運命 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

テレビ東京でやっていたロバート秋山のバラエティ番組を

観ていたら、ゲストの大黒摩季が何気ない会話の中で

「運命は自分で切り開いてゆきたい」

といっていた。

 

この言葉、昔からいう人多い。

 

果たして運命とは自分で切り開いてゆけるものなのだろうか。

 

昔からなのだが、オレはあまりそう思わない。

 

いってみれば

「その人が自分の運命を切り開いてゆけるかどうかという結論も

既に運命で決まっている」

と考えているのだ。

 

たとえば、プロ野球で怪我から復帰して活躍した人がいたとする。

その人は怪我で絶望的という運命を切り開いたのではなく、

運命が切り開かれることまで含めて、固定された運命で決められていたわけである。

 

復帰できなかった人がいたとしたら、それは運命を切り開けなかった

ということまで含めて運命で決まっていたわけである。

 

運命とは既に決まっている将来のこと。

 

そもそも思うのだ。

自分の力で切り開ける程度の事象であるならば、運命という言葉が

この世に存在していることが既に矛盾である。

存在しないことを表す言葉など存在しない。

 

切り開けるものなのであれば、それはその時点で運命ではない。

単なる現象に過ぎない。

 

成功者や帰還者は自分では運命を切り開いたとかセミナーとかで

語っていそうだが、それは成功するということが既に運命で決まっていた

のである。

そして、そういう人達が揃って

「運命は自分で切り開けるものだ」

とよく口にするということもまた運命で決まっていたことなのである。

 

オレのこういう意見を否定する人たちもまた、オレのことを否定するという

運命のもとにあるわけである。

 

努力で変えられるくらいならば、運命なんて言葉はいらない。

そもそも

「運命を切り開く」という言葉が文字通り矛と盾をしているわけである。

水を燃やすといっているようなもの。

いかなる力をもっても切り開けないもの。それが運命なのだ。

 

オレはスピリチュラリストでも宗教家でもないが、運命を自分で切り開く

という言葉にかんして、息苦しさを感じていたのでちょっとだけ書かせて

頂いた。