いわく付きの史書である。
戦国時代に織田・豊臣家に仕えた前野家の当主やそれに連なる人物が当時の大事件に絡んでいた様子を軸として、それらの出来事を記述したとされる文書で、「前野家文書」とも呼ばれる。
前野家の子孫である愛知県の吉田家の土蔵に長い間埋もれていたが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風で土蔵が壊れたことで見付けられたと言う。
それに郷土史家である瀧喜義(たききよし)が着目して、同文書の中の墨俣の所謂「一夜城」に関する記述を基に『墨俣一夜城築城資料』が昭和53(1978)年に墨俣町から刊行したのを切っ掛けに、世に知られるようになる。
その瀧による著作の一つが、
瀧喜義『「武功夜話」のすべて』、新人物往来社、1992年
である。
桶狭間合戦を始めとする織田・豊臣が関わった戦国時代の主要な出来事を逐条的に件の「前野家文書」の内容を基に解説したもので、その成立年代については「前野氏十六代吉田孫四郎雄翟(かつかね)が寛永十一年から口述したものを娘千代女が代筆仕る」(207頁)との記述があること、「文中に茂平治改書または再写と断り書がある」(同上)ことを指摘し、茂平治は「前野氏十九代の当主で享保年間の人」(同上)であることから、江戸時代中期に書かれたものであると分析している。
「前野家文書」には、これまでの史料では明らかにされていなかった新事実が記されているとして、同書から関連する件を引用しつつ、「本当はこうだった」といった筆致で話を進めている。
例えば、桶狭間合戦を扱った冒頭の章では、蜂須賀小六正勝率いる「蜂須賀党」が信長の下で諜報組織として活躍して合戦での勝利に多大な貢献をしたと結論付けており、「『信長公記』も諜報作戦には一言も触れていない」(13頁)として、「前野家文書」が記す新情報が貴重なものであることを強調している。
しかし、この書の内容が怪しく「偽書」であるとする見解が、前出の『墨俣一夜城築城資料』が出てから二年後に早くも出されている。名古屋市立女子短大教授の小島廣次が『月刊・中日文化センター』168号(1980年4月1日)で、①『築城資料』に掲載されている蜂須賀正勝の書簡や信長の感状に月日のみならず年まで書かれているのは当時の書簡の体裁では有り得ないこと、②使用されている文言・文体が後世のものであること、③記されている花押形式が明朝体で当時は使われていなかったこと、などを挙げて疑義を呈している(この部分、後出の藤本・鈴木書、141頁より)。
にも拘らず、その後「前野家文書」は吉田家の当主龍雲(たつも)の弟である蒼生雄(たみお)によって原文が読み下し文にされた上で1987-88年に新人物往来社から『武功夜話』として出版され、テレビや新聞などのメディアで取り上げられ、遠藤周作、津本陽といった有名な作家や一部の学者が史料価値の高いものとして評価すると、俄然脚光を浴びる。その結果、前述の桶狭間合戦での「諜報活動」などは、NHKの大河ドラマにも取り入れられることとなり、同書の一般での評判は上がる一方となった。
阿部一彦『「武功夜話」で読む信長・秀吉ものがたり』、風媒社、2013年
は、『武功夜話』を肯定的に評価する学者の一人による著作で、前出瀧書と同様に、織豊期の主要な出来事を同書からの抜粋を交えながら分析したものである。
さすがに、瀧書が出てからの学界に於ける動向は把握しており、「はじめに」で、「偽書説」に対する反論をしている。具体的には、「秀吉研究の第一人者」として知られる三鬼清一郎が2000年に、そして戦国史研究で名高い小和田哲男が2008年に「前野家文書」の原本を調べた結果として、「すべて江戸時代に作成されたもので、江戸時代の中期またはそれ以前にさかのぼることができない」(三鬼)、「執筆時期を江戸時代後期、幕末期とし・・・戦国・織豊期の貴重な情報源」(小和田)と述べたことを引き、「偽書説」を退けた両名の所論に賛同している。
但し、著者(阿部)も『武功夜話』の内容を無条件に受け容れているわけではない。「『武功夜話』は、歴史学上、一級資料ではない」(83頁)とはっきり述べているのである。
にも拘らず、著者(阿部)は『武功夜話』の史料としての価値を高く評価し、既存の『信長公記』などの一次史料の内容を敷衍・補完したりする箇所が多々あることを具体例を挙げて解説している。
だが、それらの解説には説得力に欠ける点が多々ある。
再び、桶狭間合戦を例に挙げると、「迂回奇襲説」が否定されて「正面攻撃説」(藤本正行)、「乱取急襲説」(黒田日出男)が登場してきた学界の趨勢を論じた上で、「情報戦」を重視した信長の動きを「冒頭から緊迫感にあふれている」(102頁)『武功夜話』の記述を引用して追っている。それに拠ると、「簗田鬼九郎を頭領とする情報部隊が、蜂須賀小六隊の働きによって、沓掛城から大高城へのコースを探り、山間の隘路で決戦を遂げるという信長の意図を成功に導いた」(106頁)と結論付けている。
新しく出て来た説を一顧だにせず、『武功夜話』の記述を受け容れている様である。
著者(阿部)は何を以ってそう判断したのであろうか?若干酷評めいたことを言うが、一部の学者に見られる姑息な態度がそこには窺われる。以下、それを指摘する。
章の最後の方で阿部が取り上げたのは、信長の「情報部隊」の一員として登場する地元の村長である藤左衛門なる人物の動きで、映画やドラマなどでは御馴染みの、今川義元の本陣の場所を探るために陣中見舞いを装って献上品を持って本陣を訪れる場面である。それについて阿部は「藤左衛門や蜂小(蜂須賀小六)・前小(前野小右衛門)らの行動は戦国時代において実行の可能性があったのだろうか?」(107頁)との問を投げ掛けた上で、既存の一次史料にそういった事例があったこと、前出の大和田が自著で「戦国時代の一般的慣習」と述べていることをなど引いて、「可能性」が十分あったことを匂わせている。
ここで論じているのは、桶狭間でそのようなことがあった「可能性」[possibility]だけであり、それが起きた「蓋然性」[probability]が高かったかという問題や、それが実行可能[practicability]であったかについては触れていないのである。ここには、「可能性」の問題を「蓋然性」「実行可能性」の問題にすり替えるという、ある意味では巧妙な、そして史家としては姑息(もっと直截的に言えば卑劣)な手法が見られると言わざるを得ない。
<「その2」に続く>