池田小襲撃事件20年・秋葉原殺傷事件13年 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

今日8日で事件発生からタイトルにつけたこの年になるらしい。

時の流れは早い。

年は異なるとはいえ、同じような残虐な事件が同じ日に起こっていた偶然

とはなにかの因果だろうか。

 

池田小襲撃事件は宅間守元死刑囚によって起こされた小学校襲撃事件である。

秋葉原殺傷事件は加藤智大死刑囚によっておこされた秋葉原歩行者天国での

無差別殺傷事件である。

 

そうか。石原慎太郎が池田小事件について書いた「凶獣」という本の記事を

かなり前に書いたのだが、昨日今日でその「凶獣」の記事にやけにアクセスが

集まっていると思ったら、おそらくその影響だろう。

 

ふたつの事件も風化しかけているとまではいかないが、でもさすがに世間の

中ではその日が近くなってニュースなどでとりあげられるまでは忘れかけられている

ような事件ではあると思う。

亡くなった被害者の方々のことを考えても、忘れてはいけない事件である。

 

宅間守のほうは既に死刑が執行されたが、加藤智大のほうは現在も収監されている。

宅間守の池田小襲撃事件は、思想的には津久井やまゆり事件で大量殺人を犯した

植松聖と対極にあると個人的には思える。

 

植松の思想でいうところ、重度の障害を持った人は社会的に生産性がないので

殺したというようなもの。

一方で宅間の思想でいえば、狙った池田小の生徒たちはいってみれば前途有望な

子どもたち。

極端にいえば嫉妬や妬みに近い感情で社会にでたらエリートとして出て来る芽を

潰すような目的で行われた。

 

同じ大量殺りくであっても、見下してか、嫉妬してかで大きく異なる部分があるから

不気味である。

 

 

しかし、日本というのは不思議な国である。

死刑はあるのに終身刑はない。

これについてはずっと前から疑問に思っていた。

いったいどうしてなのか、誰かしっていたら教えてほしい。

宅間と加藤においては死刑で当然だとしても、それ以外で終身刑があればそれが

妥当だという受刑者もいると思うのだ。

ネットでしらべればすぐわかるのかもしれないが、それじゃ面白みがないので

あえて調べない。

 

あと、日本の死刑がなかなか執行されないのは、やはり直接手をくだす殺人を

したくないから、死刑囚が病気などになって自然と病死するのを待っているのじゃないかと

いう気もする。

 

死刑か。

死刑というと今でも賛成派と廃止派のふたつにわかれるが、オレはやっぱり

消極的ながらも賛成派になる。

もちろん、当人に冤罪の可能性がある限りは執行すべきではないという前提だが

悪意が罪のない人を明らかに殺した場合は死刑賛成といわざるおえない。

 

第3者という立場だったら、悔い改めさせて更生させるべきとかいうこともいえる

かもしれないが、やはり遺族の気持ちになったら、加害者がこの世の中に今でも

生きているというだけで気持ちに整理がつかないと思うのだ。

 

遺族の方々が「生きて罪を償ってほしい」といった場合のみ、凶悪犯罪における死刑を

回避すべきだと思う。

 

ただ、秋葉原殺傷事件の加藤の場合のように、世の中の魑魅魍魎が人を犯罪に

走らせたような例もあるので、死刑を執行したからもうそれで終わりではなく、

それを教訓に根本的に世の中を変えていかなければ、同じような事件はまた何度も

繰り返されるに違いない。