ザ・ビーチ | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

組織内における人事や配置は一般的に理不尽だといわれており、それは

紛れもない事実であるケースが多い。

 

人が産まれてきて、社会にでるよりもまっさきに経験しなければ

ならない‘理不尽な配置’が小学校や中学校のクラスもしくはクラス替えだろう。

 

人は自分で入りたいクラスを選べない。

だからそれは入学前に先生たちというか学校側に一任するしかないのだが

よくよく考えてみると人生折り返しあたりに差しかかった今でも、そのふりわけを

どのようにしてやっていたのかはナゾでもある。

 

かといって、自分で好きなクラスを選べるとしても、他の幼稚園や小学校から入学から

どんなやつが入ってくるのかわからないから選べるとしてもそれは結果難しい。

 

幼馴染などの仲の良い友人と一緒になりたいという贅沢はいわないまでも

結論として初対面であっても自分と波長のあう新しい友人がいるくらいが助かる。

でも、人生それもまたうまくいかない皮肉なものなのだ。

 

初対面の相手とでも即日すぐにフレンドリーになれる人間にとってはクラス編成は

毎回新しい友人ができたり出逢いがあったりしてウキウキかもしれないが、オレの

ような人見知り芸人予備軍にはかなりの苦境となり、クラスでもひとりかふたりくらいの

専属的な友人しかできなかったりする。

 

誰だったか忘れたが小説家も物語の中で書いていたし、あるお笑い芸人も自分を

紹介する前フリにで、子供時代それが恐怖だったと自虐的にいっていたが、

体育の授業において、ウォーミングアップの体操などをする際に体育教師がよく、

 

「はい!じゃあ、好きな者同志でふたり一組とつくって!」

 

とかいっていた光景を強烈におぼえている。

 

オレは体育の授業に限らず、なにかをする際に教師が口にするこの

「自由にふたり一組をつくれ」

という指令がとても嫌だった。

 

生徒の数が偶数ならばまだいい。

あぶれる人間はでない。

たとえ残り物同志で嫌いな人間と組みになってしまったとしても、そのわずかな

時間だけ耐えればいいのだから。

 

だけど、生徒数が奇数であれば必ずアブレがでてしまう。

基本、生徒数が偶数の組であってもその日欠席者や見学者がでれば実質生徒数は

奇数だ。

 

アブれた人間は、結局体育教師に

「ああ、おまえ相手いないのか? じゃあオレと組んでやろう」といわれる流れになりがちだ。

 

教師と組むことになった生徒は屈辱だ。

教師とそれをやるのが屈辱なんじゃない。

みんな誰か仲の良い相棒を見つけて組をつくっているのに、ひとりだけ相棒を見つけられ

なかった好奇の目で他のクラスメートから見られるのが最大の屈辱なのだ。

 

その授業の時間において、出席している生徒の数が奇数だということを理解していながらも

当たり前のように自然に「好きな者同士ふたりで一組をつくれ」という号令をかける教師の

デリカシーのなさに子供時代から教師としての資質を疑っていた。

 

生徒の心よりも、いちいち偶数か奇数か気にしていられないということが優先されるので

あるならばなおさらだ。

所詮、子供や弱い者の気持ちなどわからないマニュアル教師。

もし、今でもそういう教師がいるのであればすみやかに教育という職を辞していただきたい

ものである。

 

と、まあ理不尽な配置や編成という件についてはそれはそれでこうして毒づいてきたわけ

なのだけれど、じゃあ、気の合う人間や価値観の近い人間だけのコミュニティであれば

それは果たして楽園といえるのかといわれると、またそうではないのが現実なので難しい。

 

仲の良い者同士や、お互い楽しく明るくやってゆこうと考える者同士のコミュニティーも

またスムーズに流れている間はいい。

 

だが、もし亀裂が入った場合の村八分はとても早く、もしかしたら理不尽なクラス編成の

教室内よりもシビアで耐えられない空気が発生するかもしれない。

 

 

 

――

バンコクを旅するリチャードは、安宿でダフィと名乗る奇妙な男から"伝説のビーチの話を耳にする。

そこは美しすぎるほどに美しく、全ての日常から解放される夢の楽園──。

その翌日、1枚の地図を残しつつダフィは変死。リチャードは地図のコピーを手にし伝説のビーチ

を目指す。しかしそれは狂気に満ちた世界のはじまりだった……。

(amazonから引用)

 

レオナルド・ディカプリオ主演のこの映画は当初ただの冒険モノかと思っていたが

そんな風刺も含んでいた作品。

 

「いつもみんなニコニコ、明るいクラスにしよう!」とクラス内で決められたスローガンが

貼られた教室。

「ネガティブ発言禁止!」という規則が書かれたオフィス。

 

いいたい気持ち、書きたい気持ちはわからないでもない。

 

でも所詮人間なのだから、ときには感情に左右されて弱気になったり、ときには哲学的に

考えをめぐらせて、考え方をひっくり返しそれを訴えたりする者もでたりするだろう。

 

ただ、そういう人間がひとりでも現れると、「みんな仲良くわきあいあいムード」は激しく一転

する。

 

「どうしてみんなが楽しくやろうとしているときに、そういって水をさすんだ!」

「おまえみたいにみんなの輪を乱すやつはいらない!でてゆけ!」

 

となりがちである。

 

問題ないときの光景はまさに楽園かもしれないが、ちょっと異なることを提案するならば

‘みんな’の楽しい気分を守るという大義名分にて、‘ひとり’が必要以上に迫害される危険が

高い。

 

俗にいう「仲良しクラブ」とかまたちょっと違うと思うけれど、団結力の強さとかチームワークとか

一体感という言葉は、一見とても素晴らしいモノのように聞こえるが、同時に諸刃のカミソリであり

もし自分たちの気持ちよさや居心地の良さを落とす者が現れたら、その者を排除する理由と

して使われるということを我々はしっかりと自覚しておかなければならない。

 

「そういうことをいうと、みんなが嫌な気分になるんだよ!」

と口にする人間がいるが、そういう輩はたいていみんなじゃなくて自分が嫌な気分になるから

そういうのだ。

 

だけど、「オレが!」というと自分中心みたいに響いて聞こえるから、あたかも自分の意見は

その他大勢の意見と同じだ!というふうに「みんな」という言葉に変換して自分を正当化する。

 

なにかあれば「みんなが!みんなが!」とすぐいう人間。

そんな人間の言葉だけには耳を傾けるな!

ということを声を大にして、今この記事を読んでくれているみんなにオレはいいたい。