原著者が伝えたかったことを訳に込めよ。

 

まずは小生の訳文から。この一節は、ソ連が昭和20年8月に当時まだ有効であった日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲に侵攻した際、ソ連軍がどのように作戦を準備したかを記した部分である。監訳者の修正版と異なる部分に下線を付す:

 

「ソ連軍は火砲二万八千門、戦車五千五百五十両、航空機四千三百七十機を集結させたが、スタフカは戦略レベルでの奇襲が確実となるような作戦計画を立案することによって、これらの数字が示すよりも遥かに大きな戦力上の優位を確保するように努めたし、現実にも確保することとなる。」

 

これを監訳者は以下のように修正していた。小生の訳と異なる部分に下線を引く:

 

「ソ連軍は火砲二万八千門、戦車五千五百五十両、航空機四千三百七十機を集結させ、スタフカは戦略レベルでの奇襲が確実となるような作戦計画を立案することによって、これらの数字が示すよりも遥かに大きな戦力上の優位を確保するように努めた。

 

一読すると、大きな違いはないように感じられるであろうし、中には監訳者の修正版の方が不要なものを切り捨てて読み易くなっていると感じる方もあるかもしれない。だが、原文は以下のようになっている:

 

The Soviet armies mustered some 28,000 guns, 5,550 tanks and 4,370 aircraft to oppose the 5,360 guns, 1,115 tanks and 1,800 aircraft of the Japanese, but much greater margins of superiority were sought and achieved by a plan of campaign tailored to ensure strategic surprise.

 

下線部分に着目すればお分かりであろうが、小生の訳は原文の一字一句を忠実に反映させたものである。

 

小生は、翻訳する際、全ての場合に於いて原文の一字一句を忠実に反映させた訳にせよと言うつもりはない。現に、これまでに当「誤訳検証講座」では、相当な意訳をした事例を紹介してきている。しかし、そうしなければ原著者が伝えたかった趣旨を伝えられないならば、そのように訳さなければならないと小生は考える。

 

この場合、原著者が言いたかったのは、ソ連軍が準備した兵力・戦力が量の面で日本側を圧倒的に凌駕していたのは勿論だが、実際に戦端を開いてから重要となったのは戦略上の奇襲を達成するための事前の作戦準備であったということであり、それが接続詞のbutに込められている。現に、原著者はこの後でソ連軍が満州侵攻に際して選んだ進撃路について詳しく論じているのである。

 

また、原著者は当書で、これまで一般的に受け容れられてきた「第二次大戦中のソ連軍は数で押し切った」という通説に各所で反駁しているが、これもそういった反駁の一部を構成するものである。こういった書物全体の論調を把握して原文を読んでいれば、「監訳」する立場にある者は、小生の訳が適確なものであることが理解できる筈であるが、遺憾にも監訳者はそういったことを等閑にした「閑訳」をしたようである。

 

次に、were sought and achievedの部分を監訳者は原文がwere soughtだけであったかのように訳しているが、これも原著者が伝えたかったこと、つまり、「ソ連軍が目論み、その通りに実施できた」という意味を捨象してしまっているのである。

 

微妙な差異ではあるものの、その微妙な違いが原著者の真意を伝えているか否かの分かれ目となることを銘記して訳すべきである。そのためには(何度も言わずもがなのことを言っているが)原文を読む必要がある。