又吉直樹「劇場」他 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

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先日、映画「終戦のエンペラー」を紹介した。

 

作品のなかで米軍男性と日本人女性の恋がサイドストーリー的に

流れるのだが、DVDを鑑賞したあと、復習の意味もこめて観た人の

レビューを読んでみた。

 

声のひとつに「あの恋愛模様は必要だったか?」というようなもの

があった。

あれはあれであってもよかったが、たしかになくても良かったともいえた。

 

歴史モノにしてもアクションにしてもホラーにしても、大人が観る映画やドラマに

おいてはどうしても男女の恋愛見様は絡まないと話題が集まらないだろうという

考えを作り手が持つのは否めないかもしれない。

 

どちらかといえば子供向けのアクション映画とかであったとしても、スポットや紹介などでは

「登場人物たちの恋の駆け引きなどもあって、大人も楽しめる作品になっています!」

などと、恋愛=大人の娯楽 というような広告戦略が定着している。

 

どんなジャンルの映画にもだいたい恋愛要素は練りこまれてある。

かといって恋愛がメインテーマの映画にホラーやアドベンチャーやSFの要素は、ほぼない。

 

オレは玉ねぎが嫌いなのだが、世間一般ではあらゆる料理に玉ねぎは不可欠と

いわれている。

オレにとっては迷惑な考え方以外のなにものでもないのだけれど、タマネギを好きな

人は好きな人でいるわけだからそれを悪くいうつもりはない。

 

ただ、負け惜しみのつもりでいうわけでもないが、タマネギを使用しなくとも美味い料理

(例えば今日食ったソースカツ丼とか)もいろいろあるわけなのもこれまた事実であり、

タマネギを使った料理が美味いといわれる理由は、あくまで玉ねぎの力であって、料理全体の

力でもなければ、それを調理したシェフの技術でもない、と極端にいえばだがいえるのではないかと。

 

言い換えれば、料理に不可欠だといわれる玉ねぎを使用せずして、最高の料理を拵えることの

できる人間こそが真のプロといえようかと。

重ねていうが好きな人間も多いわけだから玉ねぎの市民権は否定しない。

グリンピースやコーンと同じ頻度での使用ならば文句はいわない。

ただ、苦手な人間からいわせてもらえば、あまりにも素材としての依存度が高すぎる。

原発並みの依存度じゃないだろうか(-_-;)

 

そう、そうなのだ。

 

大人にもウケる映画をつくるのであれば恋愛を練りこまないとダメ……

美味い料理を作るなら玉ねぎは不可欠……

 

モノ造りに当たって、依存はするしその思想は決してはずさないけど、それから脱却しよう

とはしない。

オレがとても気になるのはその姿勢。

 

本当に実力を持つ者や、独創力に富んだ者であれば、‘不可欠’だといわれた要素を

欠いて、それなりの作品を生み出せるものではないだろうかと思う。

 

昨年か今年頭だっただろうか。

「あれ? 相方は今ニューヨークでなにやってんだろうか?」でおなじみのピース又吉直樹の

『劇場』を読んだ。

 

――

一番 会いたい人に会いに行く。
こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。
夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。

『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、
書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。

夢と現実のはざまでもがきながら、
かけがえのない大切な誰かを想う、
切なくも胸にせまる恋愛小説。

(amazonから引用)

 

芥川賞作家でもある又吉が文学の世界へ放った2作目である。

新潮社曰く、この作品は又吉氏がアノ「火花」よりも先に執筆にとりかかってた作品だが

じっくり書いてもらったため、仕上がりと発表が文芸春秋の「火花」よりもあとになっただけ、

とのことだ。

先に受賞作を挙げられた負け惜しみっぽくも聞こえるが、まあそこはどうでもよい(笑)

 

恋愛モノについて、あーだこーだと散々いってきたクセに恋愛小説じゃねえかよ!と

いいたい人もいるかもしれない。

事実恋愛小説だし、それをしってて読んだのも認める。

 

ただひとつ、村上春樹などをはじめ、これまで読んできた恋愛小説とは明らかに異なる

ことがあるのに読了後気づいた。

 

(読んだのがすこし前なので記憶違いがあるかもしれないが)

一般的な純愛小説、恋愛小説においてはそれがたとえ甘美で男女ともにウケるような

上品な描写であったとしても、流れの中でそれなりの行為が描かれるのが定番である。

 

はっきりいってしまえば、キス、セックスなど。

村上春樹の「ノルウェイの森」においては作品中でよく主人公が自慰行為をしていた。

でも一般的にこのような描写は恋愛文学作品に不可欠な要素といえる。

逆の視点でみたらこの要素がひとつもない恋愛作品はまったく読んだことがなかった。

キス程度ならば、アイドル上がり書いた小説にだってでてくるだろう。

 

しかし――

 

又吉直樹の「劇場」においては、記憶の限りだがおそらくこれらの描写が使用されて

いないのである。恋愛小説にも関わらずだ。

恋愛小説という料理に不可欠だと思われている素材を一切使うことなく売れる恋愛小説を

作りだしたのである。

 

しかも違和感はあまりない。

芥川賞を受賞しただけあって「火花」と比べてしまうとさすがにインパクトが弱くなる感は

否めないがそれを踏まえても悪くない作品に仕上がっていたといえよう。

 

しっかりとできあがった恋愛小説なのに、読み終えたらキスもセックスもなかった。

もしかすると又吉がそれをもってこなかったのは、プライドとかじゃなくてただ単純にそういう

描写とか文章が苦手で敬遠してただけ(笑)かもしれないが、それでも結果として必須要素に

依存せず完成させたことは評価に値する。

 

家や建物を造る際には基本クギと金づちは不可欠。

 

だけど、歴史的な建立物の細部を目にしたとき、

「え!この建物これだけ複雑で芸術的な構造なのに、板を組み合わせただけでクギ1本も

使用してねえのかよ!」

と驚く。

 

又吉の作品を読んだあとの感想はこれに近い気がする。

伝わるだろうか?

 

そんな又吉が賞を受賞してからもいくらか経つ。

 

「火花」が掲載されたのは文學界という文芸誌なのだけれど、ついこの前も

文學界新人賞が発表された。

 

まだ若く、大学院?に在籍中のお嬢さんみたいだ。

小さいころから、「将来の夢は?」と訊かれてもとくになく、自分でなにができるのか

したいのかわからないまま、5年ほど前に知り合いから「小説でも書いてみれば?」

といわれて書いていたら、受賞につながったらしい。

 

5年前からか……

オレのほうは6、7年目。

可能性はゼロじゃないな。

諦めるのはまだずっと早いかと励みになった。

 

ちなみに現在、400字詰め原稿用紙で150枚くらいまで進行中。

平日の疲れがシャレにならなくなってきたので、ほぼ土日祝作家になりつつあり(汗)

 

気取ったデザインの小児科。

そんな小児科に病気の赤子を連れてくる富裕層の母親。

病院玄関前に停めている高級そうなベビーカーを見かけたら、懐に忍ばせたハンマーで

そのすべての車輪をガンガン叩いて破壊しその場を立ち去ることで幸福な家庭の一角を崩壊させた

達成感に浸り、生きていることも実感できるような絶望漬けの男が主人公の話をコツコツと執筆中である

(笑)

 

人から「どんな小説書いているんですか?」と訊かれたとき、相手が

「うわ……こいつ、ヤベぇ」

という表情を見せるかというのが楽しみで上のように答えているのだけれど意外にも

「わ!なんかソレ、面白そうっすね!!」

という反応が却ってくるのでちょっと前までは複雑だったが、最近は嬉しいかもしれない。

なんだかんだいって、みんなそういうドロドロは好きなんだなあというのが垣間見れる。

 

 

本の紹介だったので個人的な執筆中間報告もさせてもらったが、今回のもう1冊はこちら。

窪美澄の「さよなら、ニルヴァーナ」

 

 

――

14歳の時に女児を殺害し、身を隠すように暮らす元「少年A」。少年に惹かれ、どこかにいるはずの彼を探す少女。その少女に亡き娘の姿を重ねる被害者の母親。そして環の外から彼らを見つめる作家志望の女性。運命に導かれるように絡み合う4人の人生は思いがけない結末へ。人間の深奥に切り込む著者渾身の物語。

(amazonより引用)

 

内容紹介にもあるように、モチーフとなっているのは少年Aがおこした神戸の児童殺傷事件。

それを軸に震災だの数々のカルト宗教だの平成の時代を騒がせた事件がいろんな背景となって

描かれているのだが、ちょっとトピックを詰め込み過ぎている感はあった。

 

タイトルにあるニルヴァーナというのは文学的にひねって涅槃ではなく、カート・コバーンの

あのバンドのことである。