*このシリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。
前回「二著物語:撃墜王(その1)零戦撃墜王、栄光の軌跡」では、大戦中六十機以上の撃墜数を誇る零戦パイロット坂井三郎が大戦初期に記録した幾つかの空戦の模様を、
坂井三郎『大空のサムライ・かえらざる零戦隊』、光人社NF文庫、2003年(単行本、1967年)
の内容を基に概観した。
開戦当初からの勝ち戦の日々は直ぐに終りを告げ、坂井を始めとする航空部隊の搭乗員にとって苦難の日々が始まろうとしていた。
二つの死線・ガダルカナル島及び硫黄島
①死線その1・ガダルカナル:本書のクライマックスと言うべきは、昭和十七年八月七日にソロモン群島のガダルカナル島に米軍が上陸した際に著者が参加した同島上空の空戦であろう。
著者はこの日の空戦で重傷を負うも、九死に一生を得て辛うじてラバウルに帰投する。430-95頁に展開されるこの件では、戦闘シーンこそそんなに永くはないが、読んでいる方が手に汗握る展開である(因みに、この場面をクライマックスにした著書と同名の映画も製作されている)。
この時に負った傷で、坂井は右目の視力が極度に低下するが、それでも操縦桿を握り続け、九州の大村航空基地で教官として新人パイロットの訓練にあたり、次いで横須賀航空隊に転じて、硫黄島に進出する。
②死線その2・硫黄島:坂井が今一つ直面した絶体絶命の局面が、その硫黄島近辺で昭和十九年六月二十四日にグラマンF6F十五機を相手に大立ち回りをした空戦である。米第五十八機動部隊が当時進行中であったマリアナ諸島攻略作戦支援の一環として行った硫黄島空襲の際に起きたもので、流石に逃げることに終始して一機も落とせなかったものの、自身の飛行機への被弾がゼロであったという(553-72頁)。
努力の人、強運の持ち主
「二つの死線」は、いずれも戦闘の際に直面したものであったが、坂井はこれら以外にも命に関わるような危ない局面を幾つか乗り切っている:
(1)昭和十六年十二月九日に、フィリピンへの空襲からの帰途、悪天候の中で道に迷って危うく燃料切れとなりそうになった場面(181-86頁)、
(2)大村飛行基地で新人パイロットとの同乗訓練の際に飛行機の脚が出なくなり、あわや胴体着陸かと思った難局を乗り切るエピソード(528-33頁)、
(3)硫黄島から米機動部隊攻撃に向かうも攻撃を為し得ず帰投する途中で、夕闇迫る中で推測航法の末に辛うじて硫黄島に辿り着くという経験(595-600頁)。
こういった数々の危機を乗り越えて生き残った背景に、当人の人並み外れた努力があったことは間違いない。
「あとがき」で述べているが、坂井は視力を鍛えるために昼間の空に星を見る訓練をしたし(643-44頁)、瞬間的な反応力を身につけるために色々なことを同時に行うことを試み、その結果「文章を確実に読みながら数学の計算をし、同時にラジオを聞き、その上、人の会話を聞きとり、それを頭の中で整理することさえ可能になった」(647頁)という。
だが、このような当人の努力では動かせない運命の力が坂井を生き残らせたことを窺わせる記述もある:
[1]昭和十七年三月に、各地を転戦した台南航空隊の搭乗員の一部は内地帰還となったが、坂井はその選に漏れた。当人は当時、その措置に不満だったようだが、内地に帰還した組の相当数がミッドウェー作戦に参加して命を落としたり、沈没する空母から逃げ出して泳ぐ羽目になったという(256-57頁)。
[2]昭和十七年八月七日に重傷を負った坂井はラバウルから内地送還となるが、その後ガダルカナルをめぐっての空戦は熾烈さを増し、多くの搭乗員が命を落とす。その中には、坂井と親しかった笹井醇一中尉も含まれていた。無論、これは坂井が意図したことではなかったが、ガダルカナル戦の初日に重傷を負ったがために、その後の戦いに参加することがなくなり、それで生き残ったという見方も可能である。
[3]昭和十九年五月、坂井はとある偶然を切っ掛けに大村航空隊から横須賀航空隊へと転勤したが、それと入れ替わりに横須賀航空隊から一人の飛曹長がフィリピンに転任となった。その飛曹長は、恰も坂井の身代わりとなったかのように、後にフィリピンで戦死する(546-47頁)。
これらを“偶然”と片付けることは容易であるが、ここまで続くと何等かの必然の力が作用していたのではと考えてしまう。
非科学的な想念であることは百も承知であるが、激戦を生き残った軍用機搭乗員の多くは、このような宿命論の持ち主である。
<「その3」に続く>