ウィキペディアの解説:

スケッチ (sketch) は、人物や風景などを大まかに描写すること。写生(しゃせい)、粗描素描(そびょう)とも言う。

 

絵画における基本的な作業で、美術の訓練としても行われる。主に鉛筆を使用し、スケッチブックに描き留める。彩色を行う場合もあり、スケッチしたものを、水彩油彩の作品に仕上げることもある。

 

特に、簡単にスケッチすることをラフスケッチ、素早くより簡潔に描写することをクロッキーと言う。

↑卒業式は(明治37年)7月4日に開催されたよう。

祖父は明治13年11月生まれだから、卒業は満23歳半ばである。現在の東京芸大の第1期生である。

日本画の師は黒田清輝であると聞いている。

 

ワイフが実家の処分の中で箱ごと持ち帰ったものを開いた。

ワイフの祖父が描き溜めたものが卒業証書などとともに大量に出てきた。

 

美術学校の第1学年から4学年まで、成績評価のために提出されたと思われるものも

多数ある。描いた日付も記されているが、週に2,3枚描かれたデッサンも多い。

 

↑入学直後に描かれたもののよう。(明治)32年4月と読める。この時点では18歳である。

美術学校に何年在学したのであろうか?(後述参照)

 

薄い、2つ折りの紙に描かれたスケッチ帖の紹介

来月山形在住の従弟が我が家にやってくる。できればすべて天童市の美術館に収納してもらいたいと思っているので、記念の為すべて撮影。(天童市に新設された美術館の目玉は

熊谷守一コレクションである)。

 

紙は2つ折りにして綴じられていた気配があるので、ページ順を乱さないように撮影。

 

卒業証書を渡した正木直彦について。ウィキペディア

 

正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日(文久2年10月26日) - 1940年(昭和15年)3月2日)は明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。

 

正木さんが第5代校長ということは、祖父は美術学校の1期生とはいえないかも。

 

正木さんの経歴:

1862年(文久2年)和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に、父林作の三男として生まれた。幼名政吉。

 

東京帝国大学法科大学法律科卒業後、奈良県尋常中学校長を経て、帝国奈良博物館学芸委員、古社寺保存委員。さらに文部省に出仕し、第一高等学校教授を兼任。

 

1899年明治32年)から美術などに関する調査のため欧米に出張、1901年(明治34年)に帰国。同年から東京美術学校校長となった。

 

1906年、黒田清輝大塚保治らとともに政府による芸術振興を建議し、これを受けて翌年文部省展覧会(文展)が開催されることになった。文展の委員長は文部次官(澤柳政太郎)で、主事に正木が就いた。その他にも博覧会や東京府美術館建設など多くの美術行政に関わった。

 

長期にわたり美術学校校長を務め、一時期工芸史の講義も行った。1932年、文部省の行政整理が行われるのを機会に校長を辞任した。後任を官僚が務めることには校内の反発が強く、(文部省専門学務局長赤間義信が2か月ほど校長事務取扱を務めたあと)西洋画科教授の和田英作が校長に就任した。

 

特に学校内部の各派の調停につとめ、体制の基盤を築いた人物として評価されている。正木が長年校長を務めた点については、作家揃いの美術学校を統制していくのは中々難しいことであり、正木以外に適任が見当たらなかったようだ、ともいわれている。1935年には美術学校敷地内に正木記念館が建てられた。

 

1940年没。墓所は護国寺にある。

正木千冬(ジャーナリスト、鎌倉市長)は、長男。

 

 

明治34年に正木さんは校長に就任。よって明治37年の卒業式は3度目か、4度目のお役目となる。

 

 

上に32年4月の日付のあるデッサンを紹介して、美術学校入学後の作と書いたが、

祖父の入学は明治33年のよう。同期に熊谷守一・青木繁がいたというので、

両者の経歴を調査。といってもウィキさん覗いただけ。

 

熊谷さん。富裕な父のもとで育ったが自身は貧乏暮らしをしたよう。

 

 

上京し、1897年(明治30年)、慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に入学するも1年程で中退し、1898年(明治31年)、共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁山下新太郎らがいる。山梨県東北地方を巡るスケッチ旅行をする。1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。

 

当然ながら同級生の中に祖父の名はあがっていない。

しかし美術学校の入学は明治33年である。

 

1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。

 

1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。

 

 

1922年(大正11年)、42歳で大江秀子と結婚。5人の子供に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。

 

1929年(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。

 

青木繁:

青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。

 

 

1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。

 

1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。

 

1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。

 

祖父の入学年が明治33年なら、青木や熊谷と同期であったことになる。

入学前に、青木も熊谷も他の学校で美術の教育を受けているので、

祖父も同じ道を辿ったのかも。

 

祖父の父親は亀岡藩士で、維新後は裁判官であったので、収入が安定しており、

フランスから絵具などを取り寄せていたが、青木繁にしばしば横取りされたという話が

ワイフの聞いた家族伝承として残っているとか。

 

実物をスケッチしたというより、誰かの画集を模写したように思う。

 

 

 

スケッチの揺れやまざりし猫じゃらし 橋本 道子
 
スケッチ帖をすぐに開きぬ思ひ草 山田みづえ
 
スケッチのグループの来る水芭蕉 椙本千代子

 

 

 

祖父の名前で検索したら、ワイフの従弟が書いたブログ登場:

 

2010年4月10日

 

天童市美術館新収蔵品展
 まもなく終了する展示ですが、私の祖父である岩鼻正修の絵画を寄贈しましたので、展示されています。
 明治末期から大正初期にかけての制作と思われ、自分の父親(私の曽祖父)を描いた肖像画です。
 大きなキャンバスに描かれているため、個人では保管がたいへんなこともあって寄贈しましたが、傷んでいる部分を修復していただいての展示で、ずいぶんきれいになりました。
 この美術館には、祖父と東京美術学校で同窓だった熊谷守一のコレクションがありますので、同窓生の絵が並ぶのもよいと思って寄贈したところ、今回の展示では、祖父の絵画と熊谷氏の絵画が並べて展示していただいていた・・・。

 

スケッチ帖にはまだまだ多数の絵が収められているが残りはまたの機会に。

デッサンや水彩画なども明日以降紹介のつもり。

 

 

卒業式の写真か?

最後列中央に(右から4人目)私の知る、上に名を挙げたワィフの従弟の父君によく似た人物がいる。それがワイフの祖父ではなかろうか?

この画像を今ワイフに見せたら、最後列左から2人目ではないかとのこと。

青木や熊谷さんも画像の中に入っているなら、関係図書等ですでに紹介されているはず。