しゅうそくとは、終息のことなのか収束のことなのか。
ようせいとは、要請のことなのか陽性のことなのか。
スポーツが無観客でおこなわれている理由は観戦によって感染するから?
ニュースでも巷でも同じような言葉、あらゆる言葉が頻繁に飛び交っている
ため、耳から入ってくる言葉がやけに混乱するそんな今日この頃なのだが、
先週の夜、群馬にいる先輩と約3か月ぶりに電話で話した。
時期が時期だけにいうまでもなく、コロナおよびそれについての世間の話題にも
およんだのだが、さすがは長い付き合いの先輩。
このご時世たまにみかける‘ある違和感’においての提唱でオレと完全に
価値観が一致していた。これは嬉しかった。
余計なお世話、人の勝手といわれればそれまでだが、このブログはあくまで
‘少数派寄り’のブログなのであえて書く。
外出自粛の要請がでたことで、家にこもる機会が増えたわけだが、情報番組とか
を観ていると、たまに「家の中でできる運動」とかをyoutubeでアップしている人
とかがいる……。
ソレについてのオレと先輩の見解。
「なぜ、この機会にそんなもったいないことをする??」
である。
すこし前の記事で、「ピンチはピンチでチャンスではない」と書いた。
だが、すこし訂正すると、今回のこの外出自粛要請はいわゆるひきこもりの人たちに
とっては立場を強く主張できるチャンスなのである。
先にひとつ断っておくと、ここで書くひきこもりというのはいわゆる働く気がないニート
のことではない。働く気があるのにその場を与えられず社会によってひきこもりに
させられた被害者的立場の人たちである。
今は緊急事態宣言によって日常から非日常へとほうりこまれた感じになっているが
視点をちょっと入れ替えてみてもらいたい。
これまではなにかとあれば、親も教師も上司も友人もネコも杓子も口をそろえて、
「外で走り回って遊ぶことが良いことだ!」
「とにかく外へでよう!」
「健康のために体を動かして運動をしよう!」
「たくさんの人と触れ合って交流を広めよう!」
などと叫んできたのが日常だった。
それに逆らい家にこもるものならば、やれ不健康だ、やれ運動不足だ、
やれオタクだ、やれ非社交的だ、やれ社会不適合者だ、つまりすべての要素まとめて
おまえらみなひきこもりだ!と糾弾されてきたわけである。
だが、今はどうだ。
先輩もまったく同じ表現をしていたが、「国公認でひきこもれる」わけである。
不謹慎とかそういう段階の話ではなく、発想を転換すれば、これほどレアな期間は
ないわけであるし、体を動かすことしかしらない人には新しい世界を試すいいきっかけ
となる期間なのである。
普段はとにかく「外へでろ!」といっていた国や識者たちがここにきて急に
「家にいろ」といっている。
普段はとにかく「いろんな人と触れ合え」「コミュニケーションとれ」といっていた
メディアや上司がここにきて急に「人と会うな!」といているわけである。
つまり、原因の良しあしは別として結果的に今は価値観が完全に逆転した世界に
なっているわけである。
それはこれまでひきこもっていた人たちが、今まで自分らを否定し続けていた
人たちを自分たちの土俵(マニアックに例えれば宇宙刑事シリーズのマクー空間)
に引きずりこめるわけである。
そう、あったのだ。
ピンチのすぐ裏にチャンスが。
偶発のメビウスの輪。
それがなにかといわれればオレにもまだわからないけど、もし必然的のひきこもり
となった人たちに論破、あるいは立場的な逆襲のチャンスがあるとするならばそれは
今。
話はすこし戻るが、オレも先輩もいわゆるロスジェネ。
ともになかば強制的にひきこもりに近い立場に追いやれた経験があるから
その痛みや屈辱は、人生のすごろくでコマをストレートにすすめていった人間よりも
よくわかっている。
だから(本当に余計なお世話だが)、この時期にyoutubeとかで家の中で体を
動かせる運動だとかエクササイズとかを披露している人と見ると、オレも先輩も
もったいないというか、何やってんの?と思ってしまう。
身体を動かすこと自体は決して否定しないけれど、せっかく強制的に巣ごもり
する状況になって、強制的に今までの自分と違う新しいことを試せる環境になったのに
家にいてまでテッテー的に体を動かすのであれば、今までと変わらないじゃん、と。
たとえば普段オレが室内で本読んだりばかりしているとする。
でもある日、友人に無理やりスポーツに誘われ外に出たとする。
スポーツは好きじゃないけれど、もう強制的にテニスコートまで連れてこられた
とするならばさすがにテニスやってみようと思う。
プレイはまったくせずにテニスコートの中に座りこんで大空の下そこで漫画や
小説を読もうとは思わない。
それとこれとは違うとかいう人もいそうだけれど、実はそれと同じで、
家の中での運動法とかを披露している人は、せっかく強制的に文化系の生活を
送れる良いチャンスなのに、みすみすこれまでと同じことをやっちゃていて
もったいないなあとオレ(と先輩)は感じていた。
ちょっと上から目線でいわせてもらえば、今回のことで俗にいう
「体を動かすのが好きで好きでしょうがない人」たちの発想力の乏しさが露呈
してしまったのかなという印象も受けた。
せっかく異なる環境に足に放り込まれたのに、いつもと同じことをやってて
家の中に巣ごもりするからこそのめりこめる新たな楽しみをみつけることが
できないのかなあと。
たとえるならば、生まれて初めて有名な海鮮丼の店に連れてきてもらったけれど、
これまでカレーライスばかり食べてきたから、そこでも結局サブメニューのカレーライスを
頼んでしまった人といったところだろうか。
女性に食べさせてもらうヒモ。
そんなヒモにだってヒモの才能があって、誰でもヒモになれるわけではない、と
誰かがいっていた記憶がある。
なんとなく納得するものがあった。
それと同じでダラダラするにもある意味才能が必要だったり、ひきこもりにも
同様に才能が必要なのだと思う。
ここでは引きこもり寄りの文章を書いたが、オレは部屋でずっとじっとしているのが
苦手である。
スポーツは大嫌いだが、外に出掛けるのは好きなので、オレにはきっと引きこもり
の才能はないのだと思う。
だが、氷河期世代のロスジェネのひとりとして、今この国が合法的に推奨している
ひきこもり、非コミュニケーションのタイミングがひきこもりの人たちにとってなにか
優位に立てるアーカイヴとなればいいなと願っている。
ゲームの巧さでもいい。読書量でもいい。観た映画の数でもいい。
部屋から出てない時間の記録だって、突き抜ければギネスに申請できるかも
しれない。
なんでもいい。
とにかくこのひきこもりが合法されているレアな期間で、健康的な日常を送って
美辞麗句を並べてきた人たちを見返すことができればそれはひとつの歴史が動いた
といっても過言ではない。
と、まああえてこのブログらしく極論を挑発的に書いたけれど、ひきこもりの人も
そうでない人も関係なく、せっかく外出自粛要請がでているこの時期だから
家の中で妄想力を養うのもいいのではないかとささやかに提案させていただきたい。
かなり前にも巣ごもり啓発的な記事を書いた記憶があったので検索してみたら
見つけたので、参考に下にリンクしておく。
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