*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。

 

第二次大戦の初期、大日本帝国海軍がその戦域を広げる中で、圧倒的強さを見せた零式艦上戦闘機。それを乗りこなして、六十四機もの敵機を撃墜したという記録を持つ撃墜王として知られるのが、坂井三郎(1916-2000)である(注:この撃墜数には、日華事変の時期に九六式艦上戦闘機に搭乗していた時の戦果も含まれる)。

 

その坂井三郎が自らの経歴・戦歴を綴ったのが、

 

坂井三郎『大空のサムライ・かえらざる零戦隊』、光人社NF文庫、2003年(単行本、1967年)

である。

 

筆者(山本)は二十代に一度単行本を読んだことがあるが、今回改めて文庫版に目を通した。

 

驚異の記憶力、迫真の記述

読み進めて驚嘆するのは、著者の類稀な記憶力である。ガキ大将だった幼少期、海兵団に入った頃の思い出、砲術科としてスタートした水兵時代の苦労、操縦練習生として採用されて初等訓練を終わるまでの過程を、周辺の殆どの登場人物の名前を挙げつつ実に克明に記録している。そして、日華事変当時からの空戦の記録は、昼間に星を見ることが出来た「2.5」と言われた抜群の視力を駆使しての敵発見から、接近、戦闘、基地への帰投に至るまでを、時には図解までして説明している。しかも臨場感に溢れた記述で、諸外国で訳本が出されたのも、むべなるかなと思わせる内容である。

 

一例として、著者が昭和十六年十二月十日に、米陸軍の空の要塞[flying fortress]B-17を撃墜した時の件を引用する:

 

・・・やがて私は、おやっ? と思った。敵機の右翼から真っ白い霧がすうっと流れ出したのだ。いわずと知れたガソリンの尾だ。私の前に攻撃をかけた二機の零戦の射弾が、敵機の翼内タンクに命中したらしい。

 ―――しめたっ! ここに射弾をぶち込めばきっと火がつく!

 私は操縦桿をぐっと突っ込んで、敵機の後下方に潜り込んだ。それはまるで、鯨の子が親鯨の乳をのみにゆくような姿勢であった。

 私は、ダダダッと、敵機の右翼のタンクと思われるところを狙って射弾を送った。七・七ミリと二十ミリを引きっ放しの連続弾である。

 こんどは相当の有効弾があったようだ。

 敵機は前よりも一層はげしくガソリンを噴き出しはじめた。・・・(192頁)

 

因みに、著者自身はこの時確認できなかったが、このB-17は結局墜落し、B-17の墜落第一号となった。

 

栄光の日々・比島、ジャワ方面、ラエでの戦い

当書の中で一番痛快と感じるのは、台湾の台南基地からフィリピンを襲った上記のB-17撃墜を含む開戦劈頭からの一連の空戦、ボルネオ及びジャワ方面の上陸作戦を援護するための昭和十七年三月頃までの作戦行動、翌月から同年七月末までのニューギニアはラエを根拠地として主にポートモレスビーの連合軍航空部隊を相手とした味方爆撃機の護衛及び敵戦闘機の迎撃戦であろう。アメリカのP-39エアコブラ、カーティスP-40、B-25及びB-26爆撃機、イギリスのスピットファイヤー戦闘機などを相手にして、ほぼ連戦連勝であった。

 

中でも圧巻として取り上げたいのは、

①昭和十七年六月十六日の零戦二十一機とスピットファイヤー約六十機とのポートモレスビー空域での戦いと、

②七月二十一日にB-17五機を迎撃したブナ上空での空戦である。

 

著者に拠れば、①では十九機を撃墜して、味方の損害は皆無、②では五機全てを落とし、味方の未帰還機は一機であった(注:空戦記録の常として、敵に与えた損害は過大に見積もる傾向があるが、ここでは、345頁及び401頁に記されている数値に従った)。①の記述の一部を抜粋する:

 

 私の機の二十ミリと七・七ミリがいっせいに火を吐いた。すると、あっけなく、まったくあっけなく、敵の第二小隊長機が錐揉み状態になって編隊の中から落ちていった。煙も吐かずに落ちていってしまったのだ。

 私はその全速の余勢のまま、敵編隊の頭上をすべって先頭に出、敵の頭を押さえるように位置して味方の攻撃を見ていた。次から次へと二十ミリの火を吐きながら突っ込んでくる零戦は、いずれもその第一撃で、敵十二機編隊の約半数を落としてしまった。・・・(339頁)

 

だが、このように味方に損害の出ない空戦ばかりとは限らず、坂井の上官・同僚・部下達の中から未帰還・戦死者がポツリポツリと出てくる。その中に、坂井が率いる小隊の二番機であった本田敏秋二等飛行兵曹もいた。昭和十七年五月十三日、この日だけ坂井の指揮下から離れてラエに来たばかりの飛行兵曹長の二番機として出撃したが、敵に一瞬の隙を突かれて撃墜されたのである(292-97頁)。

 

元々ラバウルを根拠地としていた台南航空隊の分遣隊としてラエにあった坂井らの部隊は、このように消耗していき、昭和十七年八月三日、その半数ほどがラバウルに戻る。それから一週間も経たぬ内に、新たな戦いが始まる。

 

<「その2」に続く>