史江 ふたたび | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

エアコンですって? 

いえいえ、そんなものはまだ学校にありませんでしたね。

私と同じ世代の方ならばわかるとお思いですが今とは時代が違いましたから。

それでも今のように粘っこい暑さではなかったので私たち子供は汗をかきながらも

我慢して過ごせたものでした。

 

ただ、あの日あの教室で、私の体の毛穴という毛穴からどんどん噴き流れ出る玉のような

汗は教室にこもった熱気のせいでは決してなかったのです。

嫌な汗でした。今でも耳のうしろの肌がその感触をおぼえていて甦ってくることがあります。

自分の汗とはいえ、それの伝ったさまはまるでうねった虫が這っているようでした。

 

もう思いだしたくもありませんが、私の過去をしっかりとしっていただいたほうがすべて

伝わると考えたのでお話をする覚悟を決めました。

こんな話、聞かされた方も不快かもしれません。

そんなときはどうぞお気を遣わず私の話を聞くのを辞めていただいて構いません。

 

 

大きく開けられた窓の外から流れ込んでくる生ぬるい風、そして騒がしい蝉の声……

そう……あれは、たしか小学校4年のときの夏の日の午後でした。

教壇に立っていたのは、かすかに老人臭漂う年齢の女性教師でした。

そして、彼女の前には私を含めた生徒全員が着席をしていました。

 

生徒の中でひとりだけ下を向き泣いている女子。

名前はタナハシ トモミ。 いや、トモエだったでしょうか。くわしくはもう忘れてしまいました。

だって私には本当に関係なかったはずのことですから。

 

タナハシは登校したときはスカート姿でした。でもそのときはジャージをはいていました。

自分のものではありません。職員室にあった先生のジャージを借りたものです。

大人用なのでサイズが合わないため、足首がずっぽりと隠れて裾を踏んでました。

 

あのおぞましい事件は給食が終わって最初の体育の水泳の授業中に起きました。

 

授業中、更衣室においてあったタナハシトモミ、いやトモエでしたか……

とにかくそのタナハシという女子の下着が紛失したのです。

タナハシはそれでショックをうけ泣き続け、先生に報告したのです。

 

犯人はその時点でまだわかっていませんでした。

事件をしった先生は、6時間目の国語の授業を急きょ変更して学級会を

開いたのです。いや、簡単にいえば犯人さがしの時間と表現したほうがいいでしょう。

 

「前の水泳の授業中、タナハシさんの下着が無くなりました。本人は落したりしてはない

といっています。誰かがいたずらして盗ったんです。盗った人は誰ですか!?」

 

先生は大きな声で私たちにそういいました。

いえいえ、今でこそ生徒の人権が考慮され、プライバシーに関するようなことはこういう場で

いわずに個人でそっとやりとりするものですが、あの時代はこんなデリカシーのない先生が

当たり前のようにいたのです。まったく信じられないことです。

 

そんなことをいわれたところで犯人が素直にみなの前で名乗り出るとでも思ったのでしょうか。

当然、誰もなにもいわず、その場の異様な空気にじっとしていました。

もちろん、私もです。

心の中で「いやらしいやつか人を困らせるやつがクラスにいるんだなあ」

という程度に思っていました。

 

嫌な沈黙が教室内にたちこめました。

なんと息苦しいことでしょう。

 

「今のうちにいって返せばタナハシさんも許してくれると思います」

タナハシ本人の意思を確認したわけでもないのに、先生はそういいました。

しかし、状況は変わりません。当たり前です

沈黙の時間が長くなればなるほど教室内の空気が澱み、そしてだんだんと重くなって

ゆくように私は感じました。

 

そんなときでした。

ひとりの生徒がいきなりクラス中に聞こえるように大声で叫んだんです。

「こういうのってさ!ふだんおとなしくて悪い事やらなさそうなやつがやったりするんだよな!」

 

声の主はオノグチ ヒロシという男子でした。

オノグチはいわゆるクラスの人気者という地位にいる男子でした。

肌の色が黒く、おしゃべりで、とにかく先生に気に入られる術だけは長けていました。

私からすればただ明るくて元気がいいだけのお調子者にしか映りませんでしたが

明るく元気というだけで、それは先生や保護者のお母さん方の目をだます十分な武器になった

ようです。

 

――オノグチがまた調子に乗ってリーダー気取ってるよ……

 

心の中でそう思った私の耳に次に飛び込んできたのはオノグチが叫んだ信じられない

言葉でした。

 

「平島みたいにおとなしくて真面目そうなやつが怪しくね!?」

 

私はオノグチの口から自分の名前がでたことに驚いたというか唖然としました。

ここで私の名前がいきなり出ることの意味することを理解するまでに時間を要したのは

いうまでもありません。

 

訳もわからないまま戸惑う私の耳に続いて飛び込んできたのは女子の声でした

「ありえる!ありえる! ほら、なんていうの!? あ、そうそうムッツリスケベとかいうじゃん!」

 

ウチダ ルミという女子でした。

ウチダもクラスの中では目立つ存在にいました。

似ている存在は引かれあうのでしょう。ウチダとオノグチはクラスでも仲が良く、休み時間は

いつも取り巻きに囲まれて教室内で騒いでいました。

 

クラスでも存在感のあるふたりが話し出したことに周囲も触発されたのでしょうか。

他のクラスメートたちもそれにあわせたように、

「そうだそうだ!」 「平島が怪しい!」「おい!誰か問い詰めろ!」と一気に騒ぎ出しました。

 

―― 僕じゃない!!

 

私は叫びました。

しかし、それは心のなかで精いっぱいでした。

気の小さな私です。

いくら無実であってもクラス全員からそんな視線を向けられたら、もう混乱して震えがとまらず逆に

黙ってしまいました。

 

私はどうしてこうなったのかすらわからず動けなくなってしまいました。

まるで尻が重い岩になってしまったかのように椅子から立ち上がることもできませんでした。

 

「犯人だから黙ってるんだよ!」

「なんとかいえよ!」

周囲が煽りだしました。

 

そのとき誰かがいいました。誰だがわかりません。男子だったのは間違いありません

「おい!オノグチ! 平島のランドセル、持ち物検査で中身全部だしてやれ!!」

 

「おおー!やれやれ!!」

みなが声を揃えてそう叫びました。男子も女子も。

私は教壇にいる先生に助けの視線を投げかけました。

しかし……

そう、あの目は……私が犯人であることを期待している目でした。

これで私が犯人だとわかれば、これでこの事件は片付くと。そんな目でした。

先生は黙って私の席に近づくオノグチを見守っていたのです。

 

私の席までつかつかとやってきたオノグチは机の横のフックに掛けてある

ランドセルを奪うようにとりあげました。

 

黒い革のランドセル。

私が幼稚園を卒業して小学校に入学することを喜んだ今は亡き祖母がお祝いに

買ってくれたランドセルです。

可愛がってくれた祖母の顔が浮かびました。

今の自分の姿をみたら祖母はどんな顔をするでしょうか。

そのとき、私は子供ながらに祖母にたいし、「こんな情けない孫でごめんなさい」

と心の中で泣きながら謝ったものでした。

 

オノグチは私のランドセルのロックを外すと、それを高くあげてそこで一度動きを

止めました。

目立ちたがり屋のオノグチのことです。

そこでクラス中の注目を自分のかかげたランドセルに集めたかったのでしょう。

 

私はまだ動けないままでした。

それは単純に私に行動する度胸がなかったからです。

ですが、同時にこれでランドセルの中に証拠がないことがわかれば無実が証明される

とされるがままにしておこうと考えてしまったこともありました。

今思いだしてもあのときの自分による自分へのいい聞かせは実に情けないものだと

恥ずかしくなるものです。

 

クラス中がそろって息を吞むのが空気でわかりました。

オノグチもその瞬間を姑息にも察したのでしょう。

高く掲げた私のランドセルをその場で逆さにしました。

 

だらりと垂れたランドセルカバー。

そして中からその日の授業で使った教科書やノートがドサドサと落下してゆきました。

 

自分の持ち物がひどい扱いをされている屈辱に私は耐えるしかなかったのです。

でも、これでこの犯人探しゲームの理不尽な容疑者扱いからもう解放されるんだ、と

思いながら、次々床に落ちてゆく自分の教科書やノートや筆箱を見つめていました。

 

ですが、

ランドセルのすべての中身がすべて吐き出されたと思った最後、

でてくるはずのないモノがでてきて、はらりと舞いながら床に落ちてきたのでした。

白い布のようなもの……

 

タナハシはそれを見て、また急にワッと大声をあげて叫ぶように泣きだしました。

私は混乱して言葉を失いました。

そして周囲を見回しました。

 

さっきまで騒いでいたクラスメートたちはそろって口をとじていましたが、私を見るその目は

まさにそう、軽蔑のまなざしというものでした。

とくに女子たちはいままで見たことないよう冷たい目をしていました。

 

そんな中、ふたりだけにやにやと笑っている人間がいました。

ひとりはウチダ ルミでした。

そして、もう一人は……目の前にいるオノグチです。

 

私はそのいやらしい笑い方を見た瞬間にすべてを察しました。

 

そう、すべてはこのふたりが仕組んだ――。

 

しかし、教室内では既に私が犯人だったという空気が固まりつつありました。

 

「平島!」

普段は君づけで呼ぶ先生が呼び捨てでいったことにも私は驚きました。

 

ですが私は先生を最後に信頼しました。

 

「君じゃないよね?」

と、きっといってくれる……そう期待したのです。

しかし、そんな私の願いは岩場にあたった波にように見事に打ち砕かれました。

 

「平島、先生は君を見損ないました。どうして最初からいわなかったんですか?」

 

私はもうどうしていいのかわかりませんでした。

泣くことすら忘れて混乱しておりました。

もう、クラスのみんなや先生は私が犯人だと思い疑っていませんでした。

あれは本当に屈辱でした。

 

そのころ、社会科の授業で習った歴史上の言葉がありました。

無実の人が大勢の前でつるしあげられることをです。

そうです、魔女狩り。

私の頭にその時浮かんだのはおぼえたばかりのその言葉でした。

私は今魔女狩りにあっているんだ……この教室で――、と。

 

「ヘンタイ!ヘンタイ!ヘンタイ!ヘンタイ!」

 

クラス中が声をあわせて心無い合唱をはじめました。矛先はいうまでもなく私です。

先生は静観していました。

その表情はまるで「あなたの自業自得です」といっているように私には見えました。

身体を震わせながらもそこにある顔という顔を見回すと、これまで一度も会話した

ことのないクラスメートまでが男子女子問わず私に向かってそう叫んでいました。

よく見るとその顔はとても楽しそうでした。

 

もう、誰も私を信じていない。

気づくと私は立ち上がっていました。

椅子に張り付いていた尻が急に浮いたのです。

そして自分でも意識せずにか気づくと私はタナハシ トモミだかトモエだかの席へ

走ってゆきました。

驚いたクラスメートたちの合唱はそこで一度とまり、そして私の動向に注目しました。

 

周囲がどんなに騒いで犯人扱いしても、被害者本人であるタナハシはきっと

私は盗んでいないとわかってくれる!と、とっさにそう考えたのです。

 

「タナハシさん! 僕じゃないよ!」

私は抑えていた悔しさがそこでこみあげてきたこともあり、半分泣きそうな声で本人に

訴えました。

 

タナハシがひとこと。そうひとことでいいのです。

ここで「平島くんじゃないと思います」といってくれるだけで私の疑惑は晴れる。

そう思い、賭けたのでした。

 

私が呼びかけても数秒間の間、タハナシは机につっぷしたまま泣いていました。

クラス中が固唾を呑み、私とタナハシのことを見つめていました。

 

するとタナハシが急に顔を上げたのです。

そして涙にまみれて真っ赤にパンパンに晴れ上がった目を思いきりつりあげながら

私をにらみ、そして静かな重い声でこういったのです。

 

「最低……。もう学校来ないで」

 

 

……

 

それを聞いた私はただ、その場で立ちすくむことしかできませんでした。

 

タナハシのその言葉を聞きとったクラスメートたちがその言葉でまるでお祭りのように

騒いでいる様子が目に入りました。

しかし、不思議とその騒音は私の耳には入ってきませんでした。

私の目の前はまっくらになりました。

こんなに明るい昼間の教室の中なのに――。

 

今ここで私の話を聞いただけでも、とても汚らしい事件だと耳をふさぎたくなった方も

多いことでしょう。

第三者の人が聞いても汚らわしい事件です。

それをふまえれば、、当時この犯人扱いされて渦中にいた本人である私がうけた傷と

心の傷がどれだけ大きかったものか、想像もいただけることと思います。

 

 

どこか遠くのほうで声で蝉の鳴く声だけがかすかに聞こえてくる……

 

今は本当に夏?

それにしてはなんだか空気がとても冷たくて寒い……

体の中を北風が吹き抜けてゆくようだ……

 

なんとなく、心の中でただ……ただひとりそんなことを感じていました。

床にはオノグチによってばらまかれた教科書やノート、

そして、祖母が買ってくれた大事なランドセルもまたオノグチの手により

放りだされていました。

べろんと伸びたランドセルカバーは床にべったりとはりつくように広がり、

まるでこの教室の汚い床をなめさせられているように目に映りました。

私は祖母にたいする罪悪感、そして屈辱感によりその場で声をあげ涙を流してしまったのです。

「おばあちゃん、ごめんね――」

 

 

 

 

私はもう一生、周囲の誰も信頼することができないかもしれない――

 

 

女の人もみな、私のことは最低の人間だと思っているのだろう――

 

 

そして私もまたそんな女の人が恐い――

 

 

その恐怖心がある限り、私はもう女の人を好きになることがない、きっと――

 

 

私は女の人を好きになってはいけない人間だったのだ――

 

 

今までも――

 

 

そして、これからもずっと――

 

 

 

大人になってまで、いつまでそんなこと引きずってるのかですって?

いや、まさにおっしゃるとおりです。

 

でもみなさんは心の傷というものをその目で見た経験がありますか?

ありませんよね。

他人からすればたいしたことないような刃ほど、その本人には鋭くつきささり、

そして人を信じられなくなるという後遺症として残ってしまうものなのです。

 

時間の経過は決して万能の薬とはならないということを私は身をもってしりました。

傷が人に見えないのですから、当然その傷の深さも人に見えるわけがないのです。

 

ええ、誤解のないようお伝えしておきますが、今お話したことは私の記憶に

残る傷すべてに限りません。

これだけで心をそこまで病ませてしまうなんてことはないのですが、さすがに

私もその他の過去をすべてまた思いだして語ることは、心身的にかなりの

負担となりとても辛いのでそれはどうかご容赦いただきたいと思います。

 

 

ですが……

そんな私の忌々しい数々の過去を優しく洗い流してくれる優しい女性がそこにいたのです。

一緒に隣り合っているだけで、過去をすべて忘れさせてくれる女性が……

 

 

 

 

 

 

   

 

   

 

 

 

 

 

 

「綺麗な声ですね」

 

お湯にふたりで浸かりはじめてどれくらいの時間がたったでしょうか。

互いに黙ったまま頭上に散りばめられた輝きの異なる星たちを見上げていたら

私の隣で史江さんがいいました。

すこしのぼせたのでしょうか。隣りにいる史江さんの顔はやや赤みを帯びていました。

温泉の注ぎ口からは絶え間なくどばどばとお湯が注がれる音が聞こえては

目の前の清流の音の中へ熔けてゆきました。

 

 

私は状況をとっさに判断する能力に欠けているので、史江さんがいった「綺麗な声」

というのが一瞬私の声のことをいっているのかと思ってしまいました。

しかし、お世辞にも私の声は決して美しいとはいえません。

すぐにそれが今わたしたち二人が入っている露天風呂から見た向こう岸や、

周囲に茂っている草木の中から聞こえてくる、なにか生き物の声だとわかりました。

あぶなく恥ずかしい思いをするところでした。

 

「カジカガエルですよ」

私の横で史江さんがそう続けて教えてくれました。

「カエルですか?」

はじめて耳にする名前だったので私は史江さんに訊き返しました。

 

鳴き声からして、私はヒグラシかと思いましたが、ヒグラシにしては微妙に鳴き声が違って

聞こえるとは思っていました。あとから思えばヒグラシがこんな夜中に鳴くのを聞いたことも

なかったのですけれど。

 

「そうです。カエルなんですよ、この声。カジカガエルっていって綺麗な水辺に生息している

んです。とくにこの温泉地は水が綺麗だから、たくさんいるみたいです」

「へえ、そうなんですね。松井さん、よくしっていますね」

「私のお母さんがずっと昔にここにひとりできたことがあるらしいんです。それでカエルの話を

聞いたことがあったんですよ。この声を聴きたくてこの温泉を選んだのもあるんです」

 

どうやら史江さんはお母さんの話をきいてこのS温泉にくることを決めたようでした。

憧れというものも遺伝するのでしょうか。私はふとそんなことを考えてしまいました。

 

「そうだったんですね、ここは本当に素敵な温泉地だと自分も思います。

きて良かったなって」

そこでついつい「松井さんにも逢えたし」と続けていってしまいそうになり、私はあわてて

口ごもりました。

山奥にある空が広い温泉地というのは実に不思議なものです。

私のような小心者で自分の意見をはっきりいえないような人間の本音さえ、自然と

引きだしてくる力があるようです。

 

「でも自分なんて、なんとなくいいなあと感じる程度で、松井さんみたいに地域の

知識ないから恥ずかしいです」

 

取り繕うように私がそういいました。

すると史江さんは私のほうに顔だけ向けて、「あっ、ほら!また今いいましたね」と

いいました。

「さっきお部屋でお話していたときも思ったんですけど、平島さん、すぐにそうやって

『自分なんて』『自分なんて』っていう……」

 

一瞬なんのことだろうと思い戸惑う私に向かって史江さんは続けました。

 

「私の友達でシホちゃんって女の子がいるんです。その子いっつも楽しそうなんですよ。

そのシホちゃんがある日映画を観にいったんです。なんていう映画だったかは聞いたのに

忘れちゃいましたけど。……

それで次の日学校でそのシホちゃんが映画の感想を教えてくれて、すごく面白かったって強く

おすすめしてきたんですよ。そこまでいうんだったらきっと面白いんだろうなって思って、

次の日曜日に別の友達と観にいったんです。そしたらその映画が信じらないくらいに

つまらなかったんです。もしかしたら私だけ感覚がズレているのかなって最初は思いました。

でも一緒にいた友達に訊いたらやっぱりつまらなかったっていうんです。実際観た多くの人の

評価も低かった気はしました。

でも……でも実際につまらない映画でも、そのシホちゃんっていう女の子が楽しそうに

自信満々にすすめてくる話し方を聞いていたら、『ああ、きっとその映画面白いんだろうな』って

気がしてくるんです……」

 

私は頭が悪いのでそこまでで史江さんがなにをいわんとしているのか申し訳ないことに

そこですぐに理解することができませんでした。

 

「……平島さん、もっと自分に自信もっていいと思いますよ。

私、女の人の前でかっこつける男の人は好きじゃないけど、平島さんはちょっとだけ……

うん、ちょっとだけかっこつけたほうがいいかな。そう思いますよ」

 

最後に言葉をそう添えると、史江さんは私の目を見てにこっと微笑みました。

 

気のせいでしょうか? 史江さんのその言葉を聞いたとき、浸かっているお湯の

温度がかすかにあがったように感じました。

いや、熱く感じたのは私の体の中がぽっと熱をもったからかもしれません。

 

こんなことを告白するのは大変お恥ずかしいのですが、私はあのときの史江さんの

微笑みを今でも忘れることができません。

 

「自信」…………

そんな言葉、もうずっと昔に剥ぎ取られていました。

いや、私は最初から自信など持ってはいけない男なのだと卑屈になってしまっていたの

かもしれません。

いい大人になっても私にできる唯一のことは他人の視線と声におびえ、誰も信じることが

できないまま、自分自身を責めて生き続けることだけでした。

 

自分よりいくつも若い女性から諭されてしまうとは情けないとも思いつつ、

自分のような男でも存在していいのだと認めてくれる女性がいたんだと思うと、目頭が燃えて

しまうほど熱くなってきたのです。

 

こみあげる感情を必死に抑えながら史江さんに「ありがとうございます」と一言いうと、私は

「あー!でも本当に気持ちいいですね!」と叫び、両手で湯舟のお湯をすくうと、そのお湯で

ばしゃばしゃと顔を激しく洗いました。

もちろん、それは抑えきれず流れでようとした大量の涙を隠すための私の工作でした。

 

「あっ!お湯で顔洗うのはマナー違反ですよ!もう!」

私の姿を見て史江さんがそういいました。

マナー違反だといいながらも史江さんは笑ってくれていました。

 

今考えたら、きっとあのとき史江さんは私が泣いていたことに気づいていたのに

あえて気づいてないふりをして、そういってくれたのかもしれませんね。

なんせ、私は部屋で既に一度涙を見せているものですから……

これ以上弱い姿を見せたくはなかったのです。

 

私たちふたりが浸かりはじめたころに比べると、空の月はかなり動いていました。

それだけもう時間が経ったということなのでしょう。

夜もさらに深くなってきたせいか、目の前の川の対岸に生えている樹々たちも

そのシルエットを闇に溶かしはじめ、川上から吹いてくる風にその葉をゆらしているのが

かろうじて肉眼でわかるくらいになりました。

姿を見せないカジカガエルたちは変わらず鳴き続けています。

 

長い時間、こうして史江さんと肩を並べて川沿いのお風呂に入っていましたが、

ふたりでじっとカジカガエルの美声に耳を傾けながら、頭上に散りばめられた輝く星々を

見上げていたのがほとんどだったので、会話らしい会話は最後にちょっとした程度でした。

 

ですが私はとっても幸せな気持ちでした。

人と一緒にいるだけで、ただ寄り添っているだけで、こんなにも心が落ち着いた時間は

いままでありませんでした。

 

この時間が終わらなければいいのに――。

私は心の中でそんなことを考えていました。

安っぽい小説の台詞みたいですね。でも、このときはじめて、その安っぽい恋愛小説

にでてくる登場人物たちの気持ちがわかったような気もします。

何事も経験というやつですね。

 

やがて遠くから車の走る音が小さく聞こえてきました。

地元の人はもう寝静まっている時間です。

夜遅くまでやることがある宿の人が用事で出掛けたか、あるいは私たちのように外部から

やってきた観光客の車だと思われました。

 

「じゃあ、そろそろあがりましょうか」

 

車が走り去ってゆく音をきっかけとしたかのようなタイミングで史江さんがそういいました。

私はあとすこしだけ、ここで史江さんと一緒にいたいと思う気持ちを殺し、

未練のない表情を精一杯に繕って、「そうですね」と答えました。

 

史江さんが「あ、すいません……」といいました。

鈍感な私はなにを謝っているのかすぐにわかりませんでした。

ですが、その「すいません」が、「先にお湯からあがるので向こうを向いていてください」

という意味だと気づき、あわてて川寄りへと移動し、囲いにかぶさるような体勢で

川面を見ていました。

 

脱衣所は簾で囲まれた狭い空間一カ所だけで、入り口の目隠しも風になびくような

薄い布が1枚だけ垂らされたような簡単なものです。

なので最初に服を脱ぐときは順番に入って使いました。

当然、終わりも順番に交代して使うことになります。

都会の生活や、お金のある生活に慣れてしまった人はこういう不便さを拒絶して

しまうのかもしれませんが、私は秘湯ならではのこんな大雑把な温かみが好きで

たまりません。

 

清流をみつめる私の後方からはポタポタポタと雫が石を打つ音が聞こえてきました。

史江さんが体に巻いているタオルからお湯がしたる音です。

やがて、シュッ!シュッ!と布が擦れるような音も聞こえました。

浴衣に袖を通して帯をしめているのでしょう。

 

その女性が史江さんだったからでしょうか。

聞いてはいけない音を聞いてしまったというかすかな罪悪感を感じながらも

私の中でいやらしい気持ちは微塵も芽生えなかったのでした。

いえいえ、決して史江さんに女性としての魅力がないといっているわけではありません。

むしろその逆でしょうか。

 

神々しいものというとまた大袈裟かもしれませんが、天女がもし実在するとしたら、

その天女が衣服をまとっていない姿を見たいという願望はおきまいと想像します。

そんな感覚といえば伝わりますでしょうか。

でも川辺で石の影に潜んでいるカジカガエルたちと、頭上で輝く月だけが美しいであろう

史江さんのその肌を見ていたのかもしれませんね。

 

史江さんが浴衣に着替え終わったあと続いて私も着替え、ふたりで歩いて宿まで戻りました。

帰りの小路はかすかに湿った草の匂いが漂っていました。

誰もいない夜の外の世界には、まるで私と史江さんしか存在しないように感じられました。

コオロギでしょうか。途中、小さな影が私の足元のあたりで跳ねたのが見えました。

私たちふたりだけの世界に間違って紛れこんでしまった小さな闖入者はそのまま道の横に

茂る草の森の中へと飛び込んで消えました。

深い夜、そこに吹く風とそれに揺られてざわざわとなる樹々の葉の音はまるで、S温泉に茂る

豊かな緑たちの寝息のように聞こえてきました。

 

S温泉の夜は急激に冷え込みますが、その冷気は湯上りの火照った体には心地よかったものです。

ただひとつ、先にあがって私が着替え終わるのを待ってくれていた史江さんが湯冷めして

風邪をひいてしまわないかということだけがすこし心配でした。

 

 

宿に戻ると、玄関の鍵は開いていました。

マジックで旅館名が書かれた外出用のサンダルが2組なかったことで、宿の人が私たちが

外にでていることに気が付いたのでしょう。

気をつかって施錠しないままにしてくれたようです。

宿の住居空間のほうからは灯りが見えず音もしません。

もう寝てしまったのでしょう。

このおおらかさが秘湯のいいところなのですが、私はほんのすこし宿の女将さんとご主人に

申し訳ない気持ちになりました。

 

「じゃあ、おやすみなさい」

史江さんが小声でささやくようにいいました。

 

「あ、はい、こちらこそ」

おやすみなさいというつもりが、ついつい「こちらこそ」という意味のわからない

返答をしてしまいました。今思えばあのときは変に高揚していたのかもしれません。

 

しかし史江さんは私のそんな珍妙な返答を指摘することもせずまたクスっと

笑うと、そのまま1階にある自分の部屋へのほうへと歩いてゆきました。

 

ほんの短い時間ですが史江さんが部屋に入るまで見送ったあと、私も階段をあがり

部屋へ戻りました。

 

部屋に入ってからふと壁にかかった鏡を見て、自分自身気づいた変化があったのです。

私は明るい顔をしていたのです。

 

 

 

深く暗い人生を生きているうち、私は明るい生き方というものを見失うと同時に

微笑み方までもどこかに置き忘れてきていました。

しかし、その置き忘れた物をこのS温泉で史江さんという女性が届けてくれたのです。

私はそんな気がしてなりませんでした。

 

布団に入ってからも私はついさっきまで史江さんと一緒に過ごした時間を

何度も頭の中で反芻していました。

いえ、それについても気持ちが悪いとみなさまに思われるのは百も承知です。

でも私のような男にとっては、とても貴重で幸福な時間だったというだけ、どうか

どうかこの告白をお許しいただければ嬉しいです。

 

目を瞑ると、お湯の中で揺れる史江さんの白いバスタオルと、温泉のお湯の香りが

甦ってくるようでした。

 

久々に気持ちよく眠れそうな夜でした。

 

ただひとつ、ちょっとだけ恐かったことがありました。

それは、実は今日これまであったことはすべて夢で、明日の朝、目が醒めたら

この宿に史江さんがいないのではないだろうかということです。

私の中でかろうじてこのS温泉に洗い流されてなかったわずかな後ろ向き思考が

そんなことを考えさせてのです。

 

窓の外の清流のささやきがだんだんと遠のいてゆきました。

幸福とかすかな不安を抱いたまま、私の体も意識も押入れの臭いが浸み込んだ

柔らかい布団に沈んでいました。

 

東京では毎晩のように悪夢に姿を変えて襲ってきた忌々しい思い出であるオノグチや

ウチダ、そしてタナハシたちの姿も、このS温泉で見た夢の中までは追ってきませんでした……

 

 

 

 

 

 

 

そうですね。

これが史江さんと出逢った最初の日の記憶になります。

私にとって人生でもっとも忘れられない日に間違いありません。

 

ああ、またまた長くお話してしまいまして、大変失礼しました。

 

以前、史江さんとの出逢いを私が一方的にしはじめたにもかかわず、みなさんが

とても暖かい目を向けて興味を持っていただいたものですから、私も嬉しくなって

ついつい、またお話をしてみなさんに貴重なお時間をいただいてしまいましたね。

今日はこのくらいで話すのをとめておきましょうか。

 

話の続きは――

 

 

私の中でお伝えする覚悟ができたらまた……そう、また改めて聞いていただきたく

思います。

 

数か月後、いや、もしかしたら5年後、10年後かもしれません。

あるいはもうしないかもしれませんが、それはどうかご容赦ください。

 

それではまたいつかその日に…………。