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昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

たった一度数時間とはいえ、一応会ったことあるし年も上だから数回前の記事では

元オウム真理教幹部の上祐史浩氏のことを「上祐さん」と書いた。

だけど、オレが「上祐さん」と書くと、違和感をおぼえる方もいるかと思い、

前回は「上祐氏」と書いておいた。

今のところ、その件に関して記事を書くにあたり、どちらの表現にしようか

定まっていないのでご了承をいただきたい。

 

そうそう。違和感といえばだが最近気づいたことがある。

今回は短い疑問の回。

今って、コンプラの問題かなんかしらないけれど、「ネットやテレビで使っちゃいけない字」が

あるのか??

 

過去記事でラストにも張りつけたけど、youtubeで裏社会ジャーナリスト丸山ゴンザレス氏の

上祐氏との対談↓を観ていたら、途中字幕で「坂本弁護士一家●人事件」と表示されていた。

 

使っちゃいけないのかもしれないから、ここでははっきり書かないが、この伏字になっている「●」の字。

別に放送禁止用語でもなんでもないのに表記しちゃいけなくなったのだろうか。

すこし前に見たバラエティ番組でも、出演者のいった言葉にテロップが「●す!」と入っていた。

 

あと、もう1字。使っちゃいけないのかもしれないから、

これもはっきりと書かないでおくが、この字を使っている言葉は

「バラバラ●体」「臨●体験」などなど。

人間が必然的に向き合わないといけない言葉だから、放送禁止用語みたいな扱いにすることはタブーの

ようにも思えるのだが、これもまたYouTubeとかを観ていると伏字になっていたりする。

何故?

普通に生きていれば現実社会でもテレビの中でも小説の中でも目にする言葉文字ではない

だろうか?

 

今使っちゃいけないならば、オレも記事書くとき気をつけないといけなくなる。

 

はっきりいえばオレの勉強不足、情報不足なんだけれど、もし今後伏字にしないといけないので

あればその理由を誰か教えてください。お願いします。

 

今夜はひとつのフラグを立てる。

ただし実現率は1%ほどだと思っていただいて良い。

 

 

 

早い。事件当時はまだ20歳の大学生だった。

当時生まれた子供がもう、三十路になるのだと思うと

複雑な心境だ。

 

オウム真理教がおこした地下鉄サリン事件から30年経つ。

それにともない今一番したいことがある。

はっきりいおう。

元オウム真理教の広報担当である上祐史浩氏との対談である。

オレは無宗教派でもちろんオウム元信者でもなんでもないが上祐史浩氏とは

一度会って話したことがある。自称フリージャーナリストとして。

だから厳密にいえば再びの対談というか面談。

前にも書いたが、どんな人がオウムに、また麻原彰晃にハマってしまうのかをしりたくて

上祐氏が代表をつとめる「ひかりの輪」に連絡を入れ、上祐氏の講話会参加という

名目ではじめて上祐氏と話をしたのは今からちょうど8年くらい前である。

(アメンバー記事でもアップした)

昔いた、いわゆる上祐ギャルみたいな軽い人間とは一緒にしないでいただきたい。

自称ジャーナリストとしての真剣な関心である。

地下鉄サリン事件30年の節目として改めて真剣にいろいろ訊いてみたい。

 

当時上祐氏の講話会のメインの内容は歴史などだった。

だが、申しわけないがオレのメインの興味はイベントの最後に設けられた

上祐氏との1対1の面談だった。

 

当時、あれだけメディアに出たおして周囲を煙に巻いていた上祐氏。

事件当時からとても興味があった。(念のためにいっておくが宗教家としてではない)

ふたりで1時間ほど話した。

 

実際会って話をしてみるとやはりとても頭がキレる人物だという印象だった。

こちらがしたどんな質問にも雑学的な知識をプラスして答えるのである。

講話会後の個人面談という前提があるので、残念ながらオウムや麻原に関する質問はできない

ので、オレが「友人が鬱病に罹ってしまったのですが、どうしたらいいですか?」と

質問すると、上祐氏は「鬱秒には4種類あるんですけど……」と詳しく話しだして

くれた。その知識の豊かさには驚いた。やはり頭がいい。

(ちなみに鬱病にはヨガがいいらしい。今鬱病なのでこれは参考にしたい)

 

決して擁護するわけじゃないが、各文化人が書いたいろんなオウム参考文献や

上祐氏が書いた著書などを読む限り個人的に今の上祐氏およびひかりの輪に

危険性があるとは感じない。

 

 

――

有名大学出身のエリートたちは、なぜカルト教団にのめり込んでいったのか。
なぜ予言が外れ、真実が明らかになったあとも妄信し続けたのか。
ジャーナリストの田原総一朗氏が、元オウム真理教の広報担当・上祐史浩氏の、

今まで語られなかった“本心"に迫る対談。

上祐さんのお話は、
人間というものの弱さと強さを、
この上もなくわからせてくれる。――田原総一朗

(amazonより引用)

 

何年も前にこの本を図書館で借りて読んだ。

ジャーナリスト田原総一朗氏と上祐史浩氏の共著。

田原総一朗氏も危険性はないようなことを書いていたと記憶する。

 

ひかりの輪のホームページを見ると、オウマ―(オウムの元信者をSNSに晒して

話題を集めようとする人)の講話会の参加はご遠慮いただくと書いてあった。

だから、さっきも書いたが講話会での面談で地下鉄サリン事件をはじめとする

一連のオウム関連の質問はできない。

 

なので、今度は真正面からひかりの輪の広報を通して、地下鉄サリン事件および

麻原彰晃についていろいろと上祐氏の取材をさせてもらえないかとか考えてみた。

なんだろう、個人でも用意できるくらいの取材費支払えば、受けてもらえそうな

気もするのだ。新宿ロフトとかでもイベントとかたくさんやっている様子だし。

まだまだメディアが報道していないこととか多いと思う。

「朝まで生テレビ」のようなことを、この昭和80年代クロニクルでやりたいと

思っている。

以前向きあったときは得体のしれない恐さにビビッてしまい無難な質問しか

出来なかったが、今度は上祐氏とオウムの闇や地下鉄サリン事件について語り合いたいと

いう願望がすごくある。

(前に記事にしたが丸山ゴンザレスがYouTubeでやっていたように)

 

上祐氏は地下鉄サリン事件について、どう思っているのだろうか。

先週の日曜日に放送されたMrサンデーで短いインタビューに答えていたが

事件についてはあまり語っていなかった。

もしくは語っていたけど編集でカットされていたか。

 

オウムについては、麻原を妄信してしまったと言っていたが、実際会ってみて

あれだけ頭のいい人間が麻原に騙されるとはオレには考えられなかった。

上祐氏は麻原を信じたのではなく、ただ、オウムという自分の居場所を守りたかった

だけではなかったのだろうか。

そのへんも訊きたい。

上祐氏ももう62歳だそうだ。

相変わらず公安にマークされているが、62歳主導で国家転覆はさすがに無理だろう。

 

 

まだまだ各媒体が掘り下げていなかったり放送していないオウムの事実や地下鉄サリン事件を

このブログで書いていきたい。

対談の内容を今度はアメンバー限定記事じゃなく、通常公開していろんな人にオウムと

上祐氏の真実をしってもらえたら嬉しいし、オレもいちブロガーとして記事を書いた甲斐が

あると思う。

 

とか書いてきたが、さすがに今回はふたたびひかりの輪にアクセスすることはないと思う。

でもわからない。世の中に100%というものはないのだ。

 

一回目に会うときも、その前に「おそらく(上祐氏講話会および面談の参加は)ない」と

記事にしたが、結局その後に上祐氏に会った。

元連合赤軍の植垣康博さんのやっている店に行ったときも、その前に

「静岡の店は遠いのでおそらく行かないと思う」と記事にしたが、結局数年後静岡まで

行って植垣さんに会い、いろいろ話して記事にした。

だから今回もどうなるかわからない。

 

1%。

そう、オレがひかりの輪に地下鉄サリンおよび一連のオウム事件について語る上祐氏との

対談を希望する連絡を入れる可能性。

そして、それが実現したとして、その内容を記事としてここに書く可能性。

 

取材費要求されたら2時間1万円くらいまでなら出す価値あるだろうかと考えている。

 

今もう、日本人の数分の一がオウム真理教や地下鉄サリン事件を知らないというところまで

来ているらしい。

事件を風化させてはいけない。

同時にメディアの情報を鵜呑みにしてもいけない。

オウムだけではない。カルトは今も勢力を伸ばし続けて、純粋な若者が、いや、若者だけじゃなく

すべての純粋な人が餌食になっている。

自分がハマらなければいいという問題ではない。

我々はどんな人がカルトにハマってしまうかということも知っておく義務があると思う。

それがいい社会を作ってゆく基板となるのだ。

 

素人ができることには限界がある。

だけど、だけど……

あさま山荘事件と同様に、オウムそれ以外のことも自分の目や足で探れることはできる限り

自分で調べたい。

会えるのならば、そのキーマンに会ってでもだ。

 

1%。上祐氏との再会の可能性。

オレの好奇心次第でこれが100%になるかもしれないし、0%になるかもしれない。

期待するかしないかは皆さんにおまかせする。

 

①ちゃんぽん

 

汚い話で申し訳ないが、この前呑みに行って帰ってきてから久々吐いた。

ベッドに入っていたら、夜中急に気持ち悪くなって、店で食べたものを

ぜんぶ出してしまった。

 

安かったからビールだけじゃなくいろんな酒呑んだから、ちゃんぽんしちゃった

のかと思ったけど、違うらしい。

 

この前、「マツコ有吉のかりそめ天国」を観ていたら、ブラックマヨネーズ小杉が

言っていたんだけど、「ちゃんぽんする」というのは、いろんな酒を呑んだのが

胃の中で混ざって悪酔いするのではなく、味が変わるからたくさん酒を呑んでしまう

だけだとのことだ。

 

そうだったのか。

だったら呑んだ総量の問題で、何種類の酒を呑んだとかまったく関係ないのだな。

たしかにそのときは、友人からペースが早いといわれた。

今度から数種類の酒を呑むときは気をつけようと思った。

 

 

 

 

 

 

②井の頭公園の都市伝説

 

先週ちょっと用事があり、昼間久々吉祥寺までひとりでいってきた。

目的地の近くだったので、せっかくだから井の頭公園にも立ち寄る。

人がすごく出ていた。

障害者手帳があるので、園内にある自然文化園の水生物館も無料で入る

ことができた。オオサンショウウオとか久しぶりに見た。生で見ると

けっこうな迫力だ。

閉園まで時間があまりなかったので、道路挟んで向かいにある動物園は

いくのを断念。

自然文化園をでたあとは池の周りを散策した。

 

池の上はボートで賑わっていた。

画像にはあまり映っていないが、池はとても広く奥のほうにもボートがいっぱい。

 

 

都市伝説もどこ吹く風。

そう、井の頭公園といえばあの有名な都市伝説。

 

「井の頭公園の池でスワンボートに乗るカップルは別れる」

ところがどっこい、池の上はカップルが乗る(普通の含む)ボートでいっぱいだ。

 

今の若いカップルは井の頭公園の都市伝説をしらないのだろうか。

それともしっているけど、そんなもの信じない。私たちの愛はそんな噂よりも

強いのヨ!フン!といった感じなのだろうか。

 

でもね、これも単なる確率の問題だと思うわけ。

カップルっていうの存在は継続するよりもいずれ別れる確率のほうがはるかに

高い。

だから必然的に井の頭公園のボートに乗ったカップルも別れる可能性が高いと

いうだけのことのように思える。

 

でも、デマは嫌いだけど、都市伝説ってなんか好き。

ネッシーみたいな感じで夢があって面白い。

 

果たして井の頭公園の都市伝説の真偽は??

 

 

 

 

 

 

③ストロングドライチューハイ

 

今年は地下鉄サリン事件30年という年。

大谷ばかりのテレビ局もさすがに特集を組んだりしている。

日曜日はフジテレビの「Mr・サンデー」でやっていた。

元オウム真理教幹部の上祐史浩氏が取材を受けるとのことで

観ていた。

ちょっとインタビューが短かった。あと編集の仕方が公安寄りだったのは

しょうがないか。

 

ところでオレは社会派番組や情報バラエティ番組およびアングラな番組を観る際、

‘お供’として、視聴しながらたまに呑んでいる酒がある。

 

「ストロングドライチューハイ」

 

 

 

ロピアで売っている。500mlで100円。

アシードブリュー株式会社というところが出している。

ブランドは違ったが、埼玉のロヂャースでも安いチューハイを売っていたのを

憶えている。

 

安いけど、はっきりいって100円の味。

単純に味でいえば、サントリーのストロングゼロのドライ500mlのほうが

全然美味い。

でも安いから買ってしまう。

 

この量で100円なだけに、薬品的なクセがある

最初に買ったときは受けつけなかったが、へんなものでだんだん慣れてきた。

いや、慣れてきたというか、観ている番組によってはこの薬品感がアングラな味に

感じて吞めてしまうのだ。

 

とくに合う番組がTBSの「クレイジージャーニー」。

裏社会ジャーナリストの丸山ゴンザレスが登場しているときのアングラな企画の

ときなんかとくに合う。

昨日の放送でも丸山ゴンザレスがでていたので、このストロングドライチューハイを

呑みながら観ていた。

アングラな映像を観ているときは、アングラな辛口の安酒が似合う。

 

無糖はあまり得意なほうじゃないのだが、ドライチューハイは観るテレビ番組に合わせて

よく呑む。

選挙特番とかも、よくサントリーのスロトングゼロドライを呑みながらみるかな。

あと、政治、哲学記事をブログに書くときも、ドライを呑みながら書く。

今この記事もアシードブリューのストロングドライチューハイを呑みながら書いている。

 

テレビ観るのもブログ記事執筆するのも、政治、哲学、アングラにはドライが

しっくりくる。

 

すこし前、ラーメンブロガーZATSUさんのブログで国立駅前に新しい

油そばの店が出来たのをしり、この前行ってきた。

 

『元祖油堂 国立店』

東京都国立市中1-8-2

詳しくはココ→ZATSUさんのブログ

 

 

駅すぐ前のロータリーに面している。

ここ、以前、松屋が入っていたハコだ。

ずっと昔、通勤で国立駅を利用していたとき、金曜の夜とかよく

仕事帰りにここにあった松屋寄って、牛丼テイクアウトして帰ったり

していたから思い入れのある場所だ。

ちなみに松屋はすぐ近くに移転して営業している。

 

13時過ぎに訪問して先客は4名ほど。

タッチパネル式券売機。

 

油そばは並盛150g、大盛225g、特盛300gとあり、いずれも880円。

がっつり食いたい気分だったのでここは特盛にした。

 

席について待つ。

ドリンクはセルフサービス。

店の奥にデトックスウォーターとジャスミンティーと黒烏龍茶の3種類が

あり、好きなのを自分で選んで持ってくる。

長く生きてきたが、生まれてはじめて黒烏龍茶なるものを飲んだ。

普通の烏龍茶との違いはあまりわからなかった。

 

待っている間、3組ほど若い男女のお客さんが入ってきた。

券売機で券を買ったあと、そばにいる店員さんが

「油そば○盛ですね」

というので、それが自然と耳に入ってくるのだが、女性が並盛を頼むのは

わかるが、男性はふたりとも大盛のようだった。

今の若い男子は特盛を食べないのだろうかと、ふと思った。

 

数分したら油そばが来た。

 

「油そば 特盛」 880円

 

 

麺は中太だろうか。

具はネギ、メンマ、チャーシュー。

 

卓の前の無料のニンニク、玉ねぎ、紅生姜があるので好きなのを入れていい。

玉ねぎは食えないので、ニンニクだけ入れた。

 

他にお魚粉、カレー粉、酢、カエシ、青のりなどのたくさんのトッピングが置いてある。

 

箸を丼に底に入れて、思い切りグリングリンかき回してからすする。

 

タレがサッパリ系でかすかにすっぱいような感じ。

もうちょっとドロってしててもいいかもしれない。

このへんは卓上にあるものを使って味変コントロールといったところか。

 

最初目の前に丼がでてきたときは、けっこうボリュームあって映ったので全部食べられるか

不安になったが、いざ食べるとスルスルと麺が胃に収まっていった。

腹はいっぱいになった。

 

 

9年前くらいに「遺伝子ぼっちゃん・遺伝子お嬢ちゃん」という記事でも書いたが、

世の中には他人にたいして強く叱ったり強く怒ったりできる人間がいる。

 

そういう人達に限って、そんな自分の強気な性格や人間性を当たり前だと

思い込んでいる。

違う。気づいて欲しい。

自分たちが他人にたいして強くモノを言えるというのは決して当たり前じゃない

のだ。

当たり前どころか周囲に比べて、ものすごく恵まれているのである。

それをわかっていない。

 

この言葉嫌いだからあまり使いたくないが「努力」とか経験とかに関係なく

親が無条件で、「人に強く言える性格」を与えてくれたのである。

 

強気な性格、欲しいか欲しくないかといわれたら誰だって欲しいに決まっている。

だけど、オレふくめ多くの人が親からもらえなかったのである。

俗にいう「人に強く言える性格」の人は、そんな周囲の人がもらえなかった形なきものを

親からもらったわけである。

オレからいわせてもらえば、地球上でこんなに恵まれている人はいない。

 

「オレは言うことは言う人間だから!」

「わたしはこういう性格だからね!」

当たり前のようにこういうけれど当たり前じゃないのだ。

ものすごく恵まれているのだ。羨ましいのひとことに限る。

可哀想なところは「自分は言えて当たり前」と思いこんでいるところである。

強気な性格を親からもらって当たり前という感覚は、オレからみれば

車を親が買ってくれて当たり前という感覚と差はない。

経済的ぼっちゃんお嬢ちゃんならぬ、強気な遺伝子をもらって当たり前と

思っている遺伝子ぼっちゃんお嬢ちゃんである。

 

もっと範囲を広めて哲学的に語れば、すべてひっくるめて世の中に

「当たり前」など存在しないのである。

 

類似語で普通という言葉があるが、普通というものも存在しない

世の中で「普通」といわれているものは要するに「平均」なのだ。

つまりは割合の問題。割合を多くしめるモノが普通と呼ばれる。

 

「当たり前」も同じ。

大多数を占めるモノが「当たり前」と呼ばれ、少数派が「当たり前じゃない」

とされるということだ。

 

ちょっと前の時代だと、男性は女性が好きで、女性は男性が好きで当たり前という

価値観だった。

同性が好きな人が「当たり前じゃない」とされてきたのである。

でも時代とともにそれも変わってきた。

今はどちらも特別じゃない。

つまりは割合だけの問題。

世の中には異性を好きな人のほうが圧倒的に多いというだけで、少数派の人たちは

確実に存在する。

少数派の人たちが存在する以上、どんなに多数派が多かろうと多数派は当たり前では

ないのである。

 

もっと極端な話をすると、「人を殺したいと思わない」という感覚も決して

当たり前ではない。

(最後まで読んでいただければ誤解はないと思うが、決して殺人を肯定している

わけではない)

 

神戸児童連続殺傷事件の犯人である酒鬼薔薇聖斗もそうだが、たまに凶悪殺人事件で

サイコキラーが逮捕されると、供述で「人を殺してみたかった」などと言うことがある。

 

多くの人がその発言を‘オカシイ’と思うだろう。

たしかにオカシイのだ。

オカシイがその感覚は決して「当たり前じゃない」わけではない。

実際に「人を殺してみたかった」という人間が一人以上いるという事実があるだけで

当たり前という定義は消滅する。

だから当たり前じゃないという定義も同時に消滅する。

 

話を戻すと、当たり前というのは単なる割合、つまりはパーセンテージの問題であり、

世の中には、「人を殺したいと思わない」人間のほうが圧倒的に多いというだけである。

まだ事件は起こしていない、あるいは、起こしたけど捕まっていないシリアルキラーも

日本はじめ世界にはいると考えられる。

いいかえれば(ものすごく少ないだろうが)少数派の存在があるということだ。

 

よって、オレその他多くの「人を殺したい」と思わない人は、決して「当たり前の感覚を

持っている」わけではなく、単純に「多数派」というだけのことである。

 

世の中に「当たり前」「当たり前じゃない」などという定義は存在しない。

ただ、多くの人々が「多数派に属している」というだけのことである。

 

殺人鬼の例はまあ極論だが、他のことにおいて少数派の人たちを当たり前じゃない人たちと

特別視して排除する考えはもう排除した方が良い。