史江 約束の熊よけ鐘 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

                                            初回2019年5月19日「史江」

                                            前回2020年1月9日「史江 ふたたび」

 

窓の外が白くなってきて私の目は醒めました。

まぶたが開いた瞬間、視界に入った見慣れない天井の木目と、窓の外から

耳に流れ込んでくる清流のささやき、それに布団から飛び出した足の

裏をなでるかすかな隙間風が、ああ、私は東京を離れて温泉地にきている

んだなあということを実感させてくれました。

場所が変わればやってくる朝も変わるものですね。

 

布団からでて窓を開けると、朝の匂いがしました。

川面を走るように低く飛んでいた二羽の鳥たちが上昇したと思ったら

瞬く間にそのまま対岸の林の向こう側へと消えてゆきました。

あの鳥たちの背中に乗ることができたら、どんな素晴らしい景色を見ることが

できるだろうなんて考えました。

今でも東京の空の下ではあわただしく、そして気だるい時間が流れている

ことだろうと私は心地よい背徳感を感じたものです。

 

目覚めた瞬間、心地よかったと同時に正直ちょっとだけ恐かったのです。

実は史江さんも史江さんと過ごした時間もすべて夢で、ここから

階段を降りていったところにある内湯手前の部屋には誰も泊まっていない

のではないだろうかと考えてしまったのです。

昨日おこったことがすべて現実であってほしい。そう思っておりました。

 

階下からは包丁のトントントンという小気味良い音が響いてきます。

ないとう旅館の朝食は7時半です。

時計を見ると7時をすこしまわったところでした。

女将さんが朝食の用意をしてくれているのでしょう。

 

朝食まで多少時間があるので、私は朝風呂を浴びに内湯の男湯にいこうと思いました。

宿のお香は朝早くから焚かれているようで、二階の廊下には一階玄関から

流れて来る匂いがかすかに漂っていました。

 

階段を降りると内湯の扉にゆく前にまず玄関に向かいました。

史江さんの靴がしっかりとありました。

よかった。夢じゃない。史江さんは本当にいるんだと私は安心し

そして喜びました。

 

20分ほど浸かったあと、部屋に戻ると女将さんが朝食を運んできて

くれました。

御膳の上に、お櫃と味噌汁。それに鮭、納豆と漬物と卵がありました。

料理は女将さんの手作りです。

朝風呂後なので私はとてもお腹が空いてまして、すぐにたいらげました。

旅先での朝食というのはどうしてこんなに美味しいものなのでしょうか。

今、下の部屋では史江さんも私とまったく同じものを食べているのだな

とぼんやり考えました。

鮭は程よい塩加減で口の中でほろほろと崩れました。

 

食事を終えると私は自動販売機で缶コーヒーを買い、それを喉に流し込みながら

感傷に浸りました。

「ああ、もう数時間後にはここをでて、夜にはまた東京の自分の部屋にいるのか」

 

帰りたくない。このままS温泉にとどまりたい。

私はそう思いました。

しかし、それは甘えだとすぐに気づき自分を恥じたのでした。

 

そしてなによりも考えると恥ずかしかったことは、本当は私はS温泉を

離れること以上に、史江さんと会えなくなることが寂しいという自分の

本心に気づいてしまったことです。

 

史江さんは連泊でここに2泊するといっていました。

私はこれからもう東京へと戻ります。

 

寂しいけれど仕方がない。

そう自分にいいきかせました。

 

宿をでる前に史江さんの部屋に挨拶にゆくべきか。

正直迷いました。

私はまだちょっと恐かったのです。

昨夜の出来事が本当に現実だったのかと。

玄関に靴があったことで史江さん自身は実在していると

確信を得ましたが、昨晩の混浴はもしかしたら、史江さんへの

気持ちから私が生みだした妄想ではなかったのだろうか、と。

 

 

食後からチェックアウトまではまだ2時間近くありましたが、

気づくと私は部屋の中央でじっと石のように動かず悩んでいました。

客室に鳴り響く壁時計のコチコチという秒針の小さな音が

優柔不断な私の心をつつきました。

 

そして私は史江さんの部屋に挨拶にゆこうと決めました。

私は浴衣のずれを直して部屋をでました。

 

一階に降りると、史江さんの部屋の前にきて立ち止まりました。

ドアの向かいの廊下の壁には色褪せたビールのキャンペーンポスターが張ってあります。

いかにも昭和風の日に焼けた水着美女が両ひざ立ちで手にビールの入ったジョッキを持って

こちらに向かって微笑んでいます。

昨日はなんとも見えなかった美女ですが、今朝は私にたいしてファイトと呼びかけている

ようにも見えました。

 

私は右手に軽く拳をつくり、すっと上にあげてそのドアをノックしようとしました。

しかし、一日という時間の経過が私をまたわずかに小心者にさせていました。

ノックしようとした拳を解いてまた下ろしました。

 

――だめだ。東京に帰る前に今度は自分から史江さんに声を掛けるんだ。

 

自分にそう言い聞かせてもう一度拳を作り、ドアに近づけたそのとき、ガチャリと音がして

ドアが中から開かれました。

 

そして目の前に昨夜と同じ浴衣姿のままの史江さんが現れたのです。

 

急だったので私は驚きました。

当然史江さんのほうも一瞬驚いた様子でした。

もう、あとには引けません。

 

 

 

――はい!? どなたですか? なんでしょうか?

 

 

 

 

そういわれたら、どうしよう。

私はどぎまぎしてしまいました。

 

「わ、びっくりした! ああ、平島さんでしたか。おはようございます」

 

史江さんが私の名前を口にしたことから昨日の時間は実在したんだと

確信し私は安心しました。

 

「お……おはようございます。すいません、驚かせてしまって」

私もできるだけの笑顔でそういいました。

史江さんの綺麗な黒い髪は濡れて輝きをはなっており、シャンプーの

良い香りが漂ってきました。

 

「平島さん、もう今日お帰りですよね。上のほうでドアが開く音がしたから、もう

出ちゃうのかと思ってご挨拶いこうかと思ったら、ちょうどいらしたから

びっくりしちゃいましたよ」

 

史江さんもちょうど私の部屋へ来ようとしてくれていたみたいでした。

こんなこというのもずうずうしいですが、史江さんと私は波長が合うように思ってしまいました。

たかが偶然なのに実にお恥ずかしいことです。

 

「はい、自分は今日もう東京に戻ります。で、……松井さんは明日までですよね。

あのう、昨日はその……いろいろありがとうございました。短い時間でしたけど、

なんだかとても楽しかったです。なんというか、こんな楽しい時間過ごせたのは

生まれてはじめてかもしれないなって思って……それで、あの、お礼をいうついでに

自分のほうからひとこと挨拶させてもらおうかと思いまして」

 

「ああ、そうだったんですね」

 

おろおろしていただろう表情の私を相手に昨晩と変わらず、史江さんは朝から

優しい微笑みで対応してくれました。

 

「お礼だなんてとんでもない。だって私のほうからお話がしたくて声掛けたんですもの。

お礼をいうのはこっちですよ。こちらこそどうもありがとうございました」

史江さんはそういうと、その顔を小さくぺこりと前にさげました。

私もつられて、いえいえといいながら頭をさげていました。

 

史江さんの謙虚さと私に重くならないようにという心遣いが垣間見え、

私の中で嬉しさと申しわけなさが複雑に混じりあいました。

 

「平島さん、バスの時間もうすぐですか?」

 

「あ、いや、駅までゆくバスの本数が少ないから、次に来るバスはまだ3時間くらい先ですね。

だからちょうどチェックアウト過ぎの時間くらいです。だから早めにチェックアウトして最後にまた

ちょっとこのへんを散策しようかなって思って。せっかくのこんないいところだけど、次また

いつこれるかもわからないですし。もしかしたらもうこないかもしれないので」

 

どこの温泉街でも、山奥であれば駅までのバスの本数は少ないものです。

1日数本といっていいでしょう。このS温泉も例外ではありません。

私は答えたとおり、チェックアウトの時間ぴったりくらいに宿をでて、バスが来るまでひとりで

散策し、この温泉街の光景をじっくり改めて目に焼き付けておくつもりでした。

 

それじゃあ、といおうとして部屋に戻ろうとしたそのとき、史江さんがいいました。

「宿出られる前によければ一緒にちょっとだけお散歩しませんか?

平島さんが昨日歩いてきたところ案内してくれたら」

 

 

 

 

 

都会ではあまり感じられない純度の高い明るさが町全体を覆っていました。

前日の夜、貸切風呂で私たちを包んでいた闇はいったいどこへ

いってしまったのでしょうか。

道の脇では木々の葉や草が光り揺らめいていました。

 

私と史江さんは浴衣姿で一緒に宿の外へ踏み出しました。

川の流れる音と鳥の声だけが聞こえる温泉地の朝に、2足のサンダルの音が

小さく鳴っていました。

それにあわせて私の心臓も空気に響いてしまいそうなくらい脈を打っていたのを

おぼえています。

 

昨日歴伝館にゆく途中にひとりで渡った赤い橋を今度は史江さんとふたりで渡りました。

 

「なんか、やっぱり朝の静かな温泉街って独特な風情があっていいですね、平島さん」

「うん、そうですね。僕は人がうじゃうじゃいるところって苦手なんで、温泉地でも有名な

観光地ってあまり好きじゃないんです。ここを選んだもの比較的落ち着いてそうだったから」

「あ、私も私も。ふふふ、平島さん気が合いますね」

 

宿をでてから歴伝館の周辺までは誰ともすれ違いませんでした。

S温泉は風情と温かみはありますが他にはなにもありません。でもそれが良いのです。

みんな、朝は宿の部屋でゆっくりと休んでいるのでしょう。

 

一本道を突き当りにきて、右に曲がると、昨日来た暦伝館の橋の前に来ました。

人工的な光を浴びているわけでもないのに、橋はまるで本体そのものが赤い光を

放っているみたいに朝の光のなかで神々しく燃えていました。

「ここが有名な暦伝館ですよ」

自分も前日はじめてきたくせに、いかにも前からしっているような口調で史江さんに

教えてあげました。

史江さんは感動して小さな声で「うわぁ……」と感動しました。

 

「有名な映画のロケ地にもなったみたいですよ。しってます?」

私がそういうと史江さんは「あ、なんか聞いたことあるかも」といい、

私の横を離れて、橋の向こう側まで歩いてゆき、また戻ってきました。

楽しそうなその笑顔を今でも私は忘れることができません。

まるで無垢な少女のような笑顔でした。

 

暦伝館を正面にして右側には奥まで伸びた通りがありました。

前日は暦伝館まできて引き返したので、ここは私もまだ未踏でした。

どうやらここがこの温泉街のメインストリートのようです。

 

入口にはアーチがあり、四つの提灯が掛かっていました。

それぞれに「落」「合」「通」「り」と書かれています。

どうやら落合通りという名の通りのようでした。

近くで見ると、「り」の文字だけが薄く消えかけており年季を感じました。

入口から通りをのぞいてみると、昔ながらの温泉街を感じさせる古い飲食店や看板が

道の両側にならんでいました。

私はこのような鄙びた光景にとても惹かれます。

やはりそこは聖域でした。

 

私たちふたりはアーチの下をくぐって落合通りに入り、中を歩きました。

 

「あー、すごい! 温泉の街って感じ。ナントカ夢気分って番組とかでよく観ますよね。

こういう場所って」

史江さんはテレビとか多少観るようですが、番組名を憶えるのとかは苦手なようです。

「ああ、それは、えっと……『いい旅夢気分』ですね」

「あ、そうそう!それです」

「自分も旅が好きなんでたまに観ています。とくにすごい面白いって思うわけ

じゃないんですけど、なんか癒されるんですよね」

そんな会話をしながら私たちふたりは足をすすめました。

 

まだ朝の9時過ぎくらいなので、半分くらいの店はまるでまぶたを閉じて眠っているかの

ようにシャッターが閉まっていました。

 

途中、前から私たちと同じように浴衣をきた男女ふたり組が歩いてきました。

手をつないでいて、どうやら恋人同士のようでした。年齢は私よりもすこし若いくらい

でしょうか。男性のほうはやけに筋肉質で、女性のほうは小柄で茶色い髪をしていました。

私たちと同じように朝の散歩にでてきたようです。

 

女性のほうが私たちふたりの姿を見ると、横にいる男性の腕に自分の腕を絡ませて

身体を密着させました。

どうやら私たちも恋人同士だと思われて対抗意識を燃やされたようです。

私たちのほうが幸せだって、という感じに見せつけたつもりだったのでしょう。

たしかに平日の朝の温泉街で男女が一緒に歩いていたら恋人同士か夫婦だと

思われるのが普通かもしれません。

 

私と史江さんは恋人同士でもなんでもありません。

たまたま同じ日にこのS温泉にきて、たまたま同じ宿にきただけの間柄です。

勝手に勘違いされて仲の良いところを必要以上に見せつけらてたわけですが

なぜか不快な感じにはならず、むしろ嬉しい気持ちがわいてきました。

きっとあの男女よりも自分のほうが今は幸せなんじゃないかなという優越感を感じました。

 

落合通りは歩いてみると風情あるいろいろな店がありました。

昔ながらの喫茶店やスナックや土産屋、それにそば屋も。

そば屋の茶色い壁にはいまや東京では見ることのできない栄養ドリンクのホーロー看板

がかかっていました。雨風にささされたなのか部分的の錆びていますが、その摩耗具合も

こうしてみると風情を感じるものでした。

 

「平島さん、スマートボールってなんですか?」

歩きながら史江さんがいいました。ふとすこしさきに視線をやると、右側に緑地に白い文字で

『スマートボール』と書かれている看板が目に入りました。

どうやら史江さんはその看板に興味を持ったようでした。

 

「えっと、その、なんかピンボールみたいなゲームだったと思います……たしかそう思いました」

「ピンボールって、パチンコ台みたいなところの上で玉を転がして遊ぶゲームでしたっけ?」

「そう、そんなようなものだったと。僕も実際やったことはないですが」

「へえ~そうなんですね。じゃあ、あとでまたひとりできて、営業しているときちょっとのぞいてみようかな」

 

ガラス戸越しに営業前の電灯のついていない暗い店内をのぞくと、そこには数台の台が犇めくように

並んでいるのが見えました。

 

「まだどこの店もやっていないですけれど、こうやって歩いているだけも楽しいですね、うふふ」

「そうですね。楽しいですね」

 

ところどころでシャッターを開ける音が聞こえはじめました。

店が営業を始める準備にかかったのでしょう。

 

喫茶店のガラスケースの中にある灼けたナポリタンスパゲッティやオムライスのサンプルを

横目に私たちはさらに歩きました。私はこの通りが永遠に続けばいいのになどと考えていました。

100メートルほど続いた落合通りの店は、一番奥の歴史ありそうな鰻屋を最後に終了しました。

これだけ水が綺麗な場所だと鰻も美味しそうだと思いました。

鰻屋をこえたそのすぐ先にまた赤く輝く橋がありました。

 

「ここの温泉って、赤い橋が多いですね。赤になにか理由があるのかな? 平島さん、しってます?」

なんとなく神にかんすることが絡んでいるっぽい程度の認識で、正式な答えをしっている人間は多くありません。

それは私も例外ではありません。

 

「うーん……鳥居とかも赤いのが多いから、たぶん縁起ものじゃないんですか」

「うわ~、説得力ない答えですね!」

史江さんが笑いながらちゃかしました。私もつられてついつい苦笑いです。

 

「水のある風景って、なんか心が落ち着きますよね、私大好き」

「僕も大好きです。風情ありますしね」

 

橋の中央あたりでふたり並び、ひんやりと冷たくなった欄干に両腕を乗せて、すこしの間、

下を流れる川の水をみつめていました。

じっと見ていても飽きなかった理由は、史江さんが私の横にいてくれたからかもしれません。

 

「じゃあ、もうすこしだけ先にいってみてから戻りましょうか」

「そうですね、チェックアウトとバスの時間にもちょうどいいですし」

 

それほど長くない橋を渡り切ると、その先は緩やかな登り坂が左上に向かって

曲線を描いていました。道そのものは車が2台通れるくらいの幅で、舗装こそされているものの

橋を境界に一気に温泉街から離れたように寂しい道になっていました。

宿も民家もありません。

もうこのへんで引き返しどきかもしれません。

 

そのとき、史江さんがいいました。

「あれ、なんですかね? なにかの像かな?」

史江さんが前方を指さしました。

私は史江さんがさすほうに目を向けました。

 

すこし先の道路脇に、なにかオブジェのようなものが立っているのが

見えました。

その場から見ると、ボクサーが練習で使うサンドバッグが

小さくなったようなシルエットがそこに浮かんでいました。

細長いなにかが地上から1メートルくらいのところにぶらさがっています。

私は地元の青年美術家などが作成した作品が設置されているのかと

思いました。

 

「じゃあ、ちょっと確認する意味であそこまで行って戻りましょうか。

この先もしばらくなにもなさそうですし」

私たちは謎のオブジェを散策の終点に見据えて、とりあえずそこまで

歩いて近寄りました。

 

そこには一本の木の柱が立っており、そのさきには道路のほうに向けてL字金具が

デジタル数字の7を逆にしたような形で打ち付けされていて、そこに細長い錆びた鐘が

ぶら下がっていました。

柱の真ん中の腹の部分には、マジックで「熊よけ鐘」と書かれており原始的な形の

ハンマーが添えられていました。

 

「熊よけの鐘ですって。こんな温泉街でも熊なんて出るんですかね」

そういう史江さんでしたが、あまり怖がっている様子はなく、むしろどこか楽しんでいる

ように見えました。

「最近も熊とか猿が人のいるところに降りて来るニュースとかやってますからね。

いくら温泉街が近いといってもこれだけの自然があれば熊がいてもおかしくないですね。

でもそう簡単には降りてこないとは思います。もっと山の中に入ったら危険かもしれないですが」

「そっかあ。もし熊が襲ってきたら平島さんが退治してくれますか?」

「いや、たぶん無理です。そしたら逃げましょう」

たぶんではなく絶対無理です。でも私は史江さんの前でその程度の冗談はいえるように

まで成長しました。

 

試しに鐘を鳴らしてみたかったのですが、ハンマーは柱に固定されており、わざわざ外すのも

ちょっとした苦労なので、私は頭の中でその鐘の響きを想像しました。

そして私たちはその熊よけ鐘を折り返し地点とし、踵を返しました。

ゆるい傾斜とはいえ、帰りは下り坂なので、ふたりのサンダルが地面をこするリズムが

こころなしかせっかちになっているように聴こえました。

橋を渡ってからそれほどの距離を歩いてきたわけでもないのに、私たちがさっき歩いてきた

ばかりの橋の向こうの落合通りの風景が何故か懐かしく感じました。

 

そこからはなんでもないようなこと会話に花を咲かせて宿まで戻ったと思います。

ああ、たしかすこし映画の話はしたような気がします。

史江さんは自分よりも若いのにすこし前の日本の映画に興味があるようでした。

自分はまだ観たことがないのですが、大林宣彦監督の「尾道3部作」が好きとの

ことで、楽しそうにその話をしていて、是非観てくださいとすすめられた記憶が

あります。

私は「インディ・ジョーンズ」のシリーズが好きなのですが、今この場所で

「インディ・ジョーンズ」について語るのはちょっとずれているかなと思い、

史江さんの話の聞き手に徹したものでした。

ええ、私なりに短い時間っで学習はしたものです。

 

 

 

宿に戻ると私たちはいったん、それぞれの部屋に戻り、私は浴衣から洋服に着替え

改めて帰る支度をはじめました。もうすぐチェックアウトの時間です。

正直、私はこのS温泉に流れる時間の中をもうすこし史江さんと一緒に泳いで

いたかったと思いました。

用意が整うと、私は改めて史江さんの部屋にいき、今後こそ本当に最後の挨拶を

しました。

 

「じゃあ、松井さん、自分はもうそろそろ宿でないといけないので……

なんていったらいいかわからないんですが、たった一日ですけどとても楽しかったです。

いい年した大人が恥ずかしいんですが、こんな楽しかったのはじめてかなって」

「いえいえ、とんでもない。こちらこそたくさんお話もできて楽しかったですよ」

混浴の件にかんしてはこのとき史江さんの口からはでませんでした。

 

「松井さんはあと1日、ここを満喫してくれたら嬉しいなあと思います」

「はい、そうさせてもらいます。平島さんも東京戻ってからいいお仕事見つかると

いいですね」

「ああ、はい、ありがとうございます。あ、松井さんも」

「ありがとうございます。でもお別れ、ちょっと寂しいですね、うふふ」

 

――寂しい……

社交辞令といういい方までしては史江さんに失礼ですが、その私だってそこまで

世間しらずではありません。

その「寂しい」という台詞が私にたいしての礼儀という部分が大きいということはわかっていました。

わかってはいましたが、そのひとことが私に妙な感情の勢いをつけさせてしまったようです。

気の小さい私の感情の隙間に入りこんだその「寂しい」という言葉が、自分でも意識して

いなかった私の願望というか本心を口から引き出していました。

それは、また史江さんに会いたいという強い願望を抑えきれずゆえのことでした。

そうです。私の人生の中で史江さんとの時間をここで終わりにしたくなかったのでした。

 

「あ、 あの……こんなこというの図々しいってわかっているんだけれど、その、また

……そう、たとえば1年後の今日とかに、この温泉でまた会ってくれないですか?」

 

自分でしゃべっておきながらなにをいっているんだろうと思いました。

私はなにを勘違いしたことをいっているのかと混乱しました。

 

史江さんが私に優しく接してくれたのは、母性的なことはあったかもしれませんが

決して恋愛感情ではないと思っていました。

私の中の潜んでいる闇を放っておいたらどうなるかわからないという、そう、それこそ

男女の間柄というよりも、駄目息子を見守るような感情で私を包んでくれていたに

違いないので。

なのでいいおわってすぐびに自分を責めました。

ですが、責めはしたものの不思議と後悔はなかったです。

おそらくそれは私の今までの中途半端に長い人生のなかで一番思いきった

瞬間だったからだと思います。

 

私の言葉をきいた史江さんはすこしの間、その小さな口を半開きにした状態で

意味を理解しようとしていたようでした。

「ああ、やっぱりそんなの無理ですよね……いきなり変なこといってすいません……」

 

気のせいか、すこしだけ迷ったような顔をしているようにも見えました。

ですが、そのあとに

「いいえそんな!はい、いいですよ」

といってくれました。はい、本当にいったのです。

 

思いがけない返事に私は舞い上がったものです。

だって絶対に断られると思っていたものですから。

胸が熱くなるということをそのときはじめて感じました。

 

早くいろいろ決めてしまわないと、史江さんの気があっという間に変わってしまう

かもしれない。私は喜びながらも焦りました。

せっかちにも時間や場所まで決めてしまいたいが、どこにしようかと迷いました。

そのとき、私の頭の中にさきほど見てきた「熊よけ鐘」がふと浮かんだのです。

私は思いつきで言葉を続けました。

 

「さっき見てきた熊よけ鐘のところでどうですか?」

「……?」

「一年後の待ち合わせの場所です。あの熊除け鐘のところで。すぐここの宿ででもいいですけど、

なんかいきなり宿で再会するっていうのも味気ないと思いますから。だからお互いここにくる前に

あそこでまた待ち合わせして、この宿までまた一緒に歩きながらくるのはどうかなって思って。

今日と昨日ふたりで思いだしたりしながら」

最後に余計なことをいってしまい恥ずかしくなりました。

 

しかも、よりによって熊をよける鐘のところで女性と待ち合わせなんて、こいつは

なにをいったんだろうとお笑いになる人も多いでしょう。自分でも言い終わったあと、そう思いました。

ですがあの地点なら温泉街から近いから熊なんてそんな簡単にでないだろうと思いました。

もちろん、女性との待ち合わせにおけるふさわじい雰囲気の場所の発想に乏しい私ですから

このS温泉で他に思いつくところがなかったというのも大きいですけれど。

 

それにもかかわらず史江さんは

「わかりました。じゃあ、午後3時に熊よけ鐘のところで待ち合わせしましょうか」

と答えてくれました。

 

「はい、そうしましょう! いやあ、嬉しいです。あ、でも、本当にいいんですか……?」

本当はいやなのに私に気を遣って合わせてくれているとしたら、当然申し訳ない気持ちは

ありました。ここまで何から何までしてもらって、最後の最後で私の自分勝手に無理につき

あわすのもいけないと思ったので再確認したのです。

史江さんは微笑みながら頷きました。

 

「ありがとうございます! それじゃあ、また1年後の今日に!」

「はい、平島さん、お気をつけて帰ってくださいね、さようなら」

史江さんはそういって微笑みながら手を胸の前で小さく振ってくれました。

「はい、楽しみにしていますね、さようなら!」

私はこれまでの私らしくない約束をこぎつけることができたことで照れ隠しをするのを

忘れるくらい、舞い上がりました。

恥ずかしながら私はスキップでもしたい気持ちで階段をあがり自分の部屋に戻りました。

 

 

 

 

 

「ここは冬は冬でちょっと寒いけれど、雪見風呂もなかなか

いいんですよ、今度は是非冬にでもいらしてください」

 

チェックアウトを済ませ、また長時間世話になるボロボロのコンバースに足を通して

いるとき、背後で女将さんがそう声をかけてくれました。

「はい、季節はわからないけれどぜったいまた来ますね」

またこのS温泉で史江さんと再会する未来図を想像しながら

私は笑顔で女将さんに答えました。

 

女将さんや宿の人の目があるので、変に誤解されないように

気を遣ってくれたのでしょう。さすがに史江さんは玄関までは見送りに来なかったです。

ちょっと残念でしたが、また1年後に逢えると思うと不思議と寂しさはあまりありませんでした。

 

いろいろ思いだしながらバス停でバスを待っていました。

やがてバスがきて、私は口にはださずS温泉に別れを告げ、乗り込みました。

 

バスはすいていました。

一番前の席で膝の上におむすびを乗せて食べている老婆を横目に私は

バスのなかを歩いてゆき、一番奥の席に腰掛けました。

 

バスはすぐ発車しました。

窓の外にはS温泉の緑が流れていましたが、私の目には今そこに

生きているS温泉の自然風景は入ってきませんでした。

そう、私の目の奥と頭のなかに浮かぶのは、史江さんが映りこんでいる

S温泉の残像だけでした。

 

駅に着くまでも私は、史江さんの顔を何度も思いだしながらバスに揺られていました。

 

 

 

汚れた秒針が動く日常では、流れる時間も汚れています。

私はまたそんな憂鬱な日常へと戻らなければなりません。

 

 

1年後……そう、1年後が待ち遠しい。

そうです。

思いはそれひとつでした。

 

1年後にまたS温泉で史江さんに逢えると……。

 

頭から灰をかぶされてきたような煤けた私の人生が

すこし明るくなってきた気がしてきました。

 

 

気持ちは既にそのとき、そう遠くない未来にありました。

 

 

そう、美しいカジカガエルの鳴き声とともに――

 

 

kumayoke