東野圭吾「殺人の門」他 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

 

子供時代にとても嫌なやつだったのに、大人になってから久々同窓会とかで

あったらやたらとイイ奴になっている人間はズルい。卑怯だ。

そんなことを以前もどこかで書いた気がする。

 

いいたいこと、わかる人にはわかるだろう。

 

小中学校のときは散々人を傷つけたり蔑んだりしてきたやつほど、

時間が経って会うと、ただ普通の対応してくるだけでとてもいい奴に変わった

ような気がしてしまう。

 

でも騙されてはいけない。

それは、それまでずっとイヤなやつだったという思いがあっただけに

急に普通の対応されるだけでいいやつになったように感じてしまう温度差

がおこす妙な作用なのである。

 

普段テストで平均的に80点取っていた人間が次のテストで100点

とるよりも、普段0点をとっていた人間が次のテストで100点とったほうが

教師にとっては印象が良いような錯覚効果である。

 

昔はやりたいだけ人のことを傷つけたり馬鹿にしたりして、嫌われ要素を

十分に持っておきながらも、時間の経過という事象を利用して久々あったとき

急にいい人的な対応で昔との温度差を利用して、

「なんだ、本当はとてもイイやつだったんだ!」

と思わせ、これまでの悪をチャラにするどころか逆にイメージアップするような

人間をオレは憎み続ける。

 

人間という生き物は善人が思っている以上に自分のイメージ維持のためならば

えげつない努力もするし、都合の悪い自分の悪行は記憶からあっさりと削除する

ものである。

 

そうそう、小学校や中学校時代を思いだすと。今でも許せないタイプの

やつがいた。それは

「人を推薦してくるやつ」

である。

 

東京都知事選も近づいてきたが、小中学校のときもなにかと選挙的な

イベントが多かった。

学級委員長を決めたり、運動会の応援団を決めたり。

 

候補を決める方法は主に2通りだ。

「立候補」と「推薦」である。

 

オレはこのクラス内の選挙的な時間が苦痛であり、そして恐怖でもあった。

 

リーダー気質の級友とかが立候補してくれて決まる場合は問題ない。

しかし、誰も立候補しないときがある。

これは誰もやりたがっていないということを暗に意味している。

そうなると選抜方法は必然的に「推薦」となる。

 

本来であれば推薦というものは、人を見る目がある人間が同様にその資質を

持つ人間を推すべき行為である。

 

しかし、カースト制度のエッヂが効きまくっている小中学校の推薦では

そんな正論は通らない。

 

むしろ、性格の歪んでいるやつが、リーダー的資質のない者をあえて

言葉巧みに推薦するような例が少なからずあるのである。

 

性格の歪んでいる推薦者にとって、イベントの成功やまとまりなど

どうでもいいのである。

ただ単にリーダー的資質のないものが身の丈に合わない立場に立たされて

困った場面を見てみたいというだけの狙いなのである。

 

クラスの中でもあまり目立たない存在だったオレは何度かそういう目にあわされた

こともある。

 

しかもそういう性格の歪んでいる推薦者は教師などの心の隙間に入り込む

能力だけには長けていたりするので、教師もすっかり騙されて

 

「みなさん!○○君(推薦者)は、ふだんおとなしい××君にもこうやって

みんなをまとめながら成長するような機会を与えようとしてて見習うべきです!」

 

などと推薦者の裏の顔に気づくどころか、逆に模範生としてクラス中に紹介

してしまったりする。

 

先生よ!気づけ!!

あいつは普段目立たない地味な人間にアピールや成長の機会を

与えようとしてオレを推薦しているんじゃない!

むしろ、オレみたいな人間に適正でないことをやらせて、戸惑ったりミスったりして

弱っている場面を楽しもうとしているだけなんだ!!

 

しかし無駄なのである。

心理学とかそういうことは一切スルーの定型書類審査のみで、

ただただ個人的な「子供たちの笑顔が見たい」という自己欲求のみで

その立場に至った無能教師たちには、まだまだ青い小中学生のそんな企みすら

見抜くことができない。このクソたわけが。

 

いや、これは子供の世界の教師と子供の例に限らず、大人の世界も同じか。

前向き発言とか明るさが大事だと普段からいっている人間が数年前の号泣会見で

有名になった野々村元県議みたいな人間に票を入れて当選させちゃうわけなんだから。

 

自粛期間中に読んだ小説。

東野圭吾の『殺人の門』は、そんなふうにいいやつなのか、とにか悪いやつなのか

わからない倉持治という友人に人生を翻弄される主人公を描いた作品である。

 

――

あいつを殺したい。でも、殺せないのはなぜだ。

どうしても殺したい男がいる。その男のせいで、私の人生はいつも狂わされてきた。

あいつを殺したい。でも、私には殺すことができない。

殺人者になるために、私にはいったい何が欠けているのだろうか……。

(amazonより引用)

 

 

主人公の男性には倉持治という友人がいる。

 

いっけんいろんな相談にも乗ってくれるし、仕事や女性も紹介してくれる。

しかし、働いてみたらそれは警察から追われるような仕事であったり、

付き合って結婚してみたらやたらと問題がある女性であったりする。

とにかくいい流れ、結末がないのである。

 

倉持はきっと自分の人生を壊すことを楽しんでいる、そう思いながら

また倉持とあってその件の言い訳をきくと、「ああ、もしかしたらオレの考えすぎか」

みたいに思う。それの繰り返し。

 

本当に自分の幸せや成功を考えてくれているのか?

それともただのピエロ(笑い者)にしようとしているだけなのか??

 

なかなかどうしてリアルな人間交差点にもつながる心理&描写。

人間の真意はそう簡単に見破ることはできない。

 

映画「ジョーカー」におけるホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロの

掛け合いもそうだったが、相手を人気者にさせようと見せかけて実は

笑い者にさせようとしている輩は大衆が想像している以上にこの世の中に

多いだろう。

 

メディア的には安定感ある評価がされている東野圭吾作品だが、

オレの中ではアタリ、ハズレが多い作家である。

 

映像化にかんする評価も同じ。

「容疑者Xの献身」とかは原作もよくできていて、映像もかなり良かった。

映像が原作を越えた映画作品はオレの中で今のところ、

「犬神家の一族」と「容疑者Xの献身」だけである。

 

だけど「マスカレードホテル」「疾風ロンド」(ともに東野原作)は

なんじゃこりゃの世界。

観た時間が無駄だった。

 

今回紹介した「殺人の門」はとくに映画化するほどの世界観ではないが

いかにも東野圭吾らしい、人間の内側の葛藤を描いた作品だと思った。

ものすごい面白いわけでもないが、つまらないこともない東野圭吾らしい

安定した作品。

 

今回読んだもう1冊はこちら。

 

 

 

 

そんなつまらなかったわけじゃないのだが、筋は忘れてしまった。