ときには笑顔を絶やせ | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

もうすぐ夏がやってくる。

夏は暑い。だから嫌だという人はいる。

冬は冬で寒いから嫌だという人もいる。

 

だけど、それも「嫌止まり」で、夏や冬が存在しなくて良いとまで

思っている人はそんないない。と思う。

 

なぜかというと、夏も冬も日本が見せる顔のひとつだから

である。

日本には四季がある。

春・夏・秋・冬という季節は日本が持つよっつの表情と

捉えてもよいだろう。

それぞれ別の特徴があるからこそ趣きがあるわけである。

 

同様に人間にもおおまかにわけてよっつの顔がある。

喜と楽の違いはよくわからないが、喜怒哀楽である。

 

たまに「笑顔を絶やすな」という人がいるが、オレにはそのメリットが

理解できない。

もちろん、笑顔の場もそれなりに必要だとは認めるが、本心に嘘をついてまで

笑う必要があるのだろうか。

 

笑顔を絶やすなということは、いつも笑っていろということ。

すなわち、喜怒哀楽の中から怒と哀のふたつの表情を意図的に欠如させよ

ということである。

 

街を歩いてても、いろんな表情をしている人間とすれ違うから、自分も感情の

均衡がとれるのである。

 

しっている人間はもちろん、どこの誰かわからない街行く人がみな、同じように

明るい顔で笑っていたら、辛い状況にある自分だけが、世の中に取り残された

ような気持ちになる。

 

逆に暗い顔をした人を見かけると、

「ああ、あの人も自分と同じようになにか抱えているのだな」

と、ちょっと安心する。

自分だけが特殊な不幸状況下におかれているわけじゃないんだと。

 

四季にそれぞれの顔があるから面白いのと同じで、人間にも喜怒哀楽がある

からその人々の表情を見て、ときには凹んだり、ときには励まされたりするのである。

生きるためには多少の傷の舐め合いも必要である。

 

 

なにかとあれば他人にたいして、「笑顔を絶やすな」という人にたいして、

じゃあ、あなたはいつも大勢が笑顔でいられるような世の中にするために

具体的になにか行動をやっているのですか?と問いかけたい。

それをせずにいつもニコニコしている人は表情を欠如させた人間味に欠ける

スマイルマシーンに過ぎない。

 

ブログ初期のころでも同じ本を紹介したが、部屋にあった哲学者・中島義道の

本を最近またパラパラ読んだ。

 

 

 

中島義道が嫌う10の人々という本の中に、

「いつも前向きに生きている人」という章がある。

 

その中にこんな文がある。

以下引用。

 

――

いつも前向きに生きている善良な市民は、くよくよしている人を見つけるや否や

「笑え」と強制する。

――

この過酷な人生において、なぜくよくよすることを嫌う人がこれほどいるのか、

私には不思議でなりません。と、考えに考えて行き着いたのは、

「いつも前向きに生きている人」にとって、そばにめそめそくよくよしている人がいると、

結局は自分が不愉快だからなんですね。

 

 

 

結局は自分が――

まさにそのとおりだと思う。

 

だからオレは笑顔を強制してくる人間は苦手だ。

つまりはその人の気分を良くするためだけに嘘でも笑えということになる。

なにより無理やり笑った顔ほど美しくないものはない。

意図せず自然に喜怒哀楽を顔にだせるのが、人間に与えられた

表現じゃないのか。

その表情から背景にあるものを読み取ったりすることができるのでは

ないか。

 

暗く沈んだ表情をしている人を見ると安心するというのはオレが多少病んで

いるのかもしれないが、綺麗事や精神論抜きで同じようなことを感じる人は

少なからずいるはずである。

 

辛いときは辛いが、そんなときに無理に笑うことはもっと辛かったりする。

誰かに強制されて笑うくらいなら、自分もありのままの表情でいたいし、

周囲にもありのままの表情であってほしい。

日本に春夏秋冬があるように、人間の顔にも喜怒哀楽があっていいのだ。

生きづらさを感じてまで無理に笑う必要はない。

 

 

 

※この記事はタイマー更新です