村田沙耶香「しろいろの街の、その骨の体温の」 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

子供の頃、遠足当日の朝、集合場所である学校にゆく途中で同級生の誰とも

遭遇しないと不安になる。

 

日にちを間違えたんじゃないか?

集合時間を間違えて、みんな既にバスに乗って出発しているんじゃないか?

そう思い始める。

毎回そう思っていた。

 

途中、仲の良い友人とかと会うと一瞬ホッとするのだが、その友人の知能レベルが

限りなく自分に近かった場合、

「もしかすると、こいつもオレも二人そろって集合時間間違えてんじゃないか??」

とまで考えることもあったから重度の心配性だったかもしれない。

 

でも実際、遠足当日の朝というのは特別な寂しさと閑散さが存在したような気がする。

ふだんの登校時間よりも多少早い時間帯だったというのもあるかもしれないが、

それをふまえても、いつもに比べて外を歩いている人間自体が少ないような気がしていた。

心理的なものかもしれないが。

 

だけど、集合場所の学校に到着してみると、よく見る顔ばかりが集まった賑やかさが

急に顔を見せる。

 

元旦の朝、とりあえず起きてカーテンを開けて外を見た時の感覚はなんとなく

当時の遠足当日の朝の寂しさに似ている。

 

ある意味で大きなイベント的な日で特に早朝というわけでもないのに、歩いている人の

姿がほとんど見えない。

車もあまり走っていない。

 

寝ている間に、地球上の人間がオレだけおいてみんなどこかへ消えてしまったような

錯覚に陥る。

とりあえず外に出る。

朝刊を買おうと近所のコンビニへゆくと一応店員はいる。

だけど客はあまりいない。

 

ところが遠足の集合場所と同じで、神社およびその近くまでゆくといきなりたくさんの人が

姿を見せ、急に熱気を感じ出したりする。

 

起きてカーテンを開けた時に見た外の世界はとても冷たい氷の惑星のように映ったのに、

初詣で人が溢れる神社周辺はまるで最後の楽園のように熱と笑い声で溢れている。

 

そういう時、街や場所にも体温というものがあるんだな、と思う。

 

このブログではもう3回目か4回目の紹介になる女性作家・村田沙耶香の

三島由紀夫賞受賞作、

「しろいろの街の、その骨の体温の」

の舞台もそんな低温と常温の交差する街。

 

――工事の音が消えて、生き物のように成長し続けた町は、今では新品の廃墟のように

なっていた。

――この静かな白い世界にいると、自分が埋葬されているような気分になる。

※本文から引用。

 

舞台はそんなニュータウンにある学校の教室。

転校生の回転も多く、当然のようにスクールカーストもある。

 

そんな教室内における男女の物語。

 

――クラスでは目立たない存在である小4の結佳。女の子同士の複雑な友達関係をやり過ごしながら、

習字教室が一緒の伊吹雄太と仲良くなるが、次第に伊吹を「おもちゃ」にしたいという気持ちが強まり、

ある日、結佳は伊吹にキスをする。

愛とも支配ともつかない関係を続けながら彼らは中学生へと進級するが――

野間文芸新人賞受賞、少女の「性」や「欲望」を描くことで評価の高い作家が描く、

女の子が少女に変化する時間を切り取り丹念に描いた、静かな衝撃作。

※解説から引用

 

村田沙耶香らしいストーリー。

 

支配欲?の強い少女が、純情な友人少年を愛しく思うあまりいろんな言葉や行動を仕向けてゆく。

 

今でこそ議員など高い地位にある男性の女性に対するセクハラ疑惑などがあとを絶たないが、

小学校や中学校の頃は、性に対する抵抗感やはじらいが男女逆転する時もあった。

(個人差はあるという前提で)

 

早熟の女子のほうがそういう言葉をしっていたり、やらしい写真とかを面白がったりして、

逆に純情な男子のほうが、そういう話題になると顔を真っ赤にして無口になったり、

やらしい写真などを見せられたりすると必死に目をそらしたりする。

 

この作品の中でもそんなシーンがあり印象的だった。

 

主人公の結佳は伊吹と一緒にいるとき、捨てられている大人の本を見つけた。

結佳はそれが‘やらしい本’だとわかると、ごく自然に伊吹に見せつけた。

 

「オレ、そんなの興味ない!」と照れながら戸惑う伊吹にたいし、結佳はすごく冷静に

「男の子はみんなこういうの大好きだって、先生がいってたもん」と言い放つ。

 

村田沙耶香はこのへんの描写が生々しくて巧い。

こういう光景って実際ありそうだ。

今もどこかでさりげなく起きているような気もする。

 

時々、性の表現にこだわりすぎて引き気味になったり、文章の流れ自体がタイクツっぽく

なることもあるのだが、ちょっと眠くなってきたかなってあたりになって、人生的に共感を得るような

一文とかをブチこんできたりして、作品への興味を呼び戻そうとするあたりがまたなんともズルい

ところだ(笑)

 

――見返すなんてばかみたいだな、と私は思った。

見返すということは、相手と同じ価値観を共有するということだ。ピラミッドの存在を肯定するという

ことだ。

 

――みんなが受容しているこの光景に、「不気味」という言葉を使ってもいいのだなと、

ぼんやり思っていた。

 

――言葉は色鉛筆に似ている、と私は思った。今までは太陽を塗るときは赤色、海を塗るときは

青色の色鉛筆を、なんとなく大きな力に従って取りだしていた。

けれど、太陽を真っ青に、海を真緑に、好きな色鉛筆を取りだして塗りあげていってよかったのだ。

 

いずれもオレの価値観とシンクロしている。

 

「見返す」というのがバカみたいだというのは、ずっと前に記事で書いた。

自分でもいつ書いたかおぼえてないからリンクしないけど(笑)

 

 

色鉛筆の例えもなんかわかるな。

 

太陽の色を塗る時は赤って決めつけている人間は、仕事でいえば

「昔の人がそういってたから」

「他のみんなもそうやっているから」

「成功した経営者の自伝にそう書いてあったから」

などという理由で頑なにその方針にこだわっている人と似ている。

 

他の色で塗ってみようっていう自身の発想が皆無。

赤でどれだけ他の人よりきれいに塗りつぶせるかという発想に支配されている。

多少悪い言葉になるが、いってしまえば「高度で丁寧な猿マネ」。

 

二番煎じ、三番煎じで生きてゆきたいのならそれは個人の自由だが、

それでは新しいモノはまず生み出せないし、そういう人間が新しい物を創造しようと

するのを否定するのは本末転倒である。

 

そんなオカシイ風潮の中で、村田沙耶香や羽田圭介や朝井リョウなど、ヘタな大人よりも

鋭い感覚や着眼点を持った若手作家たちが文学界にいるというのは実はとても貴重な

ことなのである。