エデンの東 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

街を歩いていると、たまに保育士さんが引率している数十人の

小さな幼稚園児たちの集団を見かける。

みな、無邪気で純粋な表情をして楽しそうに目を輝かせている。

 

そんな光景を目にしたとき、ひとつの心配が頭にふと浮かぶ。

それは「通り魔」。

 

未来ある子供たちが通り魔に襲われたらどうしよう?という心配を

するなんて意外と子供想いだと持った読者さん……

ノンノンノンノンノン。

 

もちろんそれもある。

半分以上の60パーセントはその「子供が通り魔に襲われたら大変だ」という心配だ。

でも、残り40パーセントはその逆。

 

レールも滑走路も歪んだこんな時代である。

挫折も格差も貧困もこれから待っているわけだ。

目の前だけでもこれだけの子供がいれば10年後、20年後、

「この中のひとりくらいは通り魔になっているかもしれない」という心配だ。

それが残り40パーセント。

 

可能性は低いとしても絶対にありえないことじゃないからだ。

 

決して擁護するわけじゃないが、秋葉原で大量殺傷をおこした加藤智大死刑囚も

先日の登戸の犯人も、オギャーと産声をあげたときから殺人者の資質があったわけ

じゃない。

その瞬間は産んだ母親もとても可愛いと思ったろうし、その天使のような息子が

20数年後、40数年後に殺人犯になるなんて想像もしていなかったはずだ。

 

決して子供たちに向けた不謹慎な未来を想像しているわけじゃない。

あらゆるケース、あらゆるパターンを想定しているだけの話。

 

たとえば、一か月後に長めの旅行にゆくことになったとする。

全日晴天だったり、ゆく先々で臨時休業などなければ問題ないが、それでも

もし万が一、旅行中の天候が豪雨だったり、予定した訪問地が休業日だったりしたら

差し替えとしてどうするか?というパターンは想定すると思う。

それと同じ。

 

もし雨だったらどうしよう?という相談にたいし、

「せっかくの旅なんだからもし雨だったらなんて、そんなネガティブなこと考えるな!」

とキレる人間はいないはず。

 

あと、自分の子供がもし襲われたら?という被害者ケースしか考えられないのは

俗にいう「うちの子にかぎって」パターン。

そういう親に限って、自分の息子や娘を溺愛するが、家ではいい子ぶっている子供が

学校で旧友をいじめててても、まったく気づかないどころか被害にあった子供の家族が

訴えてきても、スネ夫のままみたいに「うちの○○チャマはそんなことしません!」と

逆ギレするようなイメージがある。もちろん、やや辛口の極論だが。

 

加藤智大死刑囚は母親の教育や、職場の環境で追いつめられた。

子供から大人になるまでのレールの途中で、ポイントを「殺人犯」へと切り替えられた。

これは自発的というよりも受動的といえる。

 

自分あるいは自分の家族、仲間、恋人が被害者になるケースだけを懸念するのは

シビアにいえばある種の自惚れ。

人は誰でも些細なきっかけで導火線に火がつき、被害者にも加害者にもなる。

 

なので幼稚園児や保育園児など小さな子供を持つ保護者の方、小さな子供を教育する

保育士や教師の方々には、その子供たちが何者かに襲われるケースだけ想定するのでは

なく、将来「通り魔」にならないよう、育てていただけたら嬉しい。

 

そして、保護者でも保育士でも教育者でないオレらのような大人もまた、今の子供が

世の中に恨みをもたないような社会を用意しておかないとだめなのだ。

 

大人自体が歪んでしまうと、それこそ宅間守元死刑囚や、この前ひきこもった息子を

殺めてしまった元エライ人にようになってしまう。

 

と、まあ子供にたいする愛情の持ち方を例によってやや極端にエンタメ色いれて書いたけど

実際どうなんだろ?

 

オレは結婚もしてないし子供もいないからほんとのところわからないが、子供にたいする

愛情の注ぎ方のバランスとはやはり経験した人じゃないとわからないんだろうなとは認める。

 

自分がもし結婚してて、子供がふたりいた場合のことをたまに考えてみたりする。

そのふたりに同等に偏らないような愛情を注ぐことはできるだろうか?と。

 

そのふたりの姉妹、あるいは兄弟が、ほぼ同じタイプならできるかもしれないと思う。

 

でも、ひとりが思想もタイプも自分と同じで、もうひとりが自分と正反対だったとしたら

……

 

 

たとえば親であるオレはスポーツが苦手で、純正の文系人間。

身体を動かすことより、本を読んだり文を書いたりするのが好き。

綺麗事が大嫌い。

 

弟のほうは親であるオレと同じタイプだけど、兄のほうが正反対のスポーツマンタイプで

アクティブで、「哲学とかそーゆーのメンドくせえ!」とかいう感じだったら、いくら親であっても

オレは弟と兄にまったく同量の愛情や関心を注げる自信がない。

たぶん多少であったあとしても弟のほうへの愛情が多くなる。

 

いくら血がつながった親子で憎しみの類はないとしても、人格はまったく別のワケだけだから

できるだけ理解してあげたり、話につきあってあげようとしても、知識や思想の差もある

わけだから、そこはどうなんだろ?と思う。

 

ここで思想とかいうからまた複雑に考えちゃう人がいるかもしれない。

じゃあ、ものすごく身近な例えにしよう。

 

アナタは長年の阪神ファン。

子供はふたりいるけど兄も阪神ファン。だけど弟は熱狂的な巨人ファン。

それでも子供であれば寸分の差もなく兄弟同量の愛を注げるか?

 

「5.5」:「4.5」とかの比じゃなく、寸分の差もない「5:5」で、ということで。

 

オレは親としての愛情よりもひとりの人間としての思想のほうが極めて強そうだから

無理っぽい。

違うタイプの子供がふたり以上いたらおそらく愛情の注ぎ方が偏る。

結婚や父親には向かないと思う。

子供ができたら可愛くて考えも変わるよ!っていう人もいるだろう。

それもそれでひとつも可能性として考えているけれど、可能性はあくまでイーヴンだ。

 

昨年から未だ観たことない名作映画を巡っているのはもうご存知だと思われるが

ジェームズ・ディーンの『エデンの東』を昨年だったか観た。

 

 

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――

第一次世界大戦下のカリフォルニア州サーリナスを舞台に孤独を抱えたナイーブな青年の青春と

家族との確執を描いた作品。

旧約聖書の「カインとアベル」を下敷きにしたジョン・スタインベックの原作を、名匠エリア・カザンが

監督したジェームス・ディーンの本格デビュー作。

(amazonより引用)

 

ジェームス・ディーン演じるアメリカの片田舎の青年キャルは、傲慢な父親が兄ばかりを可愛がって

いるように感じ続けている。

だけど、兄とは仲が悪いわけではないというのがミソ。

 

葛藤や父との些細な争いが続く生活の中、ある日母親の存在をしり探す旅にでる。

 

正直いうと、個人的にそこまでハマる映画ではなかったが、古き良き時代の映画だったとは

やはり感じるものがあった。

 

ジェームス・ディーンのルックスというのは、その時代なりのイケイケでヤンチャっぽい感じだと

いう印象だったが、そういうキャラじゃなく本当に純粋で素朴で、寂しがり屋という雰囲気を自然に

醸し出していて、同性からみても存在や演技がまったくハナにつかない。それがよかった。

 

それと……

 

ここ最近の映画って、コメディでもホラーでもなんでも最後に結局、家族の絆を取り戻したり

強めたりして〆るっていう風潮があり過ぎなイメージ。

 

ネタバレとはまた違うと判断したうえで、ひとついってしまうけど「カメラを止めるな」もそんな

印象を与えるラストだった。

「カメラを止めるな」は過去記事でも書いたとおり、決して嫌いな作品じゃないけれど、あの

ラスト演出だけは違和感あった。

 

映画は映画でいろんな演出があっていいし、あくまで基本はエンタメだと思う。

後味が悪くたって、教訓がまったくなくたってそれもひとつのエンタメなのだ。

 

でも今の映像作品ってジャンル問わず、なんでもラストに「壊れかけてた家族の絆が戻った」

みたいな優等生的な無難なオチで終わるパターンが多い。

このパターン、はっきりいってしまうと最後でガッカリする。

映画はあくまで映画。

家族も赤ん坊も最後みんな殺されて終わりだっていいじゃないか。

せっかく面白い作品作ったのに、どの作品もどうして最後に世の良識を忖度する??

はびこる良識をぶっ壊すのがそういう表現者じゃないの?

 

観たのが少し前だから明確にがおぼえていないけど、「エデンの東」のラストは

そういう予定調和じゃなかった気がしたのでそこはオレはよかったと思う。

 

時間できたら「理由なき反抗」も観てみたいと思う。