南域結界☆ ジェルソミーナ -225ページ目

3章 : 大きなノッポの鳩時計  9


 ぐエッ!! というヒキガエルを叩き潰したような声が、地響きと同時に起こったのも、その瞬間だった。
 凄まじい激突音が、凍てついた夜空に反響し、
「……」
 聞いたこともないふんわりとした軽い音が、「この状況とは無関係ですからー」と微笑むように、おっとり、のんびり、背後から澪の耳たぶをくすぐる。
 月と戯れる紙風船のような、軽やかさだ。
 視界に光がわずかに差し込み、それでようやく、澪は気がついた。
 街灯もない、レンガ作りの異国の町。
 誰もいなかったはずの夜の坂道に、突如出現した、大きな荷馬車と馭者。
 それはおとぎ話から抜け出してきたような、まぶしい雰囲気でいっぱいの、女性の馭者だった。
 つばの大きな美しい帽子を斜めにかぶり、縦縞のワンピース、レースのリボン。ピクニックにでも行くようなふわふわの付いたブーツとバスケット。覗いているのはワインのボトルがたくさんと、長いバケットとブロッコリー。片手でロバの手綱を握り、もう片方の手でランプの灯を、額の高さに掲げている。
 そして馭者を乗せているのは、毛並みの良い一頭のロバ。
 それも、やたら威風堂々とした、気位の高そうなロバだった。
 首をまっすぐに起こした姿は異様なまでの迫力を帯び、黒い瞳に輝いている光は、まるで自分が血統の良いサラブレッドだと信じているかのような、誇り高さ。
 もう少し正確に言えば、妙に鼻持ちならない雰囲気の、ロバだ。
 胸元に、トナカイが付けていたら似合いそうな、金色のベルを付けている。
(……これって……。普通の馬車じゃない……よね?)
 澪はドキドキしながらさりげなく、大きな赤い車輪を盗み見た。
 どう見たって……多分、そうだ。
 普通、じゃない。
 故郷を離れてたった一日の間に、澪は自分の世間知らずっぷりを、イヤというほど思い知らされていた。けれど、だからといって――
 馬車は空から、降ってきたりはしないだろう!
(生きている……の、かな……??)
 トランクを奪われたのはとてもビックリしたけれど、空から馬車が落ちてきて押し潰された人は、それ以上にビックリしたはずだ。
 澪はおずおずと、うずたかく積まれた麦穂の山を、それを乗せている頑丈そうな荷台を横目で見やった。
 ロバは何が起こったのか気付いていないのか、それとも知らんぷりを決め込むのが彼の流儀なのか、相変わらず平然とした顔をして、磨き上げられた綺麗なひづめを、石畳の上にコツコツ叩きつけている。
「……」
 声に視線を上げると、美貌の馭者が、にっこり澪に向かって微笑んだところだった。
 薄い唇に人差し指をあて、細い目をいっそう細くする。
「……」
「あの……っ」
 馭者に向け、澪は横に、首を振る。
 突然、思い出してしまったのだ。
 今の、自分の状態を。
 これから自分はどうすべきなのか、全く分からない今の状況を。
 この優しそうなお姉さんなら、自分のことを分かってくれるだろうか。助けてくれるだろうか?
 でもそのためにどうやったら、澪は、今の状況を、説明できるのだろう。
 それも、言葉を使わずに。
 かつ、どうやったら行き先を、このお姉さんに説明できるのだろう。
 ――どうやったら?
 澪は何度も強く、馭者に向け、横に首を振った。
 馭者は穏やかな笑みを崩さなかった。
 笑顔のまま、今度はロバに目を向ける。
 ロバは自然な動作で首を上げた。そして、素直にランプを口で受け取ると、そのまま黒い瞳を、暗がりの先へと向けた。
「……」
 美貌の馭者はにこやかに、澪に向かって手招きする。
 澪は驚いたように硬直したが、しかし結局は、馭者の前へ一歩、踏み出した。
 馭者の腕が伸び、ふんわりと、とてもいい香りがした。
 澪の額に、暖かい指先が触れる。




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3章 : 大きなノッポの鳩時計  8


 ――と、考えたところで。
 澪は思考を停止させた。
 遠く離れた飼い主を心配する子猫のような瞳で、暗い夜空を見上げる。
「狩り人のお兄さんたち、困っちゃうだろうな……」
 ひたむきで、マジメで。任務に誠心誠意、心血を注いでいるような人たち。命を賭けて領域を安定させる八束のお兄さんたちのような人たちが、絶対に、ここでも狩り人を担当しているのに違いない。
 ここの土壌は濁っていない。
 夜空を渡る風の薫りに澱みはなかったし、ましてや悪意ある闇の片鱗など、一切感じられなかった。きっと腕のいい術師がいて、丁寧な調律を行っているのだ。
 なにがなんでもお兄さんたちを困らせるのは、イヤだったのだ。
 小さな町を吹き飛ばすぐらい、澪ならたやすかっただろう。
 騒動を大きくして、狩り人を全集結させることもできただろう。
 でも、力が使えるということと、力を行使するということは、話が全然別だ。
「……おなか……すいちゃった……」
 考えないようにしていたのだけれど、朝から何も食べていない。
 おなかは減ったというよりも、澪の粗忽さを責めるように、ぎゅうぎゅう痛くなってきている。
 お兄さんたちには、なんとしてでも迷惑はかけたくない。けど……
(ここで死んじゃったら、やっぱり迷惑かけちゃうんだろうなあ……)
「うー……」
 ふらり。足は自然に、人間のいそうな方角へと向いた。
 明かりのありそうな方角へ。風の吹きつけない方角へ。
 おなかいっぱい食べれなくてもいい。一晩二晩、眠れなくても構わない。
 ただ、冷たくない場所へ行きたいな。
 今ならちょっぴりなぜあんなに、妖怪や悪鬼が境界線を越えようと頑張ってくるのか分かるような気がした。あったかくて、美味しいものを食べれる領域。穏やかで、危害を加えられることが少ない世界。
 生まれた頃からずっと闇の側で育ってきたはずの澪が、こんなに光を懐かしく想うのは変な感じだった。
 ――ところで。
 澪は気付かなかったが、ずいぶん前から、澪は男に後ろをつけられていた。
 体に似合わない大きなトランクを抱え、しょんぼりしょんぼり夜道を歩く少女など、ひったくりのいい餌食だ。
 男は波止場で澪を見かけてから、一度目は、そしらぬ振りで前を通りすぎ、しばらくしてまだ獲物がそこに突っ立っているのを目にすると、不敵な笑みを口端に浮かべ、澪がおもむろに歩き出したと同時に、その後ろをつけ始めたのだ。なにくわぬ顔をして。
 油断をしていた。
 ちょうど澪が深く深く、溜息をついた瞬間。
 そんな瞬間がくると分かっていたかのような瞬発力で、男はねじ切るように澪の手からトランクを奪い取った。
 完全に力の抜けていた澪は、声をあげるヒマもなかった。
「!」



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3章 : 大きなノッポの鳩時計  7


 言葉が通じないなんて反則だぁ――
 星一つ見えない夜空を見上げ、澪は心細げに呟いた。
 それでも、なんとか。感情を封鎖し、頭の中を、透明にしてみる。
 意識を集中し、打開策を考えてみるのだ。
 迷子になった時。
 考えつくだけでも、目的地へたどり着く方法は二つある。
 一つはまっすぐ、交番に向かうこと。
 けれども言葉の通じない国で。どうすれば交番に辿り着けるのだろう?
 もしも仮に、とても優しい人に出逢えたとして。
 そしてその人が機転を利かし、交番へ澪を連れて行ってくれたとして。
 それでその後――
 澪はどうやったら、お巡りさんに「目的地」のことを説明できるのだろう?
 目的地……セラフィーマ学院は、「狩り人」を養成する学校だ。
 「狩り人」とは地上に棲む大半の人間たちとは違う、特殊な、曰く言い難い、古代からの不思議な力を持った者たちのこと。
 彼らは時には、守り人と呼ばれたり、退魔士と呼ばれたり、澪たちのように守備者と呼ばれたり、西側の世界では、呼応者、覚醒者、暁の使徒、古代魔術師と呼ばれていたりする。
 彼らの呼び名は世界中で違っているが、妖魔を「狩る」という仕事だけは共通だ。そして彼らが、決して一般の人間たちの前には姿を現さないのだということも。
「お巡りさんは学校のこと……知ってるのかなあ……」
 その時点で、すこぶる疑わしかった。
 そもそも狩り人の存在を、「表」の人間には教えてはならないはずだった。
 狩り人は太古の昔から、闇の側、一般の人間の目に見えない位置で、じっと息を潜めている存在だ。
 見るもおぞましいまがまがしき異世界の生物たちは、邪なる闇から地上に這い出ようとする際、必ず地上の、濁った闇の中を通過する。それら悪鬼悪霊、妖魔先触れの類を、「表」に至る境界線の寸前ですみやかに消去、食い止めるのが、彼ら、「狩り人」たちの役割だった。
 里にいた頃の澪も、狩り人の心構えについては再三、しつこいほどの注意を受けたものだ。
 異世界の生物たちに境界を越えさせてはならない。「表」の人間たちが境界を越えてもならない。闇の世界がすぐ足元に迫っていることを、「表」の人間に気取られてはならない。
 光と闇、表と裏。
 互いの平穏と均衡を保つためには、互いの棲み分けを徹底することが重要なのだよと、澪はことあるごとに教えられた。
 だから間違いなく、お巡りさんに学院のことを聞いても、分かってはもらえないのだ。
 知っていても、それはおそらく多分、
「せめて、入学案内だけでも持ってきてたらよかったなあ……」
 学校だから、きっと巨大な構造物なのだろう。広大な敷地をもつ建造物なら、そこがどういったものなのか知らなくても、この地方のお巡りさんの目には止まっていたはずだ。入学案内には建物の写真もあれば、校章も入っている。それを見せればお巡りさんも、澪を学院まで案内してくれたかもしれない。
 澪は体温であたたまってきたトランクを胸に押し当て、目を閉じた。
(……二つ目の方法は……)
 なにがなんでも、「狩り人」との接触を図ること。
 ここの「狩り人」ならきっと、彼らを養成する機関、セラフィーマ学院の場所を知っているに違いない。
 ならどうやって、狩り人と接触すればいいか。
 どうすれば狩り人を、ここに呼び出すことができるか?
 学院の在処を教えてもらえるか?
 その方法は多分、ひとつ――
 この町をまるごと派手に、破壊することだ。
 いやでも狩り人たちは飛んでくるだろう。




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