John Adams

事実は動かしがたいものだ。



昨日、ある雑誌でベルリンの粋なキャンペーンを知りました。

その名も「一目惚れサイト」だそうです。


ベルリン交通局が行なっているもので、その日電車で見かけたあの人に・・・

「~時、~駅で赤いシャツを着て本を読んでいたあなたへ・・・」見たいな感じで、呼びかけるサイトだそうです。


なんだ、ドイツ人も同じく日本人と同様、イタリア人にはなれないんだと妙に納得した瞬間でした。笑



さて、人が何かに引き付けられるとはどういうことなんだろう。

引き付けられる種類にはビジネス・プレゼンテーションもあるだろうし、恋愛における雰囲気なんかも挙げられると思う。



ビジネスにおいて、「お、面白いな」と思う企画。もしくは、すごいなと感心するプレゼンテーション。

これらに共通するものを、Apple社CEO Steve Jobsから学んでみたい。

彼がカリスマ・革命者、時として破壊者と称されるには多くの理由があることだろう。

しかし、それをプレゼンテーションに限ってみたとき、人はなぜ興味を引かれるのかが見える気がする。


自分なりの結論から言えば、ジョブズは観客への視点の提供が上手い。の一言に集約されると感じた。


もちろんApple社の商品も素晴らしいし、褒めちぎる要素は多々あるが、何よりも素晴らしいのは観客(顧客)の持たない視点から、ニーズにアプローチしているという点にあるのでは。


彼のプレゼンテーションには常にそうした良い意味での観客を裏切る仕掛けが仕組まれている。

いきなり、ビル・ゲイツの顔写真にバッテンをしたスライドを登場させてみたり・・・


こうした裏切りによって、しかし確実にニーズにアプローチしてくる手法によって、ジョブズは観客を引き込むことに成功するのだろう。




絵画の世界でも同じことが起きている。


ローマ時代の絵画が神から見た世界を描き、宗教改革以降のヨーロッパ絵画では人間から見た「ある」世界を描き、さらには19世紀以降、書き手独自の視点で描いたピカソらの絵画へと。

その後も書き手の感覚から見た世界を描く印象画へと、常に視点の変化によってその芸術性を表現してきた。



つまりアダムズの言うようにそれが客観的であれ、主観的であれ事実は一つだということ。また、それは動かしがたいものであるということ。

ただ前々回のブログに書いたようにどこかの大手支配国が、あったことを無かったように仕向ける以外には・・・


ではこうした動かしがたい事実、それは顧客が潜在的に、あるいは顕著に持つニーズもまたそうした事実といえる。

そのような一つのニーズに対して従来の一つのマーケティング手法ではなかなか動かしにくい。


ここに、従来顧客が期待しているものと異なった視点から確実にそのニーズを満たしていくことで観客(顧客)たちは引き付けられるのではないか。



この多様な視点を観客に披露するためには、多くの智が必要になってくると思う。

そこで、大学生の今こそその智を最も有効的に積む事ができるのではないだろうか?



要は・・・色々かじって、色々疑って、色々吸収したもの勝ちでしょう。












Plton

 正義とは、世にも気高い人の好さであるのか。悪意とは、計らいの上手であるのか。



これは、昨日読んでいた、プラトンの『国家』の中で、ソクラテスとトラシュマコスなる二人のソフィスト(哲学者)の会話の中に出てくる一文である。

二人は、正義とは何か。これについて熱心に論議を繰り広げるわけです。



トラシュマコス曰く、不正を働く者が正義を計らう者より利益を享受し、正義とは権力者たちのためになることだという。

これに対して、ソクラテスは反証するわけです。正義が、不正に劣ることなど絶対にあり得ないと。



これを聞いて皆さんにも、なにが正義で、なにが不正なのかを考えてほしい。


自分が人生で初めて法律を勉強し始めたのが1ヶ月前。

公認会計士の勉強の中で企業法に触れたのがきっかけだ。

その過程で民法にも触れている。


その民法では、驚くことに、

善意・・・ある事実を知らないこと。

悪意・・・ある事実を知っていること。

と定められているのです。


これって、トラシュマコスの意見と同じじゃない??

民法上は、善意が良いこととか、悪意が悪いことっていうことは一切関係無くて、純粋に上記の意味でしかないんだって。

そうなると、事実を知らないことはお人好しでしかなく、事実を知っているのは計らい上手なんじゃないかな。。



でも、わかるような・・・やっぱりどこかしっくりこない。


そこでソクラテスの意見を伺おう。笑

ソクラテスは、正義が不正や悪意に侵されることなどあり得ないと主張する。

悪意は、確かに事実をより理解している人間が可能なことなのかもしれない。

けど善意だって、事実を理解しているからこそ手を差し伸べられる愛情である。



確かに、善意って、利益だけを見たとき、すぐに還ってくるものではないけど、ましてそれを期待して行う行為じゃないはず。(聖書:善きサマリア人のたとえにあるように)

善意を行うことによって還ってくるものは常に良いリアクションだと思っている性善説の自分だから、なおのこと善意を敵視できない。


一方、悪意はやっぱり、悲しみしか生まないんじゃないかな??

民法では、悪いことのことは、「過失」って呼んで、悪意とは区別しているんだよね。

けど、自分はやっぱり悪意は、本来の意味の悪意でしかないし、決していいことに思えないな・・・



まだまだ、熟考が足りないテーマでまだまだ議論の余地ありだけど、気になったので書いてみました。
















Thomas Jefferson

独立を保つには、支配者から際限なしの負債を押し付けられないよう注意することだ。



日本は、その昔中華思想を跳ねのけ、鎖国時代を過し、武士たちが生き勇む時代まで独立を保ってきた過去を持つ。


しかし独立に傾倒した結果、世界から孤独となり、戦争に負けた。

そして今、アメリカという支配者から際限ない負債を押し付けられ、いわば独立者から従属者へと変わってしまった。

それが良いことなのか悪いことなのかはどちらでもいいけど、ここで考えてみたのは独立者から支配者、支配者から独立者へとの時代の流れは目まぐるしくごいているって事実。


もとを正せば、こんな名言を残したJeffersonは21世紀現在支配者アメリカが、独立を求めて闘った時代に生きた人間ではないか!

そのアメリカが、いまや多くの債務国から年間何億ドルもの利息を催促する支配者へ。


では、Jeffersonの言うように際限ない負債を押し付けられないよう独立するにはどのようにすればよのだろう。。



エクアドル前大統領ハイメ・ロルドス。彼はこれを体現していたと思う。

彼は、自国のインフラ工事を請負わせ、その担当がすべてアメリカ企業(ことに石油関連会社)にするというアメリカ政府のモンロー政権から起因する領土拡大論的政策に初めてNoといった人物である。



この政策は、エクアドルのみならず、南米諸国、東南アジアでは当たり前のように締結させられているもので、多くの国は自国の発展どころか、インフラ工事によって発生する債務超過によって苦しみ、国連会議などでのアメリカ票を投じるように取引を交わされるのである。


ロルドスは、こうしたアメリカの言い分に断固Noの姿勢を崩さず、甘い罠にはひっからなかった。

結果として、エクアドルはその当時負債を押し付けられることなく独立を果たしたのだ。

その後、彼と同じように、パナマのオマール・トリホスが独立を主張し、また、イラクではサダム・フセインがNoを主張した。



彼らがどのような宗教観を持っているかはわからないが、信念をもってこれを貫いたのだろう。

これは尊敬すべきだと思う。



しかし、彼らはどうなったか??

1981年 ロルドス、米軍ヘリに搭乗中墜落、死亡。

同三ヶ月後

1981年 トリホス飛行機事故により死亡。

2007年 フセイン、不当裁判により死刑。



これを見てどう感じるだろうか。

何もフセインが全く罪のない人間だったとは一切思わない。

しかし、これを見たとき、まるで映画の中のように巨大権力が見え隠れするのは気のせいだろうか?


独立を保つこともまた、信念が必要なんですね・・・

時には自分の命をかけてまでも・・・



自分はもちろん死にたくないが、最後まで貫く信念を持ちたいな。