なんの予告もなしに。
この後どうすればいいのか。
どこで降りればいいのか。
一言も、言い残すことなく!
慌てふためき必死になって、おばさんの小さな姿を船内に探すより他に、澪には何ができただろう。
おばさんの丸い背中を。特徴のある歩き方を。だが、どんなに探しても、見覚えのあるあのおばさんは、どこにも見つけることができなかった。
それからの澪は足早に、船上で出会う人たちに片っ端から聞いて回った。
「セラフィーマ学院に行くには、どこの港で降りればいいんでしょうか?」
しかし誰も、その問いに答えてはくれなかった。
澪は辛抱強く、丁寧に、何度も何度も問いを繰り返した。
新しい港に着く度、降りるべきなのか尋ねてまわり、乗客にうるさがられた。
そして気が付けば、船員にせっつかれるようにして船旅の終着、小さな波止場に、澪は降りてしまっていたのだ。
寒空の下、港の入り口で、澪はじっとトランクを抱えて立っていた。
そして何度か通りすがる町人に、あの問いを繰り返すうち、澪にもようやく、一つのことが分かってきた。
言葉が全く通じていないのだと。
自分の日本語は、ここでは通じないのだと。
だから誰も、自分の問いに答えてはくれないのだと。
どうしよう――
夜風は日が落ちたと同時に、ぐっと冷たさを増している。
――どうしよう――
コートの肩が、とても寒かった。
泣いていてもどうしようもないことは、分かっている。
なんとか、しなくちゃいけない。
3章 : 大きなノッポの鳩時計 5
「タコさん!」
澪は自分のことも忘れ、真鍮の手すりへ身を乗り出した。
が、灼熱の蒸気は容赦なく、澪の頬を焼く。
「あつっっ!!」
「弱りましたわー。ここの悪魔紋章では、お客さんもまともにご招待できませんのね」
しかしその時、冗談のような、柔らかい声が響いてきた。
なめらかな、大人の女性の声。
荒れ果てたどんな空間をも、豊かな演劇の舞台に変えてしまう、光沢のあるビロードの声。
その声は弱った弱ったと言いながら、ちっとも弱っていないように聞こえる。
目にもとまらぬ速度で、澪が瞬時に背後を振り返った時には、澪の頬は、白手袋の手にすっぽりと包まれてしまっている。
神々しいばかりの気品に包まれた、絶世の美女。
背筋はまっすぐに伸びて安定し、白銀の髪は後頭部で束ねられ、体のラインがくっきりと表れる濃紺のシフォンドレスは、裾が長く木目の床の上に広がっている。
レースで飾った胸元には、不思議な文様のブローチが留められていた。
左目の下には二つ、小さな泣きほくろがある。
女は、長いまつげに隠された細い目を、瞳孔が見えないほど細くして、
「困りましたわねー。かなめに頼まないと、もう何もかもが故障してばかりですの。あなたもそう、思いませんこと?」
「理事長さん……? あのっ、マリーナ理事長っ?」
澪は思わず声を上げた。
マリーナは、その重要な肩書きとは不釣り合いなほど、ほのぼのとした、花びらが舞うような笑みを浮かべて、
「雷で撃ち殺さないで下さいましたでしょ。感謝しておりますのー」
マリーナがふんわり微笑むだけで、とても好い香りが漂った。
澪は頬を赤らめて、うっとりする。
いつの間に移動したのか、澪の頬を包んでいたはずのマリーナの指が、澪さえ気付かないうちに、今は左右のこめかみを包んでいる。こめかみに触れる指先は、ひな鳥を包むかのような優しさで、繊細なピアノを調律するかのような、柔らかさだ。
澪は自分でも分かるぐらいどぎまぎして、しどろもどろに言葉に詰まりながら、
「それは……雷を使ったらタコさんだけじゃなく、学校まで破壊されちゃうから――」
「はぁい」
けれど理事長は、なにもかも分かってますから、というように首を振って、やんわりと澪の言葉を遮った。それは実のお姉さんのような、親しみのある微笑だった。なぜか他人とは思えないような。
そしてマリーナは、なおもどぎまぎしている澪の額を、自分の方へと向かせ、細い目をいっそう細くすると、
「私の言っていること……分かりますー?」
茶目っ気を込めたような口調で、囁いた。
3章 : 大きなノッポの鳩時計 4
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「ねえ、タコさん……もうこのへんでよそうよぉー」
口ぶりこそのんびりしていたが、もうかれこれ二十分は、巨大タコと追っかけっこを続けている。
普通の女の子ならとっくにヘタばっている運動量だが、澪は違う。
少女とは思えない脚力と跳力で逃げ回りながら、汗もかかず、息切れひとつしていない。
林立する柱時計のガラスに映る澪の体は細く、華奢に見えるが、それは表向きだけで、元々の鍛え方がまるで違うのだ。
理事長室へと続くはずの廊下は、柱時計と天使像が代わる代わる並び、博物館のような知的な雰囲気を漂わせていたが、奇妙なことに、どこまで行っても真っ直ぐで、脇道一つ、扉一つ、見えなかった。
二階の天使像の膝に着地点を求めると、たたき落とそうとしていたタコの触手から、澪はぎりぎりのタイミングで跳躍した。視界から消失した澪を追って、タコは触手を止めようとしたがすでに遅い。触手の端がかすっただけで、像は豪快な音を立てて崩れ落ち、ゴシック様式だかルネサンス様式だかよく分からない、パズルのような組み木細工の床に、これも派手な音をたてて突き刺さる。
「水生木……水気は木気を助く。だから」
震(しん)を呼び出しちゃえば、タコさんの動きも止めれるんだけどなあ。
震とはつまり雷だ。五行でいう「木気」の震は、本来、「水気」と仲が良い。木気と水気は互いに助け合うことがあっても、互いに相殺しあうことは難しい。だが、片方が圧倒的な破壊力を持っていれば話は別だ。
おそらく「水気」の妖怪であろうこの巨大タコも、尋常ではない量の「木気」なら撃ち砕ける。
そして、木気の術を、なによりも得意とする澪の能力なら、それぐらいのことは朝飯前だった。
だが、「タコさんっ!」
澪を見失い、右往左往している巨大タコの背後、階上廊で大声を上げ、澪は立ち塞がった。
タコは声に反応し、見当違いの方向に巻き付かせていた触手を全て、その巨大な体に似合わない敏速な動きで回収する。
しかし、そのぎょろりとした大きな目は、澪の背丈ほどの直径もあるのに、あまり視力は良くないらしい。巨大な頭は、澪の方向へ振り向いているというのに、まだ触手の攻撃がない。きっと本当なら、深海の闇の奥深くで、悠々と暮らしているはずの妖怪なのだろう。そう思うと、こんな明るいガラスの通路で、追っかけっこをさせられているのが、とても可哀想だ。
ぬばたまのような黒々とした眼球が、ようやく澪を認識した。その瞬間には、澪の眼前で風が唸って、轟音と共に、砂岩の壁が爆ぜ割れる。
粉塵で視界が真っ白になる。
巨大タコの渾身の触手が、さっきまで澪の頭があった位置に、ドリルのように突き刺さったのだ。タコの敏捷さは予想してたが、それにしても、認識から攻撃に転じる速度が速すぎる。
「やっぱり……それだけじゃ駄目なんだー」澪は粉塵を見上げ、くるり、と踵を返しながら、かなり情けない声を上げた。
だが、
「そのまま、じっとしてて!」
タコへ向けて警告を発し、スカートから伸びたまっすぐな脚で――見る人が見れば、一分の無駄もなく筋肉で強化されつくしたと分かる脚で、鋭く、「!」頭上に今や落ちんとする巨大な一枚壁を、階下へと蹴り落とした。
灰色の一枚壁は、タコの目玉すれすれの床に、木片を撒き散らして、突き刺さる。
「木剋土……木気は土気を剋す……っ!」
そして間髪入れず、長い髪を揺らしながら、鋭く壁に突きを入れる。
それは五行の術ではなく澪自身の拳、そのものだったが、「よぉーし」何かを確信したような小微笑の後には、あっけないほど簡単に穴が空いた。
ばっくりと穴のあいた石壁から、外界の薄い光が差し込む。
その刹那、廊下にかかっていた、デッドループ(無限回廊)の呪縛が解けたのだ。