少数派といわなければならない悲しみに | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

大変遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

さて、2日は家で出川哲朗の充電バイクの旅を観ていた。

しばらくぶりの新撮ロケだった。

実際にとまったり入湯した伊豆の旅館2軒を訪問して

いたのも観ていて嬉しかった。

 

いまやすっかり人気者になった出川。

前にもどこかでちょっと書いたと思うが、出川が好感度高くなった

理由は人間味だという論を聞いた。

 

世間がコミュニケーション能力ブームだと騒いでいるが

それは実は息苦しくもあり、同時にコミュニケーション能力が乏しい人を

排除するような風潮でもある。

 

そんななか、出川のカミカミや日本語間違いとかは、息苦しい渦の中で

人間味あふれるものに感じられるのだろう。

 

オレもそう感じるひとり。

ずっと前に「プレゼンの達人は嫌われる」という記事を書いたが

オレはなんでも機械のように流暢にしゃべる人間はあまり好きじゃない。

どちらかといえば、たどたどしかったり、カミまくったりするけれど

必死さが伝わってくる人のほうが好きだ。

そう、それこそ出川のように。

 

日本人特有の横並び精神というかが同調圧力が働いて

みんな「コミュニケーション能力は大事だ!」と口をそろえて叫んでいるが

多くの人の本音はきっと「このブームは息苦しい」ではないだろうか。

それが出川人気として現れた結果ではないかとオレは思う。

 

 

よく少数派、多数派と分別されるが、世間一般的に

オレのような「アンチコミュニケーション能力派」は少数派と位置づけられる。

でも実は、隠れ多数派でないのだろうか。

認めたくないばかりに自分に「私はコミュ能を大事にする人間だ!」といいきかせて

いる人もきっと多いだろう。

自分自身にコミュ能がないことを認めたくないから、だから真の自分と向き合う前に

そういう前向き発言をすることで自分のキャラを偽っている人たち……。

 

オレもこのブログを10年書き続けてきて、昨年もいわゆる少数派とされるテーマを

たくさん書いてきたが、ありがたいことに反論という反論はあまりなかった。

 

 

ブログタイトルの下のブログ説明文にも‘少数派主義’という言葉を入れているが

分析するに、たぶんオレの書いてある思想は、実際には少数派ではなく

「隠れ多数派」の思想なんじゃないかということ。

 

実際の少数派の意見でもなければ、別にオレだけがそんな鋭いことをいっている

わけでもない。

ただ、みなさんの多くが心の底で思っていたりすることを、オレが書いているだけ。

だから共感していただけることが多いのかなと。

みなさんと同じ。

 

だけど、今って真実や本音を語ると、内容が重かったり深かったりするほど

それはネガティブだとか後ろ向き発言だとかいわれる。

そんなこというやつはおまえくらいだ!と、本当は隠れた多数派であるのに、

少数派にされるのである。

 

逆にアピールだとしても、先に「これは少数派な意見ですけど……」と

前おきして語り出すと、多数派とされる人たちはなにもいわない。

こっちが認めていれば、向こうは納得するのだ。

 

だからオレもブログの紹介文にあえて自分から「少数派主義」と入れている。

本当はとくべつ少数派でもないと思うのだけれども。

 

多数の人が思っているだろうことが少数派とされてしまうこの風潮は

実に悲しいが、オレはオレらしく、今年も世の中が少数派としているような

ことを書き続けてゆきたいと思う。

 

※この記事はタイマー更新です。