みなさんのお時間を頂けますのであれば
私の話にすこしだけお付き合いいただけますでしょうか。
やや長くなるかもしれませんが、私のような男がこれまでも、
そしてこれからも出逢った女性について語る機会はもう二度とないかもしれませんので。
今からさせていただく告白を聞かれた女性の中には、私という男にたいして
気持ちが悪いという拒絶感をしめす人もおられるかもしれません。
また、同様に男性におきましても「おなじ男として情けない、恥ずかしい」という
お言葉を投げたくなるかもしれません。
私はそういう声を甘んじて受ける覚悟で、あのときあの場所であったことをここで
お話させていただきたいと思っております。
もう、十数年以上前になるでしょうか。
詳細はのちほど追って話しますが、人間の持つ汚さの奥の奥までもをこれでもかと
いうほど徹底的に見せつけられた私はすっかり弱り果て、新潟県境にほど近い山奥の秘湯とも
いえるS温泉郷へとひとりで遁走しました。
そこはまだ足をむけたことのない土地でした。
当時まだ三十歳になったばかりだったころだと思います。既にいい大人でした。
宿においては、なんとなく見つけたなんとなく良さそうなところに泊まることにしました。
自殺されることをおそれ、ひとり客はなかなか受け入れてくれない宿が多い昨今ですが
そちらの宿は電話で快く受け入れてくれました。
鈍行列車と路線バスを乗り継いで到着し、「月見口」というバス停で降りると、そこはとても静かで
余計な音の存在しない世界でした。
絶えず聞こえてくるのはすぐ横を流れる清流の音だけでした。
他にはときどきすれ違う浴衣姿の観光客の他愛のない会話と彼ら彼女らが歩く際にこすれて
ならすサンダルの音くらいという印象でした。
道路を挟んで佇んでいる地域ながらの酒屋さんのずっとうしろでは、高い山の緑が輝きながら
揺れておりました。その揺らぎはまるで未知の場所にやってきた私のささやかな興奮を反映して
いるようでした。
バス停から歩いて間もない路地裏に私が泊まる「ないとう旅館」はありました。
本屋に並ぶ地域紹介の本で見つけた家庭的な宿でした。
お金もなく、またたくさんの人間の視線から逃れたい心境だった私は見つけた
瞬間に不思議な相性を勝手に感じて、すぐにそこに決めたのです。
そして、この「ないとう旅館」を選んだことが、私と彼女の出逢いを導くことになった
のです。
チェックインにはまだ多少早かったのですが、東京からの荷物が重たくて私の
肩は泣いておりました。
とりあえず荷物だけでも置かせてもらおうと、宿へゆきました。
風情のある引き戸を横に弾くと、涼し気な風鈴の音が頭の上で鳴り、女将さんがでて
きて優しい笑顔で対応してくれました。
私はこのとき、裏側や企みを微塵も感じない純粋な笑顔に久しぶりに出逢った気がしました。
玄関で足元を見ると、旅館のサンダル以外の履物はありませんでしたので、前日からの
連泊者は存在していないようで、私は落ち着けそうだと喜びました。
部屋に荷物だけ置かせてもらった私は、宿のご主人から簡単な土地の説明をうけたあと
温泉郷の中を散策してみることにしました。
メインといわれるエリアまでは川に沿うようにして緑に囲まれた歩道が続いておりました。
ずっと左耳に注がれてきた清流のささやきは、途中橋を渡ったあと、今度は右耳へ注がれる
ように変わりました。
家族連れが休憩している小さなおまんじゅう屋さんを横目にそのまま歩き続けたら、この温泉郷の
メインといわれているエリアへ着きました。
手前には綺麗な観光ホテルが風格を見せつけるように構えて建っておりましたが、そのすぐ横に
ある温泉街の入り口を入ると、そこには失われた昭和の世界が広がっていたのです。
ふと左のほうを見ると、いかにも歴史ある古い建物がありました。
その建物は「歴伝館」という宿でした。
建物の手前にはまるでどこか別の世界につながるような短い橋がかかり、
それはとても美しい赤で彩られていたのをおぼえています。
チェックインの時間もいくらか過ぎて宿に戻ったとき、私は玄関の異変に気づいたのです。
さっき来たときにはなかった小さなピンク色の靴が玄関の隅に揃えておかれていたのです。
それは明らかに女性の靴でした。
いうまでもなく私は女性のファッションについてなどまったくわかりません。
でも、そんな私が見てもサイズやデザイン的にそれが女性の……しかも若い女性の
靴であるだろうことは容易く想像できました。
「ああ、今日泊まる人がいて私が散歩している間にチェックインしたんだな」
と、その程度に思いました。
一般的な男性であれば、このような瞬間にときめきとかドキドキとかいう感情を
感じるものなのでしょうか。
ただ、私の場合はいろいろあって幼いころから女性にたいするトラウマや恐怖心があり、
今はいくらか収まってはきたものの、まだ完全にそれを拭い去ることはできず、
玄関隅みにちょこんと揃えて置かれている女性の靴を見ても、とくに期待を膨らますような
ことはなにもなかったのです。
むしろ、
「せっかく貸切状態だと思ったのに…」
と残念がっておりました。
少なくとも、その時は――
それから夕飯までは部屋と館内の温泉の行き来だけで過ごしました。
館内には男女別の内湯が1つずつ。
すこしだけ歩いたところに離れがあって、そこには壁に囲まれた露天が
ひとつあるようでした。
家族風呂というものです。
宿泊者なら空いている限り自由に使っていいようですが、ひとりの私にとってはとくに
あまり必要性はないように思えて、内湯に浸かり、のぼせたら部屋で休んでおりました。
私の部屋は2階でした。
内湯は一階にあったので、使用する際は1階へおりてゆくのですが男湯の内湯のすぐ
となりが客室のひとつで、人の気配といいますか、小さな音が漏れて聞こえてきました。
その様子からもうひとりの宿泊客である彼女はこの部屋に泊まっているいるのだなと
いうことがわかりました。
同じ宿にいても、それぞれの行動パターンがあるものです。
夕飯が終わるまで、館内でその部屋の彼女と顔を合わせることはありませんでした。
極端な人見知りにくわえて女性が苦手な私はそんな状況に内心安堵しておりました。
ところがです。
夕飯後、部屋で一息ついた私は、お気に入りの内湯へまた入りにゆこうと思い、部屋を
でて階段を降りて男湯の扉のほうへ向かいました。
そのときです。
内湯の手前にある客室の扉が内側からガチャリと開いたのです。
小柄で黒い髪を肩のあたりまで垂らした若い女性が中からでてきました。
年齢は、そう…… まだ22、3歳くらいでしょうか。
少なくとも当時の私より5歳くらいは若く見えました。
いきなりだったので私も驚きましたが、彼女も声には出さないものの「あっ」という
その表情が驚きを物語っていたのは間違いなかったでしょう。
このようなとき会釈くらいはするのが礼儀なのでしょうが、さきほどのお話しました
とおり、私は人見知りで女性が苦手なので、目をすぐそらし彼女のすぐ横を無言で
通り抜けたのですがそこで背中に「こんばんわ」という囁きのような小さな声を受けたのです。
……今の「こんばんわ」は自分に掛けられた言葉だったのだろうか?
一瞬そう思いました。
冷静に考えるまでもなくそうに決まっています。
だって、その場には私と彼女しかいなかったのですから。
戸惑いはしましたが、私も人の挨拶にたいして無視するほど失礼な人間ではありません。
焦りながらにはなってしまいましたが、慌ててそこで振り向き
「あ、どうも、こんばんわ……」と同様の挨拶をさせてもらいました。
彼女は手に可愛らしい財布を持っていました。
自動販売機で飲み物でも買おうと部屋をでたところで、ちょうど私と出合い頭になった
ようです。
一度無視して通り抜けようとしたそんな私の遅い返事にたいしても彼女は不快な表情を
微塵も見せず、「ここのお湯、とてもいいですよね」と加えながら私に向けてニコッと笑い、
自動販売機のほうへ歩いてゆきました。
私はその場で2、3秒だけ佇んでしまいながらも、そのあとすぐ内湯の扉を開けて
中に入りました。
すっかり気に入った内湯にはもう3回ほど入ったと思います。
時間はまだ21時にもなっておりませんでした。
水分をいくらか奪われて体が火照っていたこともあって、私は冷たい炭酸飲料が急にのみたくなり
財布を持って部屋をでて階段をおりてゆきました
薄暗いロビーの横でサントリーの自動販売機がボウっと光を放っていました。
自動販売機のすぐ前でその光を受けているもうひとつの小さな影があることにそこで
気づきました。
ピッ、ガコン!という音とともに取り出し口に落下してきた缶に手を伸ばす、浴衣に包まれた
細く白い腕が私の目に入りました。
そこにいたのはさっきの彼女でした。
その日2回目の「あっ」が私の口からも彼女の口からも思わず飛びだしたのはいうまでもありません。
「あ、どうも」
気づいたら今度は私のほうから声をだしていました。
妙に気まずくなるような空気を回避するための防衛本能だったのかもしれません。
「どうも」
彼女はまた丁寧に答えてくれました。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
なんということでしょうか。驚いたことに彼女のほうから会話の続きをふってきたのです。
「えっと、自分は東京のほうから……」
私はそう答えました。
「ああ、そうなんですね。私は神奈川からです。」
彼女はそういいました。
「お仕事ですか?」
彼女は続けてそう訊いてきました。
「うん、そうですねえ、まあ仕事というか、仕事でいろいろあってからといいますか……」
私は直前まで働いていた職場においてひとりの上司の横領やパワハラを告発しようと
したことがきっかけで、そこを去らないといけない状況に追い込まれ心を病んでしまい、
その結果ここへ逃げてきたのです。
私は自分のやろうとしたことが間違っているとは今でも思っていません。
なのでそれがどういう結末を招こうとも恥じる必要はないと思っております。
でも、女性との距離を置いて生きてきた私の中でも、やはりまだどこかに男性としてのつまらない、
そしてちっぽけなプライドが完全に失われず残っていたのでしょう。
彼女にたいしてそれをはっきり伝えることができずに言葉を濁したいいかたをしてしまいました。
そんな私の言葉や表情になにかを感じとったのでしょうか。
それを聞いた彼女の表情が変わったような気がしました。
いや、確実に変わりました。
彼女は私の顔をみたまますこしだけ黙ったあと、神妙にいいました。
「あの……」と。
そしてこう続けたのです。
「いきなりこんなことを女性のほうから男性にいうとおかしいかもしれませんし、ヘンな女が
なにか企んでいるかって思われちゃうかもしれないですけど、もし、お時間あってよろしければ
……本当によろしければなんでお部屋でちょっとだけお話とかしませんか??」
私は自分の耳を疑いました。そして失礼ながら同時に彼女の言葉も疑ってしまいました。
意図がどうであれ、それがいわゆる「誘い」の言葉であることだけは間違いなかったからです。
最近は悪い男女が純粋な異性を陥れて脅迫するという事件が目につきます。
彼女の言葉を聞いてまず頭に浮かんだのはそれでした。
私は頭の中が混乱しながらも、そういう彼女の目をもう一度見たのです。
なんというか上手くいえないのがもどかしいのですが、哀願するような彼女の瞳はとても
澄んでいてそのような危険をまったく感じませんでした。
そして、「これは断ってはいけない」という判断が私の中で直感にあったのです。
「私、松井っていいます。松井史江です」
卓を挟んで向こうに座る浴衣姿の彼女はそう自己紹介してくれました。
年齢は23歳とのことでした。私よりも5つ以上下です。
「松井さんですね。はじめまして……えっと自分は平島と申します。
下の名前は公治です。公園の公に、治めるで公治」
私も自己紹介しました。
はじめてきた場所で、はじめてあった女性と二人きりという慣れないシチュエーションの
ため緊張もあって、やけに堅苦しい自己紹介になってしまいました。
まるで面接だなといったあと恥ずかしくなり、顔が熱くなりました。
それがおかしかったようで、史江さんはクスっと笑いました。
部屋で向かい合いながら、しばらくはお互い昼間に観てきた場所など語りあいました。
史江さんはまだ「歴伝館」を観てないというので、私はすごく素敵な建物だったということを
教えてだけたくてしょうがなかったのですが、楽しみと新鮮さを奪ってしまったらいけないと思って
必死に我慢しました。
気がつくと、私は自分でも信じられないくらい、そして恥ずかしいくらいにしゃべっていました。
不思議なもので、こうして史江さんと一緒にいると、自分が女性が苦手だったことを
すこしずつ忘れてゆくようでした。
私の心や記憶には、過去という名前の決してはずすことができない重い南京錠が
いくつも掛けられていましたが、史江さんの語りかけてくれる言葉や声は、長年解錠できなかった
それらの南京錠ひとつひとつを外してくれる鍵のように感じました。
それは私にとって、急に訪れた幸福な時間に間違いありませんでした。
ただ、そんな時間が流れる中でも私の中でひとつだけ保留にしたままの疑問がありました。
それはさきほどもいいましたが、あったばかりの私みたいな男に、この若い史江さんが
どうして「一緒に」と声を掛けてきてくれたのかということでした。
私はこの質問がこれまでの良い空気をすべてぶち壊してしまうのではないかという
不安も感じながらも、どうしても我慢できず、答えたくなければ構わないですと前置きした
上で
「あ、でも、どうしてさっき自分なんかを誘ってくれたんですか?」
と思い切って訊いてみたのです。
史江さんがちょっとだけ考えるように表情を曇らせたのがわかりました。
やはり訊くのは正解じゃなかったか、と後悔しそうになったところで史江さんはこう
いいました。
「うーん…………影かな?」
「影?……影ですか……?」
私は意味をくみ取ることが出来ず、反射的に訊き返しました。
「はい、影です。こんなこというのも失礼ですし、こいつ何いってんだ?って思われちゃう
かもしれないですけど、さっき最初に平島さんにあったとき、自分と同じ暗い影をひきずって
この温泉までやってきたのかなって感じたんです。勝手な推測ですけど平島さんも私と同じような
傷を持ってきたんじゃないかなって。傷ついた人の影って、どこまでもついてきちゃうんです。
たとえと奥でも、日の当たらない場所でも……」
「実は私、逃げてきたんです」
史江さんはそう呟きました。
そして史江さんは目を潤ませながら、この温泉にくるまでのあらましを語ってくれたのです。
史江さんはすこし前まで神奈川の介護施設で働いていたようでした。
そこは入居しているお年寄りが多く、一方でスタッフ数の少ない忙しい職場だったようです。
人の出入りが激しい職場でしたが、若くて責任感のある史江さんは辞めずに奮闘していたのです。
ところがある日、史江さんが介護を担当しているひとりの男性老人が大ケガをしました。
史江さんがちょっと目を離しているわずかな時間で、その老人は勝手に席を離れて立ち上がり
動いてしまい、段差につまずき転倒して骨折してしまったのです。
状況を聞く限り、史江さんに落ち度はなく思えました。
しかし介護経験が浅い史江さんは被害者老人の家族による「あんたの責任」「人殺し」などと
いう暴言の恰好のターゲットになってしまいました。
また若い女性だったことも災いしてしまい、事なかれ主義の上司や先輩にとって責任転嫁先の
恰好のターゲットともなってしまったようです。
それからもしばらくは耐えた史江さんですが、あまりに傷つき過ぎた結果、仕事を辞め、
人間関係を忘れるためにここへやってきたとのことでした。
それを聞いた私は、「たしかに自分と似ている……」と感じました。
似たような状況にある者は、似たような場所を求めて、磁石のように引きあるのかも
しれません。そして相手の過去の痛みを感じとる能力を秘めているのかもとも
思いました。
史江さんの話をきいたら、つい数時間前まで見知らぬ他人同士だった私たちふたりが
今こうして向かいあって話していることが不思議でもなんでもないと思えてきたのです。
私は涙をこらえながら史江さんの話を聞いていました。
史江さんの告白は世間の冷たい風に吹かれて凝固した私のつまらないプライドも徐々に
溶かしてくれる力がありました。
史江さんが辛いことをすべて話してくれたので、
史江さんと自分を比べるのはもしかしたら失礼かと悩みながら、私も史江さんと同じですよと
ひとこと添えたうえで自分もこれまでのことを話しました。
幼いころから気が小さかったことや、いじめられたこと。
女性が苦手になってしまったこと。
先天的な障害の影響でなにかを持つと手が震えてしまうのを揶揄されたことや
仕事のこと。
溜めていたものをそこですべて吐き出したのです。
できるだけのことを史江さんに告白したら、なんだかすこし心が軽くなった気がしたと
同時に、後悔もやってきました。
だいの大人が自分よりもいくつも下の女性にいろいろ吐き出したその行為が
とてもみじめだという念が一気に襲ってきたのです。
今ここで私の話を聞いてくれているみなさんも、私のことをなんて情けない男なんだと
憤慨されていることと思われます。
でもそのとき、そんな私の話を聞いていた史江さんの目から涙がでて、その白い頬を
伝ったのを私は見たのです。
……
そうです。
史江さんは、年上のくせにこんな弱い心を持った男である私の過去の傷の話をきいて
泣いてくれたのです。
私はこれまでも、この人にならばすべて話せると信じた人にたいし、自らの恥や
傷を打ち明けてきました。
決して慰めの言葉だけを求めていたわけではありません。
ときには厳しい言葉も受けるとは思っていました。
ただ、ただ……
そう、ほんのすこしでよかったんです。共感して欲しかった。
それだけでした。
しかし、返ってくる言葉という言葉すべてが毒をまんべんなく塗った矢のようなものでした。
同じ男性からは「おまえが弱すぎる」「周囲にあわせられない不器用なおまえが悪い」と
いう言葉ばかりでした。
女性からは「男のくせに弱い」「気持ち悪い」という言葉もうけることもありました。
それ以降、私は他人にたいして固く口を閉じるようになってしまったのです。
が、史江さんにはなぜか心を許せたのでいろいろ話してしまいました。
史江さんはこんな自分のような男の話を聞いて泣いてくれたのです。
ありきたりの優しい言葉をかけてくるわけでもなく、容赦ない尖ったとどめの毒矢を
向けてくるわけでもなく、語っている私の目をみて何も言わず涙を流してくれたのです。
私はどんな言葉よりも私のために泣いてくれた史江さんの涙がとても嬉しかった。
史江さんの涙は私の涙腺の鍵も解錠してしまいました。
史江さんの優しさに触れた私も涙を我慢できなくなり、気がついたら私も史江さんの前で
涙を流していたのです。
最初は笑ったりしながら語り合っていたのに、いつの間にか初対面同士の男女が
ふたりで泣いているという、へんてこりんな光景になってしまいました。
ふたりとも喉をつまらせながら、なにかしゃべろうと思っているのですが、なかなか
声にならず、数十秒、いや一分以上だったかもしれません。沈黙が部屋にやってきました。
窓の外では川が止まることなく流れています。
部屋の中まで流れ込んでくるその川の声が、会話のない部屋の中の気まずい空気を
さりげなく緩和してくれていたように私は感じました。
やがてなにか些細な話題をきっかけにして会話の花が再び咲きだしました。
部屋が体温を徐々に取り戻してきたころ、時計を見るとなにげにもう23時をまわって
いたのです。
いくら向こうからのお誘いだとはいえ、単独で泊まっている女性の部屋に夜中まで
平気でいられるほど私も礼儀しらずではありません。
また宿の人も、たまたま同じ日に泊まった見ず知らずの男女がこうして遅くまで
ひとつの部屋にいると気づいたら、なにかと不安がるのも承知しています。
若さゆえでしょうか。史江さんのほうは眠そうな様子もなく、私のほうも純粋にもうすこしだけ
このまま史江さんと一緒に話して過ごしていかったですが、やはり最低限の礼儀は守らないと
いけません。
「あ、なんかもうこんな時間になっちゃってますね。長い間お邪魔しちゃってすいません。
そろそろ自分、部屋に戻りますね。楽しかったです。自分の話をきいてくれたのも
嬉しかったですし。本当にありがとうございました、それじゃあ……」
私はそういって腰をあげました。
史江さんも一瞬だけ寂しそうな顔をしてくれた気がしました。
私の勘違いや自惚れならばお恥ずかしいまでですが。
史江さんは「いえいえ、こちらこそせっかくのひとり旅なのに呼んでしまって
ごめんなさい」といいました。
「そんなことないですよ、ほんとに。じゃあおやすみなさい」
あたらめてそれだけいうと私は軽く会釈だけしてドアのほうへ歩きました。
ドアノブに手をかけて、まわそうとしたそのときでした。
「あ、あの……」
部屋をでようとする私の背中に向かって史江さんが声をかけてきました。
私はなんだろうと思い、その場で振り返り無言で史江さんのいおうとしている言葉を待ちました。
「今、ちらっと窓の外の空を見たんですけど、ここって星がとても綺麗ですよね……」
史江さんはそういいました。
私もこの部屋にくるまえに自分の部屋で窓辺に腰掛けて空を眺めていたので、同じことは
感じていました。
だけど、なぜいまこのタイミングでそれをいってくるのかなあと、やや不思議に思いながらも
「ああ、そうですね、やっぱり空気も澄んでいるようですから」
と答えました。
すると史江さんはドアの前に立っている私にいったのです。
「もし平島さんが嫌じゃなければ……あの……その……
最後に……これから一緒にお空の星を眺めにゆきませんか」
キョトンとする私を見ながら、彼女は続けてこういいました。
「ここの離れにある貸切の外のお風呂で一緒に……」
私はまた自分の耳を疑いました。
今きいたのは幻聴でしょうか……?
いいや、そんなことはありません。
たしかに彼女はいいました。
離れにある露天で一緒に空の星を眺めましょう、と――
それから十分くらい経ったころでしょうか。
私と史江さんは離れにある貸切の露天のお湯の中で並んで空を見上げていました。
部屋の窓から見るよりも遥かに広い空がそこにはありました。
史江さんは真っ白い宿のバスタオルを巻いてお湯に入りました。
私は大き目の長いタオルをはずれないようにしっかりと腰に巻きつけて入りました。
これだけはさきにお伝えしておきますが、お湯に入るまでも入ってからも下世話な方々が
想像されるような過程は一切ございません。
信じていただけないかもしれませんが、私と史江さんは本当にお互い並んで、ただ
ただ同じ空を見上げたまま、お湯の中でしばしの時間を過ごしました。
肌だってまったく触れ合うことはなかったのです。
いや、厳密にいえば並んで寄り添っていたので、私の貧弱な右肩の先と史江さんの
小さな左肩の先だけがかすかに触れ合っておりました。
肌だけではありません。
すぐ隣りに並んでいるにもかかわらず視線もほとんどあわすことはなかったと思いました。
それは決して恥ずかしいからという理由ではありません。
むしろ直接目をあわせる意味はありませんでした。
同じ空を見上げ、そこに輝く同じ星をみつめていることで、私は間接的に
史江さんと目をあわせているような感覚になれたのです。
私はそれだけで言葉では表せないような幸せな時間の流れを感じることができたのです。
史江さんがときどき体を動かすと、穏やかなお湯の表面に反射した月あかりが
揺れました。光は歪んだり曲がったりしては、またすぐにもとへ戻りました
そして湯の花たちが温泉のお湯の中ではらはらと踊りはじめます。
湯の花とは温泉成分による白いひらひらしたものです。
気のせいでしょうか。
私にはそこに舞う「湯の花」たちまでもが月明かりを浴びて光っているように見えたのです。
輝く花びらのように舞う儚げな湯の花、
そしてそれらに包まれた私の隣りにいる女性。
彼女が巻き付けているバスタオルは空気を含むたびにかすかに膨らんではお湯の中で
美しく揺れていました。
揺らめくそのさまは、まるで風になびく羽衣のように私の目に映りました。
――
私の話はとりあえずこんなところでしょうか。
実はこのあともまだ続きのエピソードがあるのですが、長くなりますので、もしみなさまに
興味を持っていただけたのであれば、またいつか機会を見て続きをお話させて頂きたいと思います。
史江さん、そして最後まで話にお付き合いいただいたみなさまにS温泉から愛をこめて――。
『史江』
副題 【創作と現実がゆき交う長い長い予告篇的なモノ】