*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。
前々回「二著物語:撃墜王(その1)零戦撃墜王、栄光の軌跡」、及び
前回「二著物語:撃墜王(その2)努力と強運による生き残り」では、
坂井三郎『大空のサムライ・かえらざる零戦隊』、光人社NF文庫、2003年(単行本、1967年)[以下、『サムライ』]
坂井にはこれ以外にも、幾つかの著書がある。
その中で、
坂井三郎『続・大空のサムライ・回想のエースたち』、光人社NF文庫、2003年(単行本、1970年)[以下、『続サムライ』]
は、坂井の経歴・戦歴の中で『サムライ』では触れていない重要な出来事を詳しく綴っている。
未来の米大統領、危機一髪
その中で一番読み応えがあるのは、昭和十七年六月九日に坂井らがラエに来襲してきたB-26爆撃機の編隊を迎撃した時の場面であろう(40-73頁)。坂井らにとっては、ラエで体験した無数の空戦の一つに過ぎなかったが、来襲した米軍機の一つに当時下院議員だったリンドン・B・ジョンソン[Lyndon B. Johnson]が搭乗していて、その機が危うく撃ち落とされるところであった。ジョンソンは、ケネディー政権の折に副大統領となり、ケネディー暗殺後に大統領となったので、将来のアメリカ大統領を今一つのところで取り逃がしたことになる。
ジョンソンがこのような危地に陥った経緯については、米側の動きをも記した当書を読むことをお勧めする。因みに、若き日のケネディーも、この翌年ソロモン海で魚雷艇[PT boat]の艇長として任務に従事していた最中に、搭乗していた艇が日本の駆逐艦天霧に衝突されて、危うい目に遭っている。
台湾のホスト・ファミリー
この他に『サムライ』に記されていなかった事項としては、実用機教程と延長教育を受けた際の体験、台南航空隊の一員として台湾に滞在した際の思い出などがあり、中でも台湾での下宿先となった台湾の公学校(台湾人の小学校)の校長であった蝶野一家との交際の物語は、厳しい訓練や戦いの場面が多い坂井書の中で、心温まるエピソードに満ちている。友人の宮崎儀太郎三飛曹と共に台湾での下宿先を探して日本人の家を何軒も渡り歩くも行く先々で断られ、最後に蝶野校長の家を駄目元で訪問する。玄関に出て来たのは校長の奥さんであった。
「航空隊の者ですが、じつは夜泊まるところに困っております。お宅にもしも部屋がありましたら、下宿させていただけませんか」
奥さんは、ちょっととまどったかっこうで、ふすまの閉まった奥の部屋を振り返って、一瞬、返事をためらったようだった。私は瞬間、やはり駄目だったか、そう思って後ずさりした。そのときである。奥の部屋でエヘンと咳ばらいが聞こえ、つづいて、
「うちは下宿屋ではない!」と、この家のご主人らしい人の大きな声が飛んできた。私はびっくりした。奥さんもびっくりしたらしく、なんともいえない、あわれみのまなざしで私を見つめた。するとすかさず第二弾の大きな声が飛んできた。
「うちは下宿はさせんが、自分の家だと思って泊まりにくるんなら、毎晩きてよろしい」
私は飛び上がらんばかりに喜んで表へ飛び出し、宮崎を連れてふたたび入った。(185-86頁)
これが、昭和十三年に台湾に赴任した坂井と蝶野一家との出会いで、坂井はいったん台湾を離れて、二年後に戻ってきた時もこの一家と旧交を暖めている。読み進めてみると、この蝶野家は坂井にとって、単なる下宿先の主人を通り越した、今で言う「ホスト・ファミリー」のような存在であったように思われる。
茶目っ気たっぷりのエピソード
戦闘機乗りも人間である。時には羽目を外す。
(1)内緒の郷土訪問飛行:昭和十三年春、台湾に旅立つ直前に、大村基地で列機二機と共に高高度飛行訓練をした折に、事前に打ち合わせた通りに、基地には内緒で各々の郷土へ訪問飛行をする(坂井は佐賀県出身、この日の列機の搭乗員は、一人が佐賀、もう一人が熊本出身)。生家や出身校の上空で低空飛行をやって、何食わぬ顔して基地に戻っている。(239-46頁)
(2)敵基地上空での編隊宙返り:ニューギニアのラエで戦っていた最中の昭和十七年五月二十七日、ポートモレスビーに隊長機の列機として遠征した坂井は、戦闘が終了したところで、敵基地の上空に戻っていく。そこに、事前に示し合わせた通りに同僚の西沢広義一飛曹と太田敏夫一飛曹がやって来る。三機は、敵基地の上空四千メートルあたりで連続三回、揃って宙返りをやり、高度を二千メートルまで下げて再びそれを繰り返す。その間、感心したのか、敵の飛行場からは一発も対空砲火が飛んで来なかったという。(『サムライ』、321-35頁)
内緒でやったことだが、いずれも後に上官にばれて大目玉を食らっている。その経緯については、各々の書を参考にされたい。
<「その4」に続く>