8 漆黒の門番
ふっ、とレイリは笑って、
「ひとつ教えておいてやろう。これからの参考にするといい。
――『悲しみの悪魔』は昔、王だった。お前と同じ、『魅了』の力で全てを支配した王だった。いいかい、ひとつ教えておいてあげる。そしてなんと、お前の魅了とヤツの魅了は、同じ形の魅了なんだ。「影響の仕方が似ている」なんて、ヤワなもんじゃない。全く同系列の、全く「同じ」魅了の形だ」
「お前はこの力の、正体を知っているのか」
「知っているとも。オブシディアン」
醜悪に歪んだその顔には、先刻までのあどけなさはない。
少女は、声高に叫んで、楽しげに笑った。
「オブシディ……?」
言い慣れない言葉を呟くキーツに、少女は、侮蔑の笑みを浮かべた。
「今の君は、ヤツにすりゃ都合のいい、『道具』だ。君はいくらだって、付け込ませてくれた。指図させてくれた。……自分で判っているか? 今までの人生、お前が考えてきた意思の「何割」が、本当に「自分の考え」だったのか?」
窓から光が、差し込んでいない。
室内は、現実には有り得ない色――灰色に染まっていた。
だが、キーツはそのことには気付かない様子で、まっすぐに虚空を見つめている。
「……ひょっとするとお前の人生、全ての意思が、「ヤツの意思」だったのかもしれないねえ……」
「わたしは……」
虚空を見つめたまま、こぶしを握り締める。
「……悪魔になど、付け込まれたりはしない……。一瞬たりとも、そんなことはなかった。わたしの意思は、わたしの物だ……!」
その強い口調に、レイリは両足を止め、身を乗り出した。
足元に、闇が、重々しく広がっていく。
「わたしは、わたしの意思で、この世界を滅ぼす。奴の指図など受けん。わたしのやり方で……滅ぼす」
「まあ、それもいいだろう」
レイリは軽く、何度もうなずいた。
「だが、お前の心まで乗っ取られるような、ヘマはするなよ」
窓の外で、灰色の並木が大きくうねった。
風の音が、いつもより鈍い。
それで初めて、キーツは周りの、異様な景色に気が付いた。
部屋中が灰色に染まっている。
時計の秒針は動いていない。
扉の前の『木偶』も、呆然とした表情のまま、身動き一つしない。
――この城の、時間が止まっていたのだ。
「これは……いったい……」
「キーツ、分かってるね!」
少女は窓から飛び降り、駆け寄ると、両手を取り、足元から彼の目をじっと見上げた。
「絶対に、自分の「心」を乗っ取られるんじゃないよ!」
風の音が少しずつ速さを帯び、やがていつもの音となった。
手の中の時計が、一瞬のためらいの後、正常な振動を取り戻す。
宰相は、虚空から窓に目を向けた。
柔らかな風に、緑が大きく揺れている。
「宰相閣下。ガービン元帥が、昼食をご一緒に、如何かと……」
目尻を下げて、シトラビンスが微笑んでいる。
キーツは、椅子から立ち上がった。
(やっと君には、悪魔の声が、「声」として聞こえたろ? それは君の心が氷解して、悪魔から離れようとしている証拠なんだ――って言ったって、君には判んないだろうけど。……だから悪魔は焦ってる。ざまあみろってものさ)
スカートをまくり上げて、去り際にレイリは、そう言っていた。
「如何なさいますー?」
「ああ……すぐに行く」
虚ろに答えながら、銀の飾り棚を振り返った。相変わらず、『鏡』にはなんの変化もない。
(わたしは……。誰の、指図も受けない……)
憎しみのこもった目で、宰相は、自分の姿を睨みつけた。
(絶対に……誰の指図も……!)
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「ひとつ教えておいてやろう。これからの参考にするといい。
――『悲しみの悪魔』は昔、王だった。お前と同じ、『魅了』の力で全てを支配した王だった。いいかい、ひとつ教えておいてあげる。そしてなんと、お前の魅了とヤツの魅了は、同じ形の魅了なんだ。「影響の仕方が似ている」なんて、ヤワなもんじゃない。全く同系列の、全く「同じ」魅了の形だ」
「お前はこの力の、正体を知っているのか」
「知っているとも。オブシディアン」
醜悪に歪んだその顔には、先刻までのあどけなさはない。
少女は、声高に叫んで、楽しげに笑った。
「オブシディ……?」
言い慣れない言葉を呟くキーツに、少女は、侮蔑の笑みを浮かべた。
「今の君は、ヤツにすりゃ都合のいい、『道具』だ。君はいくらだって、付け込ませてくれた。指図させてくれた。……自分で判っているか? 今までの人生、お前が考えてきた意思の「何割」が、本当に「自分の考え」だったのか?」
窓から光が、差し込んでいない。
室内は、現実には有り得ない色――灰色に染まっていた。
だが、キーツはそのことには気付かない様子で、まっすぐに虚空を見つめている。
「……ひょっとするとお前の人生、全ての意思が、「ヤツの意思」だったのかもしれないねえ……」
「わたしは……」
虚空を見つめたまま、こぶしを握り締める。
「……悪魔になど、付け込まれたりはしない……。一瞬たりとも、そんなことはなかった。わたしの意思は、わたしの物だ……!」
その強い口調に、レイリは両足を止め、身を乗り出した。
足元に、闇が、重々しく広がっていく。
「わたしは、わたしの意思で、この世界を滅ぼす。奴の指図など受けん。わたしのやり方で……滅ぼす」
「まあ、それもいいだろう」
レイリは軽く、何度もうなずいた。
「だが、お前の心まで乗っ取られるような、ヘマはするなよ」
窓の外で、灰色の並木が大きくうねった。
風の音が、いつもより鈍い。
それで初めて、キーツは周りの、異様な景色に気が付いた。
部屋中が灰色に染まっている。
時計の秒針は動いていない。
扉の前の『木偶』も、呆然とした表情のまま、身動き一つしない。
――この城の、時間が止まっていたのだ。
「これは……いったい……」
「キーツ、分かってるね!」
少女は窓から飛び降り、駆け寄ると、両手を取り、足元から彼の目をじっと見上げた。
「絶対に、自分の「心」を乗っ取られるんじゃないよ!」
風の音が少しずつ速さを帯び、やがていつもの音となった。
手の中の時計が、一瞬のためらいの後、正常な振動を取り戻す。
宰相は、虚空から窓に目を向けた。
柔らかな風に、緑が大きく揺れている。
「宰相閣下。ガービン元帥が、昼食をご一緒に、如何かと……」
目尻を下げて、シトラビンスが微笑んでいる。
キーツは、椅子から立ち上がった。
(やっと君には、悪魔の声が、「声」として聞こえたろ? それは君の心が氷解して、悪魔から離れようとしている証拠なんだ――って言ったって、君には判んないだろうけど。……だから悪魔は焦ってる。ざまあみろってものさ)
スカートをまくり上げて、去り際にレイリは、そう言っていた。
「如何なさいますー?」
「ああ……すぐに行く」
虚ろに答えながら、銀の飾り棚を振り返った。相変わらず、『鏡』にはなんの変化もない。
(わたしは……。誰の、指図も受けない……)
憎しみのこもった目で、宰相は、自分の姿を睨みつけた。
(絶対に……誰の指図も……!)
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7 漆黒の門番
『ころせ』
はっきりと――囁く声が、耳元で聞こえた。
「誰だ!」
彼は、正気に返り、叫ぶ。
誰かが、心の中で、彼を呼んでいる。
誰かが、彼に誘いをかけている。
誰かが……彼に命令する。
『……奴を殺せ……』
思い出せば、この声は、今初めて聞こえてきたものではない。
ずっと前から、ずっと昔から。彼の心に、呼びかけてきたもののような気がする。
そして彼は、その声を怪しむことなく……
その声の、言うがままに従ってきた。
キーツは、入り口に佇むシトラビンスなど気にも留めずに、その声を捜そうと、声を荒げた。
「誰だ! 誰がわたしに指図をしている!」
「悪魔だよ」
高いトーンの無邪気な声が、背後から聞こえた。
振り返ると、窓際に、可愛らしい少女が腰を掛けている。
足をぶらぶらさせ、眼鏡の底から、さも楽しそうにこちらを見上げている。
マチルダの双子の姉、レイリだ。
「悪魔。悲しみの悪魔、南のパスティ・レーン」
とっさに、キーツは、飾り棚の『鏡』を振り返った。
だが、「望んでいた者」の姿は映っていない。
ガラスの窓にも、シャンデリアにも、扉のノブにも、燭台の中にも、見当たらない。
「あの女を出せ!」
だがレイリは、それには答えなかった。
答えずに、なおも、笑みを浮かべたまま、あやすように言った。
「ねえキーツ。気をつけた方がいいよ。よく聞いて……あの悪魔に付け込まれちゃいけない。悪魔は君を、手に入れたがっている。何故か? それはね、この世界を滅ぼすだけの完璧な力を得るためには、君の協力が、どうしても必要なんだ。キーツ、だから悪魔はそうやって……君にそんな風に呼び掛けている。君を味方にするために。邪魔な者を、刈り取っておくために……」
「出て行け!」
「どうしてそう、私を邪険にするかなあ……。私はあなたに、親切にしてるつもりなのに……」
そう言いながらも、薄笑いを浮かべた。
「キーツ。君は思っているはずだ。自分はこんな世界に未練はない。こんな世界がどうなろうと知ったことじゃない。自分を、孤独に追いやった世界など、さっさと滅んでしまえばいい。イリニアとの戦いが始まった。それは君には喜ばしいことだ。悪魔の煽動で、イリニアはパストラルに攻め込んでいる。それはなおさら都合がいい。放っておけば悪魔はパストラルを滅ぼし、イリニアも滅ぼしてくれるだろう。パストラルの素直な民衆は、君が勝利へ導いてくれると確信しているが、君には最初から戦う意思なんて、これっぽっちもない。君はこうして、ここでクッションの利いた椅子に座っているだけ。……君はさぞかし、パストラルを早く滅ぼしてほしいと願っているだろうね」
「……お前……」
「驚いているね、キーツ」
男の反応を楽しむかのように、少女はわざと、いたいけな笑みを浮かべた。
宰相は椅子から、身動きすらできない。
「君は私を……君の言い方だと、無意味な「木偶」だとでも、思っていたかい? いやまあ、確かに。この身は木偶のような存在だが……。だが私は幻だ。夢の中での出来事のように、私の話を聞きなさい」
「お前……人間ではないのだな?」
「お前はどう? 人間か?」
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はっきりと――囁く声が、耳元で聞こえた。
「誰だ!」
彼は、正気に返り、叫ぶ。
誰かが、心の中で、彼を呼んでいる。
誰かが、彼に誘いをかけている。
誰かが……彼に命令する。
『……奴を殺せ……』
思い出せば、この声は、今初めて聞こえてきたものではない。
ずっと前から、ずっと昔から。彼の心に、呼びかけてきたもののような気がする。
そして彼は、その声を怪しむことなく……
その声の、言うがままに従ってきた。
キーツは、入り口に佇むシトラビンスなど気にも留めずに、その声を捜そうと、声を荒げた。
「誰だ! 誰がわたしに指図をしている!」
「悪魔だよ」
高いトーンの無邪気な声が、背後から聞こえた。
振り返ると、窓際に、可愛らしい少女が腰を掛けている。
足をぶらぶらさせ、眼鏡の底から、さも楽しそうにこちらを見上げている。
マチルダの双子の姉、レイリだ。
「悪魔。悲しみの悪魔、南のパスティ・レーン」
とっさに、キーツは、飾り棚の『鏡』を振り返った。
だが、「望んでいた者」の姿は映っていない。
ガラスの窓にも、シャンデリアにも、扉のノブにも、燭台の中にも、見当たらない。
「あの女を出せ!」
だがレイリは、それには答えなかった。
答えずに、なおも、笑みを浮かべたまま、あやすように言った。
「ねえキーツ。気をつけた方がいいよ。よく聞いて……あの悪魔に付け込まれちゃいけない。悪魔は君を、手に入れたがっている。何故か? それはね、この世界を滅ぼすだけの完璧な力を得るためには、君の協力が、どうしても必要なんだ。キーツ、だから悪魔はそうやって……君にそんな風に呼び掛けている。君を味方にするために。邪魔な者を、刈り取っておくために……」
「出て行け!」
「どうしてそう、私を邪険にするかなあ……。私はあなたに、親切にしてるつもりなのに……」
そう言いながらも、薄笑いを浮かべた。
「キーツ。君は思っているはずだ。自分はこんな世界に未練はない。こんな世界がどうなろうと知ったことじゃない。自分を、孤独に追いやった世界など、さっさと滅んでしまえばいい。イリニアとの戦いが始まった。それは君には喜ばしいことだ。悪魔の煽動で、イリニアはパストラルに攻め込んでいる。それはなおさら都合がいい。放っておけば悪魔はパストラルを滅ぼし、イリニアも滅ぼしてくれるだろう。パストラルの素直な民衆は、君が勝利へ導いてくれると確信しているが、君には最初から戦う意思なんて、これっぽっちもない。君はこうして、ここでクッションの利いた椅子に座っているだけ。……君はさぞかし、パストラルを早く滅ぼしてほしいと願っているだろうね」
「……お前……」
「驚いているね、キーツ」
男の反応を楽しむかのように、少女はわざと、いたいけな笑みを浮かべた。
宰相は椅子から、身動きすらできない。
「君は私を……君の言い方だと、無意味な「木偶」だとでも、思っていたかい? いやまあ、確かに。この身は木偶のような存在だが……。だが私は幻だ。夢の中での出来事のように、私の話を聞きなさい」
「お前……人間ではないのだな?」
「お前はどう? 人間か?」
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6 漆黒の門番
城の中が、騒々しい。
イリニアから宣戦布告をうけた時ですら、これほどの騒々しさには、ならなかったはずだが。
扉を抜け、廻廊を回った、その先。
東屋の中から、ミド副執政官らしき怒鳴り声と、皿の砕け散る音が、聞こえてくる。
女は、足音を忍ばせ、城中の物音に聞き耳を立てた。
いかなる変化にも敏感な彼女の耳には――白い花が花瓶の縁から、散りかかっているその気配さえも――届いていそうな様子だった。
シトラビンスは慎重に、歩みを止め。
息をしずめた。
この城で、一番壮麗な、一番敬うべき……『扉』……の前である。
やにわに、緊張しきっていた頬が緩み。いつものおだやかな、下がり目になる。
「失礼いたしますー」
笑顔をうかべ、重厚な扉を左右に、押し開く。
うやうやしく、一礼し、
「昼食のお時間になりますー。ガービン元帥が、ご一緒に如何か、と……」
執務室の主に、そう伝えようとした時、
「あ……」
シトラビンスの耳が、桜色に染まる。
宰相は、『扉』を振り返りもせずに、何もない壁を見つめていた。
手にした古い時計が、不思議と、神々しい光を放っている。
「あの……」
『魅了』の力が、強まっていた。
その力の高まりには、キーツさえも気付いてはいない。
何気ない光が、彼の端整な横顔を、透明に浮かび上がらせる。
(閣下……)
指の間の時計は古く、錆すら浮かんでいるが、その「聖人画」の不可思議な波長を、高めこそすれ……乱すことは、決してない。
金色の鎖が、指先に絡まり、膝の上へ、垂れ下がる。
肘掛け椅子に、深々と寄りかかり、宰相は「何か」を見ている。
シトラビンスはその、「何か」を知りたいと思ったが、
(神の領域に入ることはできない)
息をつめ、額の痺れを、追い払った。
「閣下……」
だが、彼女は、推察していた。
(この方もまた、パストラルを想い、沈思している……)
(それならば、私達と苦しみは同じ。思い悩むことはただ一つ……)
「閣下」
潤んだ目をまっすぐに上げ、シトラビンスは、微笑んだ。
「結界師を、パストラルにお呼び下さい。一時かぎりの雇い者としてではなく、パストラルのためだけに。その力を充分、利用すべきです」
――ずきん。
彼の胸に、再び、痛みがはしった。
思い出したくもなかった、打ち震える、苦しいばかりの痛みである。
唇が、物を言うように、わずかに震えた。
「は?」
シトラビンス准佐は、聞き返す。
「……あれはいったい……」
思い出すまいと、すればするほど、映像が脳裡に、広がっていくようだ。
「……どういう意味なのだ……」
青白い光の中で起こった、淡い色合いの、どこか妖しげな、あの一コマ一コマが。
脳裡を横切る。
あれは、夢だったのか?
――結界師は彼の目を見て、微笑んだ。
『……すごい物をお作りになるんですね』
(やめろ……)
結い上げられた髪。耳元で揺れる、小さな宝石。柔らかな布地のドレス……
彼女の目は、微塵もそらされることなく、彼の瞳だけを、見つめて――。
『キーツ様って……』
(なぜ、そんな目でこのわたしを……っ!)
>INDEX
イリニアから宣戦布告をうけた時ですら、これほどの騒々しさには、ならなかったはずだが。
扉を抜け、廻廊を回った、その先。
東屋の中から、ミド副執政官らしき怒鳴り声と、皿の砕け散る音が、聞こえてくる。
女は、足音を忍ばせ、城中の物音に聞き耳を立てた。
いかなる変化にも敏感な彼女の耳には――白い花が花瓶の縁から、散りかかっているその気配さえも――届いていそうな様子だった。
シトラビンスは慎重に、歩みを止め。
息をしずめた。
この城で、一番壮麗な、一番敬うべき……『扉』……の前である。
やにわに、緊張しきっていた頬が緩み。いつものおだやかな、下がり目になる。
「失礼いたしますー」
笑顔をうかべ、重厚な扉を左右に、押し開く。
うやうやしく、一礼し、
「昼食のお時間になりますー。ガービン元帥が、ご一緒に如何か、と……」
執務室の主に、そう伝えようとした時、
「あ……」
シトラビンスの耳が、桜色に染まる。
宰相は、『扉』を振り返りもせずに、何もない壁を見つめていた。
手にした古い時計が、不思議と、神々しい光を放っている。
「あの……」
『魅了』の力が、強まっていた。
その力の高まりには、キーツさえも気付いてはいない。
何気ない光が、彼の端整な横顔を、透明に浮かび上がらせる。
(閣下……)
指の間の時計は古く、錆すら浮かんでいるが、その「聖人画」の不可思議な波長を、高めこそすれ……乱すことは、決してない。
金色の鎖が、指先に絡まり、膝の上へ、垂れ下がる。
肘掛け椅子に、深々と寄りかかり、宰相は「何か」を見ている。
シトラビンスはその、「何か」を知りたいと思ったが、
(神の領域に入ることはできない)
息をつめ、額の痺れを、追い払った。
「閣下……」
だが、彼女は、推察していた。
(この方もまた、パストラルを想い、沈思している……)
(それならば、私達と苦しみは同じ。思い悩むことはただ一つ……)
「閣下」
潤んだ目をまっすぐに上げ、シトラビンスは、微笑んだ。
「結界師を、パストラルにお呼び下さい。一時かぎりの雇い者としてではなく、パストラルのためだけに。その力を充分、利用すべきです」
――ずきん。
彼の胸に、再び、痛みがはしった。
思い出したくもなかった、打ち震える、苦しいばかりの痛みである。
唇が、物を言うように、わずかに震えた。
「は?」
シトラビンス准佐は、聞き返す。
「……あれはいったい……」
思い出すまいと、すればするほど、映像が脳裡に、広がっていくようだ。
「……どういう意味なのだ……」
青白い光の中で起こった、淡い色合いの、どこか妖しげな、あの一コマ一コマが。
脳裡を横切る。
あれは、夢だったのか?
――結界師は彼の目を見て、微笑んだ。
『……すごい物をお作りになるんですね』
(やめろ……)
結い上げられた髪。耳元で揺れる、小さな宝石。柔らかな布地のドレス……
彼女の目は、微塵もそらされることなく、彼の瞳だけを、見つめて――。
『キーツ様って……』
(なぜ、そんな目でこのわたしを……っ!)
>INDEX