雨降って地固まる。
昔タモリのボキャブラ天国で、この言葉をボキャぶったネタがあった。
急な土砂降りが街を襲い、散歩していた多くの老人たちが一カ所の軒先に
集中して慌てて避難してくる。
そこでたくさんの爺たちがひしめきながらがブツブツと独り言をいっている映像が流れ、
「雨降って地固まる」 →「雨降ってジジイが溜まる」となるネタだった。
雨が降らなくても土日の図書館は爺がよく溜まる場所であるのだが、
そこでとても不快なことがある。
オレが椅子に座って雑誌を読んでいたりすると、爺がオレの前で平然と
「ブーッ!!」と大きな屁をしてそのまま通り過ぎてゆくのである。
さらに通り過ぎたあともブッ! ブッ!と小刻みに放屁しながら歩いてゆく。
あまりにも失礼ではないか。
オレにたいしてだけの問題ではない。
大きな音なので、静かな図書館じゅうに響き渡り、他の利用者の耳にも
入っているわけだ。
しかもそれが特定のひとりくらいならわかる。
別人の爺でそれがヘタしたら二ケタくらいいるのだ。
あれはいったいなんだんだろうか?
年齢とともに肉体も衰え、肛門のパッキンも緩くなり、無意識のうちにガス漏れ
してしまっているのだろうか。
それならば、まだしょうがないともいえる。
年は誰でも取るものだし、オレのいつかそうなるかもしれないから、自分でも気づかず
うちにでてしまっているか、あるいは出てしまいそうなのがわかりつつも、我慢する力
も失って恥をかき冷たい目で見られてある意味可哀想ともいえる。
だが、もしそれが肉体の衰えによる無意識の漏れではなく、もう老人だからということで
恥じらいやマナーの徹底が薄れたゆえ
「別にしちゃってもいいだろう、もう恥ずかしくもないし」
という甘えた意識ゆえだとしたら、許せないものがある。
百歩譲ってこれが外の歩道とかならばまだいい。
立ち止まっている人もあまりいないから、匂いをダイレクトに受けることも
ないだろうし、音も雑踏にかき消されるだろうから。
だけど、たくさんの人がいるとても静かな図書館で、しかも座って本を読んでいる
人の目の前で思いきりブーッ!と一発かまして、涼しい顔でそのまま歩いてゆくのは
あまりにも失礼ではないか。
最初は老人だから本人は出てしまっているとこに気づいてない可能性が高いのかなと
思った。
だが冷静に観察してみると、放屁する爺はたくさんいるが婆はいないのだ。ひとりも。
女性は年を重ねてもやはり女性なので、出そうなときがあってもやはり我慢してるのだろう。
それを考えると爺も同様に出そうなのを自覚して我慢できるはず。
だとすると、やはり爺の放屁は確信犯かと思える。
女性にくらべ屁に恥じらいがなく、老人だから許されるだろう、という感覚かと。
だれでも年はとるから老人差別するつもりはないが、そういうマナー違反の爺を
目にするたび、「年はとりたくない……」としみじみ思ってしまう。
いや、思わされてしまう。
すこし前のスーパーに買い物いったときも、レジに並ぼうとしたらカートを押した
爺が前にいたのだが、列から人ひとりぶん外れて立ち止まっていたので、
列に並んでいるつもりなのか、それともただそこに立ち止まっているのかわからなかった。
他の人の通行の邪魔にもなっていたので、ちょっと腹たったが一応目上なので丁寧な
口調で
「あのう、すいません。並んでいるんですか?」
と訊ねたら、
「ああ!? んなこと見りゃあ、並んでいるってわかるだろ!」
と乱暴な口調で返して睨んできやがった。
なるほど。
日本という国は貧乏なロスジェネからも年金をしぼりとって、こういう人格破綻した老人に
分配しているのか。
よく理解できた。
だからといって、すべてのお爺お婆がそういうふうに自分自身に甘くなり、大衆に不快な
思いをさせるなんてことは当然思っていない。
オレが遭遇した図書館やスーパーのお爺は老人全体における数割だと思う。
そう、年をとっても品格を持ち続けている人生の先輩として尊敬できる生き方を
している老人もいるのだ。
老いても人生をまだ捨てず、老いてなりに輝いているお爺お婆も。
名作映画を観るにあたって参考にしている文芸春秋「戦後生まれが選ぶ洋画ベスト100」
において、50位にランキングされていた「八月の鯨」という作品を数か月前に観た。
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――
メイン州の小さな島にある別荘で、毎年夏を過ごす老姉妹リビー(ベティ・デイヴィス)と
セーラ(リリアン・ギッシュ)。
かつて島の入り江は8月になると鯨が現われ、少女だったころの二人は鯨を見に行くのが
楽しみだった。
姉妹は長い間互いに支え合って生きてきたが、病気で目が不自由になった姉のリビーは
周囲にとげとげしく接するため、彼女の世話をするセーラは心を痛め……。
(Yahoo!映画より引用)
互いに夫に先立たれた老夫婦姉妹が支え合いながら、隣人、修理工、幼馴染との交流を交えて
明るく余生を過ごしてゆこうとする人間ドラマ。
登場人物の平均年齢はとても高い。
そして場面も老姉妹が暮らす海辺のサマーハウスとその半径数十メートルといった
ところ。
派手な動きや事件もなくとても静かな映画なのだが、主演のひとりであるリリアン・ギッシュ
という女優さんになぜかとても惹かれるものがあった。
オレは勉強不足なので、アメリカ映画における昔の有名女優さんとかの名をしらないのだが、
もうひとりの主役である姉リビー役のベティ・デイビスという女優さんと揃って、往年のスターらしい。
リリアン・ギッシュがお婆ちゃんなんだけれど、とてもキュートなのだ。
街を歩いたり、テレビとかを見ていると、たまーに仕草や表情がとてもキュートなお婆ちゃんを
見かけるがまさにその最上級。それがリリアン・ギッシュ。
「八月の鯨」の中における存在感がもうとても可愛らしいのだ。
目が不自由になった姉のリビーがたびたび我がままいったりするのにたいしても
落ち着いた感じで「まあ」とかいったりしてしっかり世話をする。
この「八月の鯨」が製作された当時、リリアン・ギッシュの実年齢はなんと90歳だったとか
いうから驚きだ。
姉のリビーを演じたベティ・デイビスのほうが実際年下。
リリアン・ギッシュ演じるセーラという役がとても輝いていたことが素晴らしかったと
同時に、リリアン・ギッシュ本人としても90歳という高齢にして女優という仕事を
ここまでしっかりと楽しみながら演じていることに熱くなるものがあった。
老いても人間として、そして女性としての品格を捨てることなく生き、鯨の出現を
楽しみに散歩する姉妹の姿はとても静かに静かに尊敬する光景だ。
無差別殺傷も貧困も癌もあるこの時代。
果たしてオレに‘老後’というものがやってくるのかもわからない。
別にうしろ向き思考とかじゃなく、シビアな問題で老後という時代がくるまで生きているか
の保証はないのだ。それまでにこの世から消滅しているかもしれない。
もし老後という時期を迎えることができたとしても、図書館やスーパーのレジで
見かけたようなモンスター老人になるくらいなら、三島由紀夫じゃないが老いる前に
死んだほうが理想だと考えたこともないこともない。
だけど、この「八月の鯨」、そして当時90歳だったリリアン・ギッシュの素晴らしい演技
を観たら、ちょっと前向きに老後というものを考えたり、また自分の老いた姿を想像して
そこからどう余生を過ごしてゆくのが理想かというのも考えるべきなのかなあと珍しく
反省した。
この作品は名作といわれているらしいけど、とても静かで優しい大人の作品であり、
その人が気になったり、観てみようかなと思ったそのときが観るタイミングなのだと思う。
なので決して悪い意味ではなく、各位が自分のタイミングで出逢って鑑賞して欲しいので
あえてこの場では勧めない。
オレもまたすぐにもう一回観たいとはまったく思わない。
だけど――
やがてオレにも老後が来たそのときには、老人となった自分の立場に重ねて
もう一度この作品を観てみたくなるような気がする。
若き日の姉妹の写真が写るシーンはホロリとする。
誰にも若かりし日があり、そして誰もが老いてゆく、という当たり前のことの大きさと
重要さを改めて教えられた気がした。
年をとっても品格は失わずに生きてゆきたいものだ。