解 (Psycho Critique) | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

先日の夜は、これまたちょっと久々に顔を合わせる男性と吞んできた。

彼はまだ若くてオレよりもけっこう下だ。

近況報告をはじめとして、互いのこれからの過ごし方を語り合ったりした。

 

彼はオレのブログは読んでいない。

SNSをやっているということは伝えているが、それがアメブロだということは

いってないので、自分で探してここを発見していない限りは観ていないはず。

 

だけど、顔を合わせていた時や、その後も連絡を取り合っているときに、

どこへ行ってきたとか、誰とあってきたとかいう話はしているので、オレが

ブログに書いている内容と同じことはだいたいしっている。

 

それをふまえてうえで、いくらか酒がすすんだころ興味深々にこう訊いてきた。

 

「○○さん、次は誰に会おうかっていうのはもう決まってるんですか!?」

 

‘誰’というのは、もちろん旧友とか知り合いとかそういう存在ではない。

‘多くの人がしっていて、なおかつ話題になった人’ということである。

 

すこし前に群馬の先輩と電話で話した時も、まったく同じことを訊かれた(笑)

それだけオレの「取材」に興味を持ってくれはじめていると思えば、それは嬉しいことである。

ちなみに一か月くらい前に立川に十兵衛という店で高校の同級生と吞んで、近況報告を

した時は、同じように興味はしめしていたけど最後にひとこと

「でも、友達としてなにかヤバいことに巻き込まれたら嫌だから、そこは気をつけてね」

と、心配された。

それもそれで友人としてはありがたい思いだ。

 

正直、誰かに会いたいとは考えている。

その若い彼からは、

「○○さんのそういう行動力の根底にあるのは、知的好奇心なんですか? それとも

昔から純粋にそういうことに興味があるとかなんですか?」

とも訊かれた。

 

「両方だよ」とオレは答えた。

 

知的とかいうほどの大した思想じゃないけど、事件を報道するメディア以外においても

なにかあると重要な箇所だけカットして、相手や大衆に伝えられたりするケースって

とても多い最近改めて感じた。

 

それと簡単にいうと先入観。

小学校のころ、子供の目線から見てもあきらかにオカシイ先生がいたりして、それを

他の大人に相談しても、

「アナタはまだ子供だからわからないかもしれないけど、あの先生はきっとあなたたちのために……」

みたいなことを現場も見ずにいわれたりした。

 

また大学在学中から就職活動してて、社会人経験のないオレから見てもあきらかに無能だったり

訊いてくる点がオカシイ面接官も多数いた。

だが、それを周囲にいっても、

「相手は何百人も人を見てきたプロだから、内定でないのはおまえができていないんだよ」

とかいわれたりもした。

 

前者においては第3者の考え方からして、現場を見るまでもなく「子供」と「教師」だったら

幼い子供のほうがわかっておらず誤解してるんだろうという思い込みが存在している。

 

後者においては、「数をこなしている面接官」と「社会にでたことのない学生」だったら、

きっと学生のほうが未熟で甘えているという決めつけが第3者に存在していると思う。

 

オレはそういった風潮にかなり前から違和感をおぼえていた。

 

その風潮のずっと先にある延長的なもので、もし繁華街で刃物を持って暴れたやつがいた

として、逮捕されたあとメディアがテッテー的に人格批判するのを耳にすると、オレらも

「殺人犯だから」という結論だけで、そのまま鵜呑みにしてる部分はあるんじゃないだろうか?

動機などとして、伝えなければいけない部分が実はかなり編集されているんじゃないだろうか?

と改めて感じた。

 

メディアというフィルターを通さない声を聞いてみたいという願望があったのは、きっかけの

ひとつ。

酷い罪を犯した者をかばうつもりもない。極刑にするなというつもりもない。

ただ、どんなにひどい凶悪犯であったとしても、情報として間違っていたり、偏っている

部分だけははっきりさせたうえで糾弾したいと考えている。

だとしたら本人、もしくは本人と近いところにいた人間と接触して真実を訊くしかない、といった

ところか。

 

死刑囚と面会にゆくっていうのはどう?

という声ももらったことがある。

 

正直、すこし前にそれも考えた。

だがいろんな意味でムリ。

以外としらない人がおおいが、基本として家族以外の人間は死刑囚と面会することは

できない。

これは法務省のHPにも表記されている。

仮に面会できるとしても、それは死刑囚側もOKしていればという条件も重なる。

そして凶悪犯罪を犯した人間のほとんどが、誰とも会いたくないという姿勢だ。

 

恥ずかしながらオレも面会できないとしったのは、比較的最近だから、そのちょっと前は

マジで拘置所とかに収容されている日本の死刑囚とかしらべるところまでいって

しまった(汗)

 

つい最近の事件から、名前見て「ああそんな事件もあった」と思いだすような死刑囚名が

たくさんあった。そして既に執行された囚も。

 

和歌山毒カレーの林眞須美……

連続不審死事件の木嶋佳苗……

池袋のハンズ前でハンマー持って暴れた造田博の名前もあった。

 

池田小襲撃の宅間守や、幼女誘拐の宮﨑勤、土浦連続殺傷の金川真大の死刑は

既に執行されている。

土浦の金川の事件は、友人のひとりがたまたま近所に住んでいたこともあり、一度

遊びにいった時、事件直後の現場に連れていってもらったことがあった。

 

いずれも罪のない人を巻き込んだ凄惨な事件だったが、だからといって動機は背景を

うやむやにしたまま死刑にしたり、メディアや警察からの情報したリリースされないままで

執行したのでは、なんの解決もならない。

 

かなねていうが、それは決して凶悪犯をかばうとかいう意味ではない。

まだ生きている自分たちのためである。

 

彼ら彼女らが凶行に走った原因が社会の病理にあるのであれば、事件をもとにそこを

治さない限り、いつかどこかで、きっとまた誰かが殺る(やる)。

 

そして報道も視聴率や雑誌販売数をあげるために、真実に紛れて必要以上なセンセーショナルを

盛るかもしれない。

 

そういった連鎖と過熱を防ぐために、たとえ相手が殺人者であろうと本人の声も聞くというのは

重要だと思われる。

 

と、いうところだが、さっき書いたとおり一般人は死刑囚にはあえない。

だから、本人の声を聞くのであれば、本人が獄中で書いた本などを読むしかないのだ。

書いてあることが嘘か本当か、本心か建前かということまではわからないけれど。

 

で、前ふりがかなり長くなったが、ここで記事タイトルにもしてある本題。

 

オレが気になる死刑囚のひとりに「加藤智大」がいる。

秋葉原事件の加害者で、今は東京拘置所の収容されている。

 

その加藤が書いた手記。

『解 Psycho Critique』

をこの前、読んでみた。

 

―まずお詫びを申し上げます。

2008年6月8日、私は東京秋葉原で17名の方を殺傷しました。

直接被害にあわれた方やご遺族をはじめ、その関係者の方には本当に申し訳なく

思っています。その刑事責任は逃れられるものではないと考えますし、逃れるつもりも

ありません (中略)

私はその怒りもきちんと受けとめて死んでゆくつもりです

 

という文章から本ははじまる。

 

 

 

読了したうえでの感想を先に書いておくと、言うまでもないが凶行の理由が無実の人を何人も

殺すに値するには当然至らない。

 

度合はともかく加藤も加藤で母親からきつい教育をされ、世の中にでてからもいろいろ理不尽なこと

を経験したのはきいてきたが、だとしても無関係の人たちに刃を向けた時点でアウトだ。

いかなる言い訳も無力化する。

 

ご遺族の気持ちを考えると、そのへんに関しては加藤の肩を持つつもりは微塵もないし、

加藤の死刑に反対するつもりもない。

 

ただ……

この本を読むと、書かれている内容や動機は稚拙だったり、すごく狭い世界観だったりするが

嘘を書いている気配はない。レビューにもそういう声があった。

 

そして、行った犯罪にかんしての説明はあまり深く書かれていないが、報道による我々への

印象操作については、悔しいが「ああ、そうだったのか……」と思わされる部分はいくつかあった。

 

あまり書くと出版社への販売妨害になるから、いくつかの例だけ抜粋して挙げてゆく。

 

まずはじめに、事件がおきた翌日あたりのテレビや雑誌の報道を思い出していただきたい。

 

加藤とをつなぐワードとして、なにかとサイトの「掲示板」というワードが連続してでてきていた

ことが思い出される。

 

加藤のいでたちとメディア情報の仕方からして、オレも当時は

「現実社会で人とのつながりを拒絶し、ネットの世界に依存しているオタク青年」

というイメージを持ってしまっていた。

 

だけど、この本を読んでみるとなにやら違う様子である。

 

本の中で加藤は、こう書いている。

「私は肉体的な死には特に感じるものはありませんが、社会的な死は恐怖でした」

と。

 

加藤のいう「社会的な死」。

それはつまり現実社会における孤独。

 

読んでいて意外だったが、加藤において掲示板というのは当初軽い趣味のひとつに

過ぎず、本来の加藤はとにかく日常生活で誰かとつながっていないといやで、

孤独をひたすら恐れていたようだ。

 

しかもその誰かというのが、自分と同じような内向的なタイプに限らず、本当に誰でも

いいから接点を持っていたかったようだ。

 

自殺を考えたり、母親から家を追い出された時の移動においても、歩くよりかは知らない

運転手さんと話したりできるからヒッチハイクを選んだりしていたようだし、実際自殺しようと

して停めた車の中にいた時も、見つけて声をかけてとめた警察官から、

「生きていれば、いいこともぜったいあるから」と励まされ、人の温かみを感じ涙したという

エピソードはテレビでもやっていた。

 

オタクでもヤンキーでも大人でも女性でも誰でもいいからとにかく加藤は、誰か生身の人間と

つながっていたかった。

だが、生活しているうちに加藤を雇う職場などは解雇や嫌がらせなどで加藤をどんどん人と

関わりのない状況へと追い込んでゆき、やがて人とあう時間もなくなり、加藤は孤独になった。

 

加藤は人と一緒にいることで幸せを感じるため仕事をはじめたのに、仕事をはじめたことに

よって人から離されてゆくのは本末転倒だったと書いている。

そして、前にも書いたとおり家庭も家庭でひどく、加藤は母親から家も追い出され、完全に

人の世界から断絶された。

 

そしてそこではこう書いている。

 

「帰る家を失った私は、代わりに掲示板に帰ることになりました。

私にとって掲示板が、友人と話をする居酒屋のようなものから、家族と話をする家のようなものに

なりました」

 

つまり加藤にとって、掲示板というのは当初登録とか書きこみしているだけの存在だった。

出来る限りは、ネットの世界よりも現実の人たちといつもかかわっていたかった。

 

だけど解雇で職場は追い出され、あげくの果てには母親から家まで追い出され、帰る場所も

話す人も誰もいない。

 

それで、やりとりの相手をしたり話を聞いてくれる人がいる‘ネットの掲示板’で人とつながるしか

なかった。

どうやら、これが真実のようだ。

 

つまり、

‘最初からネットや掲示板に依存していた’のではなく、

‘最後にネットや掲示板に依存してしまった’ということに捉えられる。

 

事件に至るまでの詳細や流れとしては、マスコミや世間の流布よりも加藤の説明のほうが正確

だろうとは思う。

ただ、そうだとしてもやはりその掲示板の件が引き金となって、無実の人の命をたくさん奪う

凶行に走ったという理由はあまりにも稚拙で理不尽極まりなく、弁解や酌量の余地はないだろう。

 

最後にあとふたつ。

 

ひとつは加藤の外見コンプレックス報道について。

 

加藤はかの掲示板に自分はブサイクだからとかいったことを書きこんでいた。

マスコミはそれをクローズアップし、カッコイイ人間にたいする嫉妬も事件の原因だと書いたが

加藤曰く、それは自虐ネタで本気ではないとのこと。

 

加藤がいうには自分はどうしようもないブサイクだとは思っていない、イケメンかブサイクかの

二択でいえばブサイクだという程度だと書いている。

でも、当たり前のことや中途半端なことを書いても掲示板に書いても面白くないから

大袈裟に書き、自虐ネタで人が笑ってくれればそれが嬉しいと書いていた。

 

加藤本人の味方をするつもりはさらさらないが、この自虐の件に関していえば、オレも自虐ウケの

タイプなのでちょっとわかる。

 

報道で煽っていたマスコミも、もしかすると自虐だとわかっていたのかもしれない。

だけど、加藤としては‘自虐’のほうが面白いが、マスコミとしては‘妬みによる凶行’として報道した

ほうがセンセーショナルで大衆が食いつく。

意味合いは違えど、いい方によっては双方とも確信犯である。

 

最後にもうひとつだけ、加藤が書いていたことを紹介して終わろう。

 

この秋葉原事件のような無差別殺傷事件が発生すると、犯人の発言としていつも

「誰でもよかった」

「むしゃくしゃしていた」

といったことが警察発表される。

 

加藤の事件の時もそう発表されたが、加藤曰くそんなことはひとこともいっていないという。

 

事件があると発表されるそういったコメントはいわば、犯人のコメントではなく警察の調書

内容に書いてあることだという。

恥ずかしながらオレもそれはしらなかった。

 

犯人には黙秘権がある。

たとえば、連行されてから取り調べ室でずっと黙っていて、取り調べの刑事が

「誰でもよかったんだろ?」

といってきた時だけ小さく頷いたら、それでもう調書には「誰でもよかったといっている」

と書かれるらしい。

同じように「おまえ、むしゃくしゃしてるのか?」といわれた時に小さく頷いたら調書に

「むしゃくしゃしていたとのこと」

と書かれるらしい。

 

容疑者が黙っている場合、調書が白紙だとまずいから、とりあえずなにか訊いて、

本気かいい加減か関係なく相手が頷いたら、さじ加減で調書に書いて、それが

発表される流れらしい。

 

大事件をおこした加藤本人もこう書いていた。

「今までニュースを見て、通り魔とかをやった人はどうしてみんな『誰でもよかった』とか

同じことばかりいうのだろう?と思っていたら、そういうことだった」

と。

 

 

誤解のないように最後に改めていっておく。

 

加藤のやったことは結果としてどう考えても許されない。

だけど、今後また加藤のような凶行に走る人間を生み出さないためにも

加藤の背景にあった一部の社会病理はしっかりと認めないといけない。

 

そして、一連の報道において、

「重度のネット依存」

「自虐と嫉妬の見極め」

「警察発表の犯人コメント」

のこの3点においては、オレも垂れ流される情報を鵜呑みにしていた部分があったと

素直に反省する。

 

ちなみに死刑囚が書いた本にかんしては、林眞須美が書いた家族との書簡、

「死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら」も途中まで読んだが、

こちらはピンと来なかったので途中でリタイア。