晴れたり曇ったり、大雨が降ったりの1年だったけど、なんとか無事、大晦日までたどり着けた。

このブログも、ほぼ毎日更新し、1年間のアクセス数の累計は10万を超えた。


ブログはリハビリのつもりで始めたわけだけど、多分、ただ書いていただけではこうも続かなかったし、リハビリとしての機能も果たせていなかったと思う。

たくさんの読者の皆さんに読んで頂き、コメントも残してもらい、時にはプチメも送ってもらったり。

ヴァーチャルな空間ではあるが、そういう繋がりが、僕にとって精神衛生上、とても良い方向へ向かわせたのだと思う。


改めて御礼を申し上げます。

今年1年、ありがとうございました。


来年もこのペースのまま、ブログは続いていくので、引き続きご愛顧いただければ幸いです。


それでは皆さん、良いお年を。

ゴールデンウィークは、まず前半は嫁の実家に帰省した。

この時、体調はまずまずだったが、レキソタンごときでは全く眠れず、それがとても苦痛だった。

しかし、嫁の両親には悟られまいと、懸命に無理をしていた。

後半は、前々からちょっと贅沢をしようということで、東京の某高級ホテルを予約しておいた。

1泊2日の小旅行である。

しかし、この旅行中は絶不調。

水族館やお台場に行ったりしたが、食欲もだんだん無くなり、体はキツくなり、そして、せっかくの高級ホテルでは一睡も出来なかった。

このときの脈拍は130/minに達していた。

もはや限界だった。

帰宅して、ネットで色々調べてみると、頻脈はアモキサンの副作用としては割りと珍しくないものであることが分かった。

(kyupin先生のブログと出会ったのもこの頃である)


僕は、ゴールデンウィークが明けて、部署を異動したが、仕事よりもまずクリニックへ駆け込んだ。

しかし、医師は副作用については否定し、体がきついときにはレキソタン1mgを飲むようにと言われた。

この時初めて気がついた。

この医師はヤブだということを。


僕は、セカンドオピニオンを求めて、会社の近くの、開業したばかりの心療内科に駆け込んだ。

案の定、頻脈はアモキサンの副作用だと言われた。

そして、不眠に対してレキソタンが処方されていることに驚かれた。

処方はこのように変更した。

アモキサン25mg

デプロメール25mg

レキソタン2mg

マイスリー5mg

コンスタン0.6mg


3日も経つと、頻脈は嘘のように消え去った。

何故か倦怠感も消失した。

夜も完全とはいえなかったが、それなりに眠れるようになった。

僕は、今までの体調不良は全てアモキサンのせいだと思った。

そして、アモキサンさえ無くしてしまえば、全てが解決すると勘違いをしてしまった。


翌週、クリニックを訪れると、僕は早速アモキサンの断薬をお願いした。

医師も、50mg→25mgの減薬で、特に離脱も無く、むしろ体調が改善しているので、これはいけると思ったらしい。

要求どおり、アモキサンは断薬となった。

レキソタンも不用であろうということで、カットした。

ただ、睡眠が完全ではなかったので、マイスリーを10mgに変更した。

デプロメール50mg

マイスリー10mg

コンスタン0.6mg


その後3日は好調を維持していた。

しかし、4日目から、アモキサンの離脱症状であろう、妙な焦燥感が出始めた。

この離脱症状については過去に取り上げている。(参照 )


それ以降、僕の心身は急降下した。

不眠・倦怠感・焦燥感・不安感・抑うつ・食欲不振、そして希死念慮。

6月の上旬、僕はもう廃人になっていた。

そして、それまで表向き取り繕っていた体裁も、遂に保てなくなってしまった。


僕は、何故か医師の前でも具合の悪さを見せまいと思っていて、当初は平静を保っていたが、ここに来て、もうそれどころではなくなってしまった。

医師は、僕の状態が尋常ではないと判断し、効き目の弱いデプロメールをジェイゾロフトに変更し、ドグマチールも追加、その他も多少いじって、このような処方にした。

ジェイゾロフト100mg

ドグマチール100mg

アモキサン25mg

マイスリー10mg

レンドルミン0.25mg

コンスタン1.2mg

デパス0.5mg(頓服)

タケプロン30mg

そして、診断書を書いて、明日にも休職して、しばらく安静するように言った。

7月には、有休を使い切り、長期休職に入った。


そこから現在までの回復過程は、今まで書いてきたとおりである。


例の報告書にコメントを書いた所属長は、現在は何事も無かったかのように、隣の部署の部長になっているのだが、12/27にエントリで、

「忘年会で、心の古傷を再度開くようなメに遭った為だ。」

と、書いたのは、この部長の忘年会での発言によるものだった。


僕は、うつが悪化して以降、うつ病になったのは自分のせいだ、と思っていた。

こんなにも容態が悪化したのは、うつ病を利用して罪から逃れようとしたことへの天罰なのだとも思っていた。

そして、引き金があのコメントであったことは分かっていたが、僕は所属長を極力恨まないようにしていた。

恨みからは何も生まれない。

だから、所属長がとなりの部署の部長に就任したときも、極力平静を保って、緩やかな関係維持に努めた。


それなのに。

彼は忘年会で半笑いで僕にこう言った。

「こいつは仕事が全然出来ない。最初は出来るやつかなーって思ったけど、全然ダメだった。お前、もっと勉強しろ」

完全に酔っ払ってはいたが、これは間違いなく、彼の本心だろう。

いや、酔っていたからこそ、そうだと確信した。

つまり、彼には、僕のうつ病の原因が自分にあるとは微塵も思っていないし、責任も感じていないのだ。

発病のときの上司であったにも関わらず。


僕はこの瞬間に強い衝撃を受け、今まで心の内に抑えてきた恨みや他罰的な意識が一気に爆発してしまった。

それでもその感情は、帰宅するまでは表に出さないでいたが、嫁の顔を見た途端、一気に怒りが爆発してしまった。

延々と愚痴を言い、文句を言い、翌日にはうつ転して起き上がれなかった。

2008年がもう少しで終わろうとしていたその寸前に、僕の塞がりかかっていた心の傷は、再度こじ開けられてしまったのだ。


さすがに、1日寝込んだら、なんとか平常に戻ったが、どうにも感情は抑えきれず、こうやって4日もかけて、延々と愚痴にも近いことを書き綴っている。

全く自分が愚かしい。

が、これがきっかけで、過去の自分と対峙できたようにも感じられる。

書くことによって、何か分かった気もする。


今年も残すところあと1日。

怒りがどうにか収まった僕は、改めて考え直した。

やはり、恨みからは何も生まれない。

大晦日と正月で、自分の心を祓い、雪ぎ、もう一度心を、脳を整理整頓して、2009年を迎えたい。

来年の目標は、とにもかくにも、寛解である。


(おわり)

僕は心療内科に向かう途中、こんなことを考えた。

「これってうつ病だよな」

「うつ病って、治るんだよな」

「うつ病であることを、会社に報告すれば、僕への叱責は無くなるかもしれない」

「むしろうつ病のほうが都合がいいのでは?」

認識の甘さと、擬態うつ病的発想であった。


訪れた心療内科は、インターネットでも散々宣伝をしており、テレビや雑誌でも何度か取り上げられていた、有名なクリニックだった。

つまり、繁盛しており、診療時間が非常に短かった。

初診時は、多分15分もかからなかったと思う。

僕は、今の自分の状況と、精神状態を医師に伝えると、いとも簡単に薬を処方した。

アモキサン25mg

セルシン2mg(頓服)

これが僕の治療生活のスタートだった。


自宅でアモキサンについて調べてみて、このときこれが抗うつ剤であることを初めて知った。

そしてセルシンが抗不安薬であることも。

「やはりうつ病だったのか・・・」

と思うと同時に、

「これで叱責は止み、僕のミスは許される」

と、甘いことを考えてしまった。


年が明けて1月。

2度目の受診をした際に、僕は医師に、自分がうつ病なのかを聞いてみた。

すると医師は

「まあそうでしょう」

と、わりと適当に返事をした。

そして、アモキサンが50mgに増量され、セルシンがレキソタン2mgに切り替わった。


僕は正直、うつ病というお墨付きを得たことで、安堵してしまった。

これでミスは帳消しだ、と。

うつ病を自分の利益のために利用した、まさに擬態うつ病である。(後にそれは擬態ではないことが分かるのだが)


早速所属長に、自分がうつ病であることを告白した。

これには、さすがの所属長も戸惑ったらしく、それ以降叱責されることは無くなった。

しかし、その他に何かケアをしてもらった訳ではない。

その後も通院しつつ、普通に仕事をしていた。

普通に残業もしていた。


医師からは特に何の指導も無かった。

アモキサン50mgで効いているならいいね、ということで、その処方が漫然と続いた。


今思えば、これが大きな間違いだった。

本来であれば、この時点で休職して療養すべきだったのだ。

今更後悔してもどうしようもないのだが。


アモキサン50mgで、しばらくは安定していた。

しかし、2月の下旬、容態が突如変わる。

夜、全く眠れない日が続き、やがて微熱と倦怠感が続くようになったのだ。

僕は最初、ただの風邪だと思った。

そして近くの内科に行き、葛根湯をもらって飲んでいた。

それで一旦は持ち直すものの、1週間後にはまた微熱が出るようになった。

不眠と倦怠感も徐々に悪化していった。

さすがに不安になった僕は、今度は総合病院に行き、血液検査もしたのだが、異常なしだった。


この時、初めて自分の脈が異常だということに気がついた。

常に100/minを超えているのである。

これはおかしいと思い、再度内科を受診するも、血液検査で異常なしだったので相手にしてもらえなかった。

しかし、現実として微熱・頻脈は続き、倦怠感は日に日に悪化しているわけで、僕は自分の体のどこかが絶対におかしくなっていると思い、さらに別の内科を受診した。

まさにドクターショッピングである。

その挙句、そこで出た回答は

「自律神経失調症、的なもの」

という曖昧なものだった。

そして、

「あとは心療内科で相談してください」

と、さじを投げられてしまった。


仕方なく、心療内科で相談をしたところ、

「倦怠感や微熱はよく分からない」

「頻脈は心に緊張があるからであり、緊張がほぐれれば自然に回復する」

「不眠に対しては、眠前にレキソタンを飲むように」

という、今思えば非常に適当なことを言われた。


体の不調は3月も続いていた。

それでも僕は普通に働いていた。

しかし、さすがにこのままのポジションで働くことに対して、すっかり自信を無くしていた僕は、取締役や人事部と相談の上、5月の連休明けから部署を異動させてもらうこととなった。


5月に異動するとなれば、4月中には自分の仕事を別の人に引き継がなければならない。

しかも、僕の会社は、4月は繁忙期だ。

僕はうつ病で、体調も悪く、しかもあまりよく眠れていない状態だったにも関わらず、引継ぎ業務を強行して、残業もしまくっていた。

もう、自分の負の遺産を後任には残したくなかったので、必死になってしまった。


こんな状態でも、何とか4月は乗り越えた。

しかし、ゴールデンウィークに、僕の心の糸は切れてしまった。


(つづく)

5年目。

4月になって約束の人員の増員があった。

新卒の女の子2人。

共にスーパー高学歴。

「これで僕にどうしろと?」

という感じたった。


彼女たちは確かに頭が良く、仕事もてきぱきやってはいたが、所詮は新人である。

一から教えなければならない。

僕は、彼女たちに顧客を引き継ぎつつ、新人教育も並行して行った。

結局のところ、人は2人増えたが、僕の仕事は3人分になった。


だが、ここでも僕はなんとか持ちこたえた。

無事、結婚式も挙げることが出来た。

1週間の新婚旅行は、久々に「義務」から解放された、とても楽しいひと時だった。


やがて夏が来た。

今思えば、この頃から僕の精神はおかしかった。

平日は必死に仕事をしていたが、土日は寝たきり。

しかも、愚痴が増えていた。

「もう新人の相手なんかしたくない」

嫁にいつもそんなことを言っていたらしい。


僕の会社では、夏に会計上のミスや不良債権を整理するのが慣例だった。

僕は、新人の女の子たちに引き継いだ得意先で、僕の時代から発生していた不良債権や、意味不明の余剰金などを、そのまま放置することは出来ないと思い、あれこれ調べて、必死になって帳簿上の矛盾を消していった。

だが、必死になりすぎたあまり、不正会計処理的なこともやってしまった。

金額的には10万円未満の小口を数件だけやったに過ぎないが、不正は不正である。

しかし、今となっては、その不正をどうやったのか、自分でもよく覚えていない。

既にうつが発症しかけていたのだと思う。


秋になって事件が起きた。

女の子に引き継いだ得意先で、毎年3000万円程あった取引規模を2000万前に減らされたという。

減った分の1000万は外資系企業に流れた。

所属長は、過去にこういった大幅な売上減少を経験したことが無く、非常にショックを受けたらしい。

そして、その原因を得意先から必死に聞き出そうとした。

結果、出てきた答えは

「これのさんがあまり営業をしていないから・・・」

というものだった。

数年前からくすぶり続けていた不満は、このような形で露呈した。


所属長は、それまで僕のことを高く評価していたが、この1件で酷く裏切られた気持ちになったらしい。

そして、それをそのまま、僕に伝えてきた。

「正直言って、お前には裏切られたよ」

そして、取締役も交えて、散々叱責を受けた。


僕はこれまで、1000万程度の売上減など些細なことだと思えるほどに、売上を伸ばしてきた。

しかもロクに教育も引継ぎも無く、手探りの状態で。

それに僕は散々言っていた。

「このままじゃ僕も仕事も、どうにかなっちゃいますよ」

と。

にも関わらず、所属長は慌てふためき、僕を責め続けた。


数日後、この件に関して報告書を出すことになった。

もはや報告書というよりも始末書である。

僕はヘタな言い訳などしたくなかったので、

「全ては私の不徳と致すところです。申し訳ございません。」

といった内容のものを提出した。


所属長はこの報告書を見てこう言った。

「もっと言い訳を書け」

「私はここまでこうやって努力してきたけど、結果的には外資に売上を奪われましたと書けばいい。」

僕はこのとき、この人は散々僕のことを責めてはいたが、最終的には守ってくれるのかな、と思った。


ところがである。

報告書は

所属長→(部長は空位の為スルー)→本部長→別の部署の本部長→監査の部→常務

と、経由して、最終的に僕のところに戻ってきたのだが。

その報告書に所属長が赤ペンで信じられないコメントを書いていた。

「本人にはこの程度の認識しかない」

書け、と言った本人に、そう書かれたのである。

そして、そのコメントはお偉方を一周したのである。

たった15字のコメントだが、これによって僕は完全に営業マン失格の烙印を押されたかたちとなった。

誰一人として、上司としての責任は取らず、100%僕のミス、ということになった。

「正直言って、お前には裏切られたよ」

というセリフは、むしろ僕が言いたかった。


しかも、なんとも間の悪いことに、僕が夏にやっていた会計不正処理が、このタイミングで明るみに出てしまった。

金額的には小さいので、普通だったらお咎めなしの範囲だった。

しかし、所属長は完全に僕のことを切り捨てており、いかに自分の出世に影響が出ないかを考えていたらしく、この不正処理についても散々叱責はしつつも、決して助けてくれようとはしなかった。


「定年退職した、あの部長がいたら、うまくもみ消して、ちょっと注意されて終わっていただろうに・・・」

と僕は思ったが、もうどうしようもなかった。

新人の女の子たちの前で、僕は散々叱責されたので、会社での居場所がなくなってしまった。


食欲も無くなり、ため息ばかりつくようになり、会社に行くのが辛くなった。

毎朝嫁に

「会社に行きたくない」

と言いつつ、出勤していた。


嫁は、この僕の変化がただ事ではないことと感じ始めていたらしい。

そして、年の暮れ、僕に心療内科に行くように言ってくれた。

僕は何がなんだか分からないまま、とにかく嫁の言うことを聞き、とある心療内科を訪れた。


(つづく)

年内に書くつもりでいた今年一年の総決算エントリは、僕の脳内閣僚会議の末、年明けに先送りすることとなった。

第2次補正予算の可決と同じ頃になるのではないでしょうか(笑)


まあ、それというのも、軽くうつ転気味のところへ、昨日の忘年会で、心の古傷を再度開くようなメに遭った為だ。


せっかくなので、封印していた僕がうつ病になった経緯をここでまとめておこうと思う。



僕は、今の会社に6年前に転職したのだが、当時の会社は人的にかなり余裕が無く、入社したての僕に、大した研修もせずにいきなり仕事を引き継ぎさせられた。

女性の係長が、2週間後に異動するので、それまでに彼女の仕事を全部引き継げというのだ。

正直、これは非常にきつかった。

何も分からないままあちこちに連れて行かれて、方々で挨拶を繰り返し、そして2週間後からは問い合わせの電話やFAX、メールが殺到。

しかし、入社したての僕は何がなんだか分からずに、ものすごく時間をかけて仕事をしていたのだが、それでも追いつかずに、未処理のまま消え去った仕事が何件も発生した。


一応「指導社員」というものが存在したが、彼は大きなプロジェクトにかかりきりで、ほとんど社にはいなかったので、ロクな指導をしてもらえなかった。

で、その代わりに、僕の所属長が指導をしてくれたのだが、その人が今時絶滅危惧種かと思うくらいに怖い人で、暴力は無かったものの、理不尽な罵声を散々浴びせかけられた。

そんな状態なので、仕事は増える一方なのに、上司にに聞くのは恐ろしくてそれも出来ず、手探りで仕事をし続けていた。

ただ、そんな過酷な状況の中でも、部長がかなりの人格者で、所属長の暴走を抑えつつ、僕をあれこれと支えてくれたので、僕はすっかりその人を尊敬してしまい、なんとか会社は辞めずに踏みとどまれた。


しかし、仕事は減らずに増え続け、そして手がつかないまま消滅している状況は変わらない。

当然、消滅した分は得意先の不満となって蓄積されていた。

それでも僕は、消滅している仕事以上の物件をかき集めて、年々売上を伸ばしていた。

さらに、これは僕の特徴でもあるのだが、数千万単位の大きな仕事を毎年受注していた。

当然、そういう特別な仕事を持ってきてしまうと、経常の仕事は疎かになるのだが、僕は全体で増えていれば文句が無かろうと思い、そのまま仕事をし続けた。

この僕の姿勢には、部長も所属長も文句が無かったらしく、特に何も言わなかった。


やがて4年が経ち、部長は定年、所属長は異動となった。

ここで僕の状況は一変する。

部長の座は例外的に空位のままとなり、所属長だけが他から異動してきたのだが、この人事が後に僕の精神に大きな傷を負わせることとなる。


4年目。

新しい所属長の下、仕事を続けていたのだが、この年はどういうわけか数千万どころか億を超えるような仕事も受注していたため、目の回るような忙しさだった。

さすがに僕も疲れてきて、

「このままじゃ僕も仕事も、どうにかなっちゃいますよ」

と、常々愚痴るようになった。

しかし、新しい所属長は気にも留めず、僕は膨大な仕事量を抱えたままの状態が続いた。

そしてその陰で、ある得意先では僕に対する不満がどんどん蓄積されていた。


4年目をほぼなんとか切り抜け、大きなプロジェクトも一通り終えた僕は、次の春に結婚することとなった。

仕事はひと段落したが、今度は私生活が忙しくなってきた。

でも、これは全然苦にならなく、むしろ楽しかった。


ところが、である。

ここでとんでもないハプニングが発生した。

年度末に中堅社員が一人、退職したのである。

彼は超大手の得意先1箇所を担当していた。

相手が超大手だけに、その担当は、その得意先専属にならなければ到底手に負えないのだが、彼の穴を埋める人間がいなかった。

そして、ここで毎年大型物件を受注し、全体の売上も堅実に伸ばしていた僕に白羽の矢が立った。

所属長は、春には人を補充するから、2ヶ月間、この得意先の担当をして欲しいと言う。


ここから、僕の仕事は2人分になった。

しかも春には結婚式を控えていて、休日も準備で忙殺されていた。

何がなんだか分からなかった。


分からないまま、2ヶ月が過ぎた。

その間も、別の得意先では僕に対する不満がくすぶり続けていた。


(つづく)