Graukon

不正の極致とは、実際に正しい人間ではないのに、正しい人間だと思われることなのです。



グラウコンの正義と悪の概念。


性悪説。


人間は本来、不正を働くこと、すなわち欲心力によって動かされる。

すると不正を完全に行うことによって相手に害を及ぼすと同時に自分にとって利益を得る。また、誰からかによって害を受けることもある。しかし、そうした仕打ちに対して報復するだけの力がないことによって、そうした衝突を避けようとする。


ここではじめて法律という、悪を及ぼす、及ぼされる二極の中間の概念を作り出すことによって平等、均衡の概念を作り出す。

こうして、その法に沿った事が「合法的」として、正しいこととする。

しかし、どうだろう?元来、人間は不正の欲心によって動かされるものであるから、そこに歪みが生じてしまうのではないか。


これは、キリスト教の誕生する前、古代ギリシア人たちによる正と不正についての議論の一部である。

今から遡ること2000年以上昔からこうした人間の本質を指摘するものがいて、その是非が問われていたにも関わらず、この不正と不正による均衡を歴史上何度も見てきたのではないだろうか。


前回のBlogで、Hegelによって、「人間は歴史から何も学ばないということを学ぶ」と指摘されていることを書いたが、まさに的を射た教訓だと感じた。

私がこの不正の均衡と聞いて、すぐ思い浮かべるのが「Power Of Balance(勢力均衡)」である。アメリカと旧ソ連による冷戦。

核という不正を行うことに対する足踏みと、その報復に対する足踏みによって、すなわち不正と不正の均衡によって勢力を均衡していくという戦争戦略である。


こうした不正の均衡の導くところを、2000年以上前の賢人たちは、破滅以外にない、最上の悪徳としていたのにも関わらずやはり、行ってしまうのが歴史ということなのだろうか。






Friedrich Hegel

 人間は歴史から学ばないということを、歴史から学ぶ。



今日は、「人材マネジメント論」の課題より。

私の考えです。


「なぜ日本においてHRMの導入が遅れたか」について、まず私なりの仮説を立て、それに対する文化的背景と照らし合わせることで、このテーマに迫りたいと思う。


HRMは、それまで人間とは本来怠けてしまう動物であるという性悪説に対し、マズローらによって性善説が立てられた結果、人間を人的資源と見なし人間尊重の立場からマネジメントしていく方法である。


しかしこの概念が1970年代の日本では受け入れられず導入されていかなかった。これは、日本において文化的、歴史的に労働、人間に対する観念が米国社会と大きな相違点が存在したからであると思う。私の考えでは、米国は「多民族国家であること」・「キリスト教文化圏であること」の二点によって労働とはそもそもネガティブかつ苦痛をようするという観念がある。それに対し日本は「少数民族国家である」・「儒教文化圏である」ことの二点によって労働の評価とは決して成果のみによるのでなく、年功によって評価されるという観念がある。この民族性・宗教観の相違というものが労働に対する観念の違いとして現れ、結果1970年における人材管理の分野においてその管理方法に差異が生まれたのではないだろうか。具体的には、人材管理ということよりも、労働評価に対しての相違が日本にHRMの概念を受け入れさせなかったのではないか。


まず、第一点に挙げた「多民族国家と少数民族国家との相違」がもたらすと思われる労働評価の差異について。少数民族においては、その出生や国籍、宗教的文化にいたるまでそれぞれの人間に変化が少ない。そのため人事評価に関しても勤続年数や、年功序列制を取り入れることができた。しかしながら米国のような多民族国家においては、個人の多様性がそうした均一評価基準を阻害し、その労働に対する評価が難しい。こうなると米国ではあくまで成果という形でしかその労働を評価できなくなってしまう。この成果による評価方法によってHRMという手法を確立させていったのではないか。しかし、年功序列制を敷いている日本では、こうした目に見えて相対する成果主義を受け入れることは容易でなかったのではなかろうか。これが、私の考える理由の第一点である。


次に、二点目に挙げた「キリスト教と儒教文化との相違」がもたらすと思われる労働そのものに対する観念の差異について。キリスト教において労働とは精神的自由を約束する苦痛として捉えられている。従って米国や欧州のキリスト教文化圏では、「お仕事はお忙しいですか?」と質問すると、「不幸ながら。」という答えが返ってくる。これに対して、日本では儒教文化によって労働が苦痛たるものという観念がキリスト教文化圏より強くない。つまり、先の質問に対して「おかげさまで。」という答えになるわけである。こうした労働への観念の違いを念頭に置くと、日本人にはそもそも労働に対してひどい嫌悪感をもっていなかったため、人間尊重を謳うほどの惨状が存在していなかったのではないか。そのため、HRMという人間尊重を謳う概念に対して、受け入れなかったというより理解ができなかったのではないだろうか。


以上のように、私は民族性と宗教観という二点から、1970年代に日本においてHRMが導入されなかったのではないかと考える。


では、なぜ1990年代以降には日本でもHRMが積極的に採り入れられてきているのだろうか。これは先に挙げた二点が国際化という流れの中で相対的に希薄になってきていること、またバブル崩壊の煽りによって従来の人事管理技法に疑問が投げかけられた結果ではないだろうか。90年代以降、インターネットの急速な普及や、海外子会社の増加、海外への企業進出が相次ぎ従業員にも多様な文化圏の人材が投入されてきたことが大きな理由に思える。また、バブル崩壊によって超過債務の企業が増え、急速な企業改善、リストラクチャリング(再構築)が進み、目先の成果が大変重要視されたことが米国的な成果主義や人事管理方法を導入するきっかけとなったと思う。


しかし、最近のニュースでは再び成果主義に疑問の声が投げかけられ、新卒採用者たちの中に、一つの企業で退職まで勤めあげたいという声が大きくなっているというものを耳にした。こうした人事管理手法の流れというものが、その善し悪しに関わらず、再び年功序列制へと向かう動きがあることがやはり他国文化と日本における労働概念の相違に起因することを語っているのではないだろうか。それゆえ、1970年代の日本において労働に対するその民族性・宗教観が、HRMを導入させなかった要因である、という結論に至った。








Bill Clinton

 対話を続ける限り、まだ希望はある。



経営学部の基幹授業であるBLもついに二年目に突入しました。

以前に比べ学部全体の意識が高まったのか、学部文化に染められたのか、比較的積極的に発言する人間が増えたうえ、グループ会話の中で気まずくなる状況もない。


前回のBLでは、ロールプレイというビジネスゲームを行った。

結論からいえば、つまらなかったけど、どんなことも学ぶべき事があるようで今回もそれなりに気づけるものがあった。


「対話とは、優位のものが他方の意見を引き出すものである」

「ファシリテーター(司会者に近い)の影響が多大である」

「やはり、リーダーは一人である」


などなど・・・

いま述べた内容には、少し語弊があるけど、追々の説明で。


ロールプレイというのは、一人ファシリテーターを置き、他の人間がテーマに沿って円滑な議論ができるようにいかにコントロールできるかというものだ。


まず、議論の前提としてファシリテーターの役割がはじめから決められていることに疑問を持ちつつも、ゲームを行った。


議題進行中やはり問題が起きた。


議論のレベルが、ファシリテーター<他のメンバー


といった状況になっとき、当然話が息づまる。そこで、他のメンバーがファシリテーターの役割を取って代わってしまう。

もしくは、ファシリテーターに気を使って、積極的な発言が抑制されてしまうのだ。



こんな時、経営学部的発想では、集団はファシリテーターができる人間がどんどんその場においてリーダーシップを発揮すれば良いってことになる。

これは、石川准教授の提唱する「状況的リーダーシップ理論」ですね。


ただ本当にそうなのか?

自分は石川さんの経営と心理の講義から、反対を主張してるんだけど・・・他にも、ロールプレイに対してや、日向野教授、しては学部の主方針に対しての反論でもあるが、要はリーダーシップなんて言葉そのものが怪しい気がしてならない。


さらに言えば、誰もがリーダーシップを持てるなんてありえない。

ずばり、集団においてリーダーは一人しか存在しえない、と思う。



リーダーは、常に集団において相対的に決まるのであって、その段階で集団においては絶対的に一人ではないのか。

また、リーダーの持つ能力をリーダーシップと定義するならば、リーダー自体毎回の集団の中から相対的に発生するわけだから、どうにもばらつきがありとても定義なんてできないだろう。


極端な例。


あるBL班においてフリーライダーたるものがいるとする。

これは、やる気がないだけとかそんな救いのある話じゃなくて、本当にどうしようもない奴だとして。


彼は間違いなくそのBL班においてはリーダーシップを持っていないのだろう。

なぜなら、その班内いおいて相対的に彼が参加できないだけに留まらず、そもそも何をすればいいのかわからないでいるからである。


では、こんな救いようのない彼はどんな場面でも彼はリーダーシップがないのか。彼は、100%リーダーではないと断言できるか。


彼がもし、中学生たちともっと言えば小学生たちと何かイベントを行うとしたら?

彼がまさか、小学生に指示されて、ここでもフリーライダーなんてこと、あり得ないでしょう。。

おそらく彼ながらにイベントを行うだろう。

彼はその集団においてリーダーなんだ!


これって要は、リーダーがその属する集団内において、相対的に発生するということでは?



私は、常に決まった人間しかリーダーになれないなんて言ってるわけじゃない。集団においては常に一人のリーダーしかいないって言ってるだけ。


だから、今の学部のように全員に一斉にリーダーたれというのは違うし、誰もが持てるリーダーシップとかいうものが存在するならばそれはただ、集団の協調性っていう集団倫理感でいかないんじゃないかな。



じゃあ、集団内で相対的にリーダーが自然発生する仕組みってなんだろう。

これについては、BL1の「リーダーシップ持論」のプレゼンでも考えたテーマだったけど、私は個人の持つ「智」の比較によって、智がより優れている人間がリーダーとして発生するのではないかと思う。


「智」ってのは、決して経営学などの単一学問で形成されるものではなくて、生まれてこれまでの様々な経験が積み重なって形成されるものだと思う。


つまり、実学に結び付かないとされる数学や物理、あるいはゲームや漫画・・・ありとあらゆるものを通した経験がそうした「智」になっていくのでは。



今、経営学部でやっているプログラムはどれも、リーダーシップと呼ぶのではなくて、何か新しい学問領域になりうるものであって、リーダー育成のプログラムではないような気がするなぁ。

けど、だからといって今の学部から得るものがないかといったらそれは違う。

やっぱり、とても重要なことを学んでいると思うし、今後の自分に間違いなく良いえ影響を与えてくれると思う。


いずれにせよ、社会に出るまでのあと数年、死ぬまでの数十年、自分の「智」というものをブラッシュアップしていきたいと思う。



まだまだ活字で相手を納得させるだけの文章力が不足しているのが最近よくわかる・・・がんばります。